出生秘事
小仏の峠を抜けると、底沢という地につく。
ここには美女谷を流れる美女谷川がある。
名の由来は、浄瑠璃や歌舞伎にもなった小栗判官に登場する美姫照手姫が上流の七ツ淵で髪を洗ったことにあるという。
夕暮れ時、夢見客人と瞳鬼は焚き火を起こし、沢で身体を休める。
特に、オオススズメバチの毒を浴びた可能性がある瞳鬼は、着物を洗う必要があった。その毒の匂いを追って、蜂を使う歩き巫女たちが現れるということも危惧される。
「今のうちに、身を清めるといい。拙者が番をしよう」
「あ、ああ……」
客人は、瞳鬼に背を向けている。
流れる沢の水で身と着物を洗えば、蜂の毒も落ちよう。
しかし、瞳鬼の胸に灯った娘らしい恥じらいがそれを躊躇わせる。
着物を脱ぎ、客人が今振り向けば、生まれたままの姿を見せることになる――。
江戸郊外の廃屋敷で糸巻髄軒に嬲り者にされかけたとき、胸の膨らみを晒している。
――醜女の裸など、誰が好き好んで見たいと思うものか。
惨めに思う気持ちと裏腹に、鼓動が早鐘のように高鳴ってしまう。
「落ち着かぬなら、もう少し離れていようか?」
「かまわん、左様な気遣いは無用だ……!」
「それはすまなかった」
背を向けたまま、客人と言葉を交わす。
その間も、恥ずかしい部分を隠さずにはいられない。
ますます惨めになるというのに、女の性というものは捨てられぬのかと否応なく自覚させられる。
「お前は、敵が多すぎる。歩き巫女までも狙ってくるとは……」
「望んで敵に回した覚えはないのだが。拙者など、暇をしているくらいがちょうどよいというのに」
「その腰の物のせいであろう」
「これは父の形見だ。しかし、顔も見たことがないゆえ、その義理に生きるつもりはない」
「では、母はどうした?」
「母の名も知らん。物心ついた頃に一緒に追ったのは、爺くらいだ」
「爺だと?」
「拙者の育ての親だ。この村正とともに赤子の拙者を抱え、戸隠の山に落ち延びたと聞いている」
「もしや、その爺というのは……」
真田に縁があって戸隠山に落ち延びたとなると、瞳鬼には思い当たるものがいる。
真田十勇士の筆頭、猿飛佐助である。
大坂夏の陣で主君幸村が討ち死にすると、佐助は薩摩に落ち延びたとの風聞がある。
猿飛佐助は、甲賀流開祖とも言われる戸沢白雲斎と鳥居峠で出会い、忍術の師と仰いだ。この師に出会う前は、戸隠山で修行をしていたという。
幻術変化の達人と言われる佐助ならば、薩摩に逃れたと人を欺き、幸村の遺児を連れ、戸隠山に身を隠したというのも想像に難くない。
つまりは、夢見客人の育ての親は猿飛佐助だ。
「ついぞ爺としか呼ばなんだ。山野で育った拙者は、山猿同然でな。亡くなった爺が名のある忍びと知ったのは、山を降りた後のことだ」
「そうか。忍びの術にも通じるのは道理だな」
夢見客人は忍者を多数敵に回しても動じることはなかった。
武士をだまし討ちにするのが、忍びの戦い方だ。
育ての親があの猿飛佐助ならば、合点がいく。
足運び、体術、手裏剣に鎖、隠形の術も、手ほどきを受けたのかは別にして、ともに暮らすのならば親しみ、学ぶ機会もあろう。歩き巫女綾女が使う蜂使いの術も対処できた理由はその出自にあった。
「村正とともに、父の仇を討つつもりはない、と」
「ないな。武士が勝手に争って決めた天下だ、市井の民百姓には誰がなっても関わりのないこと――」
「なんだと……!」
当代の武士らしからぬ言であった。
武家の棟梁である将軍には、忠義を尽くすのが世の習いとなっている。だというのに、天下を治めるのが徳川家であろうがなかろうが、世を治めるならば誰でもよいと言い切ったのである。
主を持たぬ、天涯孤独の無頼の剣客なればこそだろう。
「民百姓あっての武士だ。にもかかわらず思い違いをしたなら、この村正は祟りを為そう。土井大炊殿には、そう伝えるがいい」
「……わ、わかった」
瞳鬼は、続く言葉を飲み込むしかなかった。
夢見客人は、天下を覆す気はないが、さりとて徳川に忠義を働く気もない。
しかし、良民を苦しめるのならばその限りにあらず。
お世継ぎ殺し村正に秘められたものが牙を向き、祟るというのだ。
「さ、川の水は冷たかろう。早く火に当たって乾かすといい。そうしてくれぬと拙者も目のやり場に困る」
「ま、待て!? こっちを向いたら承知せん!」
慌てて、ばしゃりと水音が立った。
春も終わろうというが、澄んだ水はまだ冷たかった。




