晩春恋情
千鶴の身体に現れた変調、そして秘密――。
暇人長屋の面々は、それ以上の追求をすることはなかった。
しばらくはぐれ医者の刃洲の許で療養することが進められたが、大した変化はない。
夢見客人と言えば、その後またふらりとどこかに行ってしまい、朝を過ぎても帰っては来ていない。
滅法衆と名乗る怪僧たちを退けた後ということで、天次郎や晴満、美鈴に託してあるとのことだが、行き先もわからないというのは不安である。
夢見様の身の回りをお世話をする――。
そう決めた千鶴であったが、これでは世話のしようがない。
「もうしばらく、横になっていてもよろしいが」
「いえ、大丈夫です」
刃洲はそう言うものの、千鶴は落ち着かない。
ときどきやってくる患者を看るための手伝いをする。
刃洲は二軒長屋と言って、長屋の部屋をつなげて一方を診療の間としている。
評判も良く、朝から見てもらおうと並び、近所の童女や老婆もその手伝いにやってくる。
なんでまたこのような長屋にいるのか、わからない人物である。
客人が戻ってきたのは、昼前のことである。
診療部屋の上り口に刀を置いて、すっと腰を降ろした。
「先生の手伝いとは、関心にござる」
「夢見様、お戻りになられたのですね! 一体、このような頃までどちらに?」
「いや、それはだな……」と客人は優麗な眉をひそめて千鶴から目を逸らす。
そのやり取りを端で聞いていた刃洲が、くつくつと笑う。
「夢さんよ、少しは遊びも懲りたのではないかね」
「あの、刃洲先生。夢見様が何に懲りたのでしょう?」
「それは私の口からなんとも、な」
普段は厳しい顔をしている刃洲だが、このときはずいぶん人の悪い笑いを浮かべている。
「いや、先生。誤解だ。その、半分ほどは誤解でもないのだが」
客人も歯切れが悪い。大分言いにくいことのようだ。
「浮世の夢よよ、誰憚ることのない遊び人の夢さんも、しばらくは控えどきか。美鈴殿も少しは安心であろうよ」
「いやいや、四郎兵衛に巻き上げられて遊ぶところではないよ」
「あの、おふたりとも、何をおっしゃっているのでしょうか……?」
千鶴には、なんのことなのかさっぱりわからず、きょろきょろしているのだが、その様子が余計に刃洲先生には面白いらしい。
患者や手伝いの老婆たちも同じように笑っている。
「夢さんよ、公家殿が来ぬうちに白状したほうが傷が浅くてすむぞ」
「む、そうかもしれぬが」
「夢見様、どちらにいらしていたのですか? 夜もお帰りにならずに。わたくし、ずっと心配していたのです」
「その、吉原の遊里の方に」
「あっ……!」
聞いてはいけないことを聞いてしまったと、千鶴は思った。
吉原遊廓、江戸の不夜城である――。
明暦の大火で浅草寺裏の日本堤に移る以前は、日本橋人形町にあった。
元は後北条氏の家臣であった庄司甚右衛門が駿府で遊郭を営んでいたのが、神君家康が江戸に入ったことで活気づいた頃にやってきた。
江戸大普請によって移転させられた遊女、置屋を集めて幕府に幾度か請願したことで公許となった。
千鶴とて、そこで何が行われているのかは知っている。
しかし、初な心はすぐに羞恥で顔まで赤くなる。
同時に悔しさのようなものもこみ上げる。涙まで流れそうになる。
「姫、少しは事情を聞いてもらいたい。拙者、姫が思うようなことはしておらぬ」
「私が思う、どんなことをしたっていうのですか!」
「いや、それはだな……」
夢見客人も、思わず顔を押さえていた。
かりそめの恋で浮き名を流す遊び人にしては深刻な表情である。
意外なことに、恋もまだ知らぬ千鶴をあしらえないでいる。
「まあまあ、姫君。夢さんの事情とやらを聞いてやってくれまいか。この御仁、確かに遊び人ではあるが、乙女の気持ちを裏切れるほどではない」
「先生もお人が悪い。確かに拙者は遊びは好きだが、斯様なときに遊べるほどではないよ」
「では、どうして吉原などに?」
「拙者がおらぬ間に、怪僧たちが姫を狙って押し寄せたと聞いた。また来るであろうことは間違いない。遊里での用心棒も引き受けておるゆえ、少しは顔が利く。しばらくの間、姫を匿ってもらおうと思ったのだ」
「そ、そうだったのですか。も、申し訳ありません! 夢見様がわたくしのことを考えてくださったのに、あらぬ疑いを持ってしまい……」
「いや、そう神妙になさらずともよい」
本当のところ、このようにされるとますまず遊びづらくなるのであるが、千鶴にはそんなことはわからなかった。
ともかく、忍者集団といい、滅法衆といい、逆卍党が千鶴を狙って差し向けてきた連中であることには間違いない。なんのためなのかは判然としないが、これからも狙わるのだ。
ひとところに居を置くよりは、場所を移したほうが賢明である。
「では、わたくしは夢見様と一緒なのですね」
「よろしいかな? 姫がお嫌なら、別の手立てを用意いたすが」
「いいえ、構いません。わたくし、夢見様と一緒であればどこでも安心ですから」
嬉しそうにいう千鶴である。
妙齢の娘、しかも大名家の姫君が身を隠すにしても憚られる場所だが、客人と一緒であれば嬉しいのだ。
「さて、どうする? 天次郎殿と公家殿には助っ人を伝えておくかね」
「お願いする。あのふたりなら心強い。礼金も出ると伝えていただきたい。で、刃洲先生はいかがする?」
「一殺一両――」
刃洲は、患者と手伝いに聞こえぬように言い、客人に指を一本立てた。
つまりは、一両出せばひとり殺す、ということだ。
およそ仁術の徒である医者の言葉ではない。
だが、その顔つきから冗談の類ではないとわかる。
「ならば、一両置いていこう。何かのときには、頼む」
客人は、小判一両をそっと差し出して置いた。
視線は交わさないやり取りだ。
千鶴には、何が何やらわからぬが、ふたりはそれで通じている。
「もし、姫がよろしければ今からでも向かうが、お身体はよろしいか? 駕籠も呼びますが」
「先生と皆さんのおかげで、すっかりよくなりました」
「それは何より。では、少しご足労願おう」
でうららかな春の木漏れ日のような、暖かな微笑み。
千鶴は、思わず見とれた。
その身柄を狙われているというのに、この美貌の剣客が傍らにいてくれるのは心強い。
そして、客人について、暇人長屋を出ようとしたときだ。
「――おぬしもついてくる気か?」
客人は、何かの気配に気づいて背後に声をかけた。
何者かが、つけてきたのだ。
「なんだい、ずぐ気づいちゃってさ」
千鶴は、あっと息を呑む。
不貞腐れた声とともに、屋根づたいに何かが飛び降りてきた。
歳の頃は十二、三といったところ。千鶴よりずっと年下の娘である。
背も小さいが、ずいぶん身軽だ。
「いたずらがすぎるな、お縫坊。また幻兵衛爺さんに叱られるぞ」
「夢さんの知ったこっちゃないだろ。せっかく手助けしてやろうと思ってたのにさ」
ぷっと膨れて、まだまだ子供らしい表情を見せるが、何者なのだろうかと詮索せずにはいられない。
「この娘はお縫坊と言って、漆塗りの幻兵衛爺さんの孫娘だ。暇人長屋でふたりで暮らしているのです」
「そうだったのですか」
客人が千鶴に説明してくれたが、漆職人の孫にしては尋常ではない身のこなしである。
一体、この長屋の住人はどういう人たちの集まりなのだろうか。
「もう、お縫坊ってなにさ。あたしゃこれでも十三になったんだよ。もう立派な娘だっての」
「それはすまなかったな。なら、余計に一緒に来ないほうがいい」
「なんでさ!」
「行き先は、吉原だからだ」
「ちょ……!?」
十三のお縫でも、吉原がどんなところかはわかるらしい。
千鶴もそうだったように、みるみる顔が真っ赤になる。
「……そ、それでもさ。ついていってあげるよ。じっちゃんからいろいろ術も習ったし、役に立つよ!」
「生兵法は怪我の元だ。幻兵衛爺さんがお縫坊に術を仕込んだのは、その身を守るためであろう」
「そんなこと言って邪魔者扱いなの? あたしと夢さんの仲なのにさ」
「やれやれ、どんな仲だ」
十三の小娘を相手に、夢見客人も困り気味だ。
そのお縫だが、先ほどからちらちらと千鶴の方を見ている。
千鶴はきょとんとしているが、実のところ、お縫は対抗意識を燃やしているのだ。
――客人を、押しかけ姫に取られる。
そう思ってしまえて仕方がない小さな乙女心である。
「お縫坊、よいかな――?」
客人は、お縫の傍によって屈み、視線を同じ高さに合わす。
肩に手を置いて、その憂えた瞳で覗き込む。
「な、なにさ……」
強がっているが、お縫は頬を桜色にして視線を逸した。
客人を、直視することができない。
心を奪うほどの美貌は、あまりに眩しすぎるのである。
「拙者と姫は、恐ろしい連中と心ならずも関わってしまった。お縫坊のような子が、来てはならん。せっかく長屋にきてどうにか当たり前の暮らしができているのに」
「だって……」
客人の悲しげな視線を、受け止めることができない。
受け止めたら、十三の娘であろうと蕩然としてしまうだろう。
「だから、おとなしくしていておくれ。片をつけたら長屋に戻るゆえな」
「うん……」
お縫が、借りてきた猫のようにおとなしくなった。
千鶴にもその気持はわかる。
あれでは、頷くしかない。あの瞳を裏切ることはできない。
そしてまた、お縫が幼いながらに夢見客人に惹かれていることもわかる。
なんだか、後ろめたくもあった。
「そのかわり、長屋を留守にしている間は頼んだぞ」
「ふ、ふん! なんだい子供扱いしてさ」
客人の視線から解き放たれると、お縫も途端にさっきの調子を取り戻す。
罪な男だが、お縫の身を案じてのことだ。
「では――」
客人はお縫に背を向け、千鶴を連れて長屋を後にする。
しかし、一旦足を止めた――。
「あのう、いかがしましたか?」
「……いや、気配がもうひとつ。しかしご安心めされよ。どうも、こちらを見ているだけのようだ」
そう千鶴に呟き、振り返らずもせず足を進めた。
暖かな、皐月の昼のことである。




