魔の供物
「姫様、お食事をお持ちしました」
岩牢に、膳を運んできたのは紅毛の伴天連である。
暗がりの中でも、栗色の髪と瞳、痩せて無精髭もはやしている容貌がわかる。
千鶴には、異人の見た目で歳の頃を判別できないが、声の張りからしてまだ若い部類だろう。
言葉もどこか異国の訛りがあるが、まず流暢といってよかった。
膳には、炊いた飯と香の物、椀物と平(煮物)がある。
牢の中で食すには、かなり贅沢なものとなっている。
「…………」
「どうか召し上がってください。お身体に障りますから」
「一体、わたくしはどうなるのでしょうか」
ようやく、千鶴は口を開く。
この異様な状況と集団の中にあっても、神の教えを伝導する者への尊崇の念からであった。
「ご安心ください。姫様は、奇蹟を宿したお方です。このような形になってしまいましたが、御身を害する気はございません。その聖痕を、切支丹同胞に示していただければ、それでよろしいのです」
「この傷を、ですか」
そっと、千鶴はおのれの掌を見る。今は、血は流れていない。
尊き救い主が、十字架に磔にされた際、掌に釘を打ち込まれたときにできたものと同じ傷。
ずっと自分の身に起こる変調、奇病と思っていたものが奇蹟なのだという。
「今、我ら切支丹は信仰の危機にあるのです。わが故郷の地では異端を巡る争いの渦中にあります」
その伴天連は、心苦しげに告げた。
日本は太平の世にあるが、同じ頃のヨーロッパは新教派の反乱きっかけとした三十年戦争のさなかにある。
宗教を巡る争いは多国間干渉に発展し、争いは複合的に泥沼化している。
加えて、ライン川が凍結するほどの気候の寒冷化による凶作、さらには黒死病と恐れられたペストのほか、コレラ、チフスなどの疫病の蔓延もあってヨーロッパの人口の三分の一が激減したとされる。
無論、海の向こうの事情など千鶴も知らぬことだが、誰しもが救いを欲している時代であった。
「また、この国では我ら切支丹同胞は激しい弾圧を受けております。伴天連たちも殉教を遂げる者、苦しみに耐えられず転ぶ者も相次いでいるのです」
「…………」
「私には、姫様こそが苦境に喘ぐ切支丹同胞を励ますために天守様が遣わしたお方に思えてなりません」
「そんな、勝手です! 確かに、わたくしは母様を通じて神の教を知りました。今まで、誰にも明かさず信心を捧げてきました。ですが、そのようなものを背負わされるなど思ってもみないことです」
「……もっともなお嘆きです。多くの先人が、大きな使命があることに戸惑いました。ですが、信仰ゆえに自身が選ばれた意味を知り、その使命を自覚するのです」
「伴天連様も、そうなのですか」
「私は、マニラでペトロ・カスイ岐部司祭と出会い、ともに神の教えを広めようと入国しました」
ペトロ・カスイ岐部は、大友氏の重臣の子で有馬の神学校に入学し、幕府の禁教令によってマカオに追放された。その後、司祭の叙階を受けるためにインドからペルシャを経てヨーロッパを目指し、途中エルサレムにも赴いている。ローマにたどり着いてその念願を果たすと、イエズス会士となって希望峰を回ってゴアへと辿り着き、マニラを経由して薩摩鹿児島付近の吐喝喇列島で座礁、坊ノ津に上陸した。
その後、上方まで逃れ、慶長の頃より切支丹が多かった仙台に潜伏している。
「神の教えを広めるためだけに、この国へきたのですか」
「ええ、私が神から授かった使命と心得ています。姫様にも、真実を求めるお心が宿っておられるはず」
「わたくしには、わかりません。お咎めを受けたら、どんな恐ろしい目に遭うか」
「それもまた、試練と思えば恐ろしくはありません。その先には必ず救いがあるのですから」
伴天連は、安らかに微笑んだ。
千鶴に刻印された聖痕に、希望を見ているかを物語るものであった。
徳川幕府による迫害は、キリスト教史を紐解いても類を見ないほど残虐にして陰険なものである。信仰を守ったがゆえに死に至る殉教は、信徒にとっても神の国へと導かれる救いとなる。よって、幕府はその教えが真実ではないこと示すため棄教――すなわち転ばせようとした。
実際に、穴吊りという拷問で、イエズス会区管長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教に追い込まれている(同時に穴吊りにかけられた天正遣欧使節最後の生き残り、中浦ジュリアンは殉教した)。
穴吊りは、掘った穴に汚物を流し入れ、頭から逆さに吊るすというものだ。このとき、身体は内臓が下がらぬようきつく縛り上げ、耳の後ろから血が抜けるよう穴を空ける。こうすることで苦痛が長引き、簡単には死なぬようになる。さらには転べ転べと囃し立て、精神的にも追い詰めていく。
これほどに過酷な状況にも関わらず、なお布教のために入国したという。
「お話のところ、申し訳ない」
「これは、世槃様……」
背後からかかった意外な声に、その伴天連は振り返った。
逆卍党の首領、榊世槃であった。
若くして異様な忍者集団を統べるこの青年について、彼は常から異様なものを感じていた。
キリスト者としての同志ではあるが、両の瞳の色が違うという不思議な容貌と従えた怪しげな連中への不審感が拭えずにいる。
「姫様にお役目を説いておられたか」
「はい、か弱き子羊たちの拠り所になっていただきたいと」
「ならば、それがしがまことのお役目を教えて進ぜねばなりますまい」
「まことのお役目? それは――」
答えを聞くまもなく、その伴天連は絶命した。
世槃が抜き放った刀が、深々と心の臓を貫いたのだ。
「ああっ!? 伴天連様……!」
あまりのことに、千鶴が声を上げる間もなかった。
世槃が刃を引き抜き、血振りする。
これを合図としたかのように、洞穴内に多くの喧騒と悲鳴が反響する。
「姫様、あなたのまことのお役目は悪魔への捧げものとなることだ」
そう言って、榊世槃は底冷えするほど不気味に嗤った。




