10%引の厚揚げを午前4時35分に焼く。
スキレット、という分厚い鉄製の真っ黒なフライパンを熱する。
弱火で、それも超がつくほどの弱火で。
午前4時35分。
家族に、そして「強」にした換気扇の排煙が遠慮なく迷い込むであろう近隣の健やかなる寝息の持ち主たちにも不快な、いや、安眠を妨げるような香ばしさを届けてしまわないように、弱火で。
けれども、そのような配慮などハナから無かったかのように、スキレットを火にかけた途端、もわもわと、くぐもった油の臭いがあふれだした。
厚揚げ。10%引。
夜勤を終えた足で向かった、時計の針が何周しようとも眠らないスーパーの棚にそれは眠っていた。茶色の、細かな凹凸を持つ直方体を見たと同時に、素焼きで焦がされた表面にすりおろしの生姜を乗せ醤油を掛けた、あの香ばしさが見事なまでに再生された。いや、再生させられてしまった。
厚揚げを8個に切り分け、チンチンに熱せられたスキレットに、優しく乗せた。
そして、厚揚げはああ見えて、実は結構繊細なヤツなのだと知る。
「おい、早くスキレットに乗れよ」
「はっ、はい。」
ゴツゴツした顔には決して出さないのだが、箸で雑に掴むと、その身が深く傷ついてしまった。
そして、その傷は永遠に治らない。
じうじう、じうじう。
弱火がもたらす心くすぐる音に、香ばしさが軽やかな旋律を与える。
じうじう、じうじう。
焦げ付かないように、これ以上傷つけないように丁寧に裏返す。
白き柔肌の切断面にも焼き目を付けたい。そんな思いに駆られ、鉄板に寝そべった厚揚げをすべて立てて焼きはじめると、間断なき灼熱にその身をぶるぶると震わせる直方体の群れが、まるで墓標が揺れているように見え出した。見てはいけないものを見た気がして、あわててすべてを箸で突き倒した。
弱火で数分。しかし依然、キツネ色のまま。
これでは、物足りない。焼き目を、もっと焼き目を。衝動に駆られ、スキレットに一気に強火を与えた。
1、2、3……9、10。両頬にぶつかった熱気が、当初抱いていた家族や近隣への配慮を呼び覚ます。欲望のままの超過熱時間は結果、10秒に留められた。
火を切り、余熱でさらに焼きつける。
ここに至って、小さな問題にぶつかった。
8個に切った厚揚げ。家族は5人。どう分けるべきか。
焼いた後に考えることではないのだろうが……答えは先送りにして、とにかく一番小さなものをひとつ、おてしょうに移した。決してタヌキとは言えぬ、深きキツネ色にその身を焦がした厚揚げは、藍色の小皿の舞台で、ぷるりと揺れた。
生姜のすりおろしを乗せ、厳かに、醤油をたらす。
大豆に、大豆の、大豆を。
ふと、超大国の大統領演説のような文言が浮かんで、消えた。
待ちきれない箸が運んだのは、香ばしさとほの甘さが絶妙なバランスを保った繊細な味わいだった。焼き締められた表面と限界を超えず温められたその内面。ああ、これこそは、鋭角と丸みが互いに手を取り合って舞い踊る、濃密でありながらも軽やかなるアミノ酸の輪舞曲なり。
しばしの堪能は、やがて第3のビールに押し流された。
残り7つの厚揚げを別の皿に移した。今しがたの興奮をその身に宿した7つのキツネ色の直方体は、やがて熱を失い、冷え切り、固まってしまうのだろう。
果たして、その熱は届くのだろうか。子らに、そして妻に。
ふと床を見やると、飛び散った醤油が、黒いしみを描いていた。
靴下で、優しく、それを拭き取った。