03.魔王候生と魔女と勇者と
朝日が空を切なく染めるのは、一瞬だ。
夕陽のように、いつまでも見る者に弱さや寂しさを感じさせはしない。
僕は森の木の上で、朝日が昇るのをじっと眺めていた。
あの後、僕はレイラと二人、ココロを家まで送り届けた。道中、ココロはただ虚ろな目を路上に投げかけるだけで、生彩を欠いていた。
当然だと思う。目の前で、あんな酷い方法で母親を殺されたのだ。
僕はそれを……黙って見ていることしか出来なかった。
その事実が、杭のように僕に刺さり続けることになる。
それが影響してか、あの日以来、僕は色んなことを考えるようになった。
一体、自分に何が出来るだろう。また、ココロに何をしてやれるだろう。
叶うなら、彼女を自分たちの村に招いてやれるといい。そこで誰をも傷つけず、誰にも傷つけられず、羊が草を食むように平和を食んで生きるのだ。
でも、それは出来ないとレイラに首を横に振られた。
『残念ながら……魔族と人間族が一緒に暮らすことは出来ません』
それは決して、彼女が意地悪で言っている訳ではない。規則を破った際に訪れるどうしようもない不幸から、僕たちを守ろうとしてくれているのだと感じた。
魔族、人間族を問わず、僕たちは生まれた時から、何かしら出来上がった世界に投げ込まれている。そこには、色んな決まりがある。水のように満ちた均衡。
またいくら魔力があっても、人間族を魔族の姿に変えることは不可能だとも教えられた。外見を誤魔化して、一緒に暮らすことも出来ない。
では僕が村を捨てて人間に化け、二人で人間族の世界で生きるのはどうだ。
ココロが魔女の子供だと知らない町や村で、二人、協力して生きるのだ。
――どうやって?
そう考えた際、いつもその壁にぶち当たった。
人間族の世界で自分に何が出来る? 人間族が使用するという貨幣すらない。なら山で小屋を建て、獲物を狩り、そこで二人で暮らすか?
――そんなことが果たして可能なのか?
余程、思い詰めた顔をしていたんだろう。
レイラがその考えを見抜き、忠告を与えるように僕に言った。
声を失くしたココロは、不吉な子どもとして、何所に行っても忌み嫌われるだろうと。失われた声は、簡単には戻らないだろう……とも。
『レイラ、教えてくれ。なら僕は、ココロに何をしてあげられる? 僕は……』
『……何も』
『え?』
『本質的に、他者に対して何かをしてあげられることは一つもありません。皆、一人で生まれ、一人で生き、一人で死んでいきます。魔族も人間族も、違いはありません』
僕はその答えに、ただ愕然と目を見開いた。
しかしレイラは、何かを臆するような呼吸を挟んだ後にこうも言った。
『ただ……』
朝が地面から膨れ上がる様子を木の上で眺めながら、そっと口にする。
「傍で寄り添い続けることは……出来る」
僕は結局、ココロの傍に寄り添う道を選択した。
ココロは母親と暮らした家で、一人で暮らし始めた。彼女は何処へも行けないのだ。人間族の教会に目をつけられない程度に、細々と生きていくしかない。
あの村の村長は、ココロに目をかけ、食料品などを届けているようだった。だが決して、自分の家族にはしなかった。それが魔女という存在の仕方なさ。
母親が死んだ数日後には、健気にもココロは一人で生きることを始めた。森に入って薬草を採り、母親の残した本などを参考に薬を作り始めているようだった。
それも簡単にはいかないのだと思う。彼女の家では夜遅くまで蝋燭の明かりが灯り、心配で窓から中を覗くと、べそをかきながらココロが何かを調合していた。
「ココロ……」
その光景は、僕の心を切なく刻んだ。
それから灯りが消えるまで、僕は近くの木の枝に腰を下ろし、窓を眺め続けた。彼女はそうやって出来た物を村長に渡し、生活に必要なものを分けて貰っていた。
僕もまた人間族の子供に化け、森で採れる果物などをココロに届けた。
それがせめてもの、僕が積極的に出来ることだった。
果物を入れた籠を手に、ココロの家の扉を叩く。
玄関で僕の姿を認めた時、彼女はハッとなり、次いでオロオロと慌て始めた。
「あっ、ごめん、怖がらせるつもりじゃないんだ。その……」
「………?」
僕は薄く微笑みながら、果物を取り出した。
ココロはもの問いたげな目で、果物を、次いで僕の顔を見た。
「えっと、僕は……」
それから僕は、拙い口調で話し始めた。
自分は村の人間で、君のお母さんの薬で流行り病が治ったこと。でも君のお母さんが魔女狩りにあった時、それをただ黙って見ているしか出来なかったこと。
出来るなら、恩返しに君のことを助けたいと思っていること。でも、そのことが村の皆に知れると、君にも迷惑をかけてしまうから黙っていて欲しいこと。
そんな趣旨の作り話を、必死になって語った。
そこで再び、果物をココロに差し出す。
「だから、その……」
すると彼女は戸惑いながらも、おずおずと果物を受け取ってくれた。
それから何度も何度も、恐縮したようにペコペコと頭を下げる。
「あっ……そ、それじゃ、また来るから」
「……!?」
恥ずかしくなって慌ててしまう。そう言って僕が立ち去る仕種を見せると、ココロが手を前に伸ばし、声をかけようと咄嗟に口を開いた。
「……っ!」
だがそこから声は出ない。
彼女は声を失くしていたことを忘れ、その事実に再度気づき、怯えたような顔になった。喉に手を添えながら懸命に口を震わせ、やがて何かに耐えるように俯く。
「ココロ……」
しかし彼女が悲しい精神の傷跡に甘えるのは、僅かな間だけだった。
もう次の瞬間には面を上げ、見る者に憐憫を催させないよう気遣う……そんな儚い笑顔を見せると、もう一度ペコリと深くお辞儀をした。
僕はそんなココロの強い態度に打たれ、言葉を失くしかける。
「あ……ぜ、絶対! 絶対、また来るから!」
力強くそう言うと、僕は胸を切なくしながらココロの家を去った。振り返ると彼女は、僕に向って手を振ってくれていた。
正体を明かそうか迷ったが、僕は人間族の子供として彼女に接する道を選んでいた。それと共に、魔族の姿でココロと会うことも控えた。
例え森の中でも、誰かに見られ悪い噂が立ってもいけない。また護衛に関しても、それは彼女の為にならないとレイラに釘を刺されてしまった。
『子供にとって、生きることは当たり前に享受するものです。しかし、親を亡くしたあの魔女の子供は、今や生きることが目的になっています。それを見守ることはあっても、邪魔してはいけません』
その言葉は、何か一つの真実のような響きを伴って、僕の中に楔のように打ちつけられている。
だけどココロが森に入って薬草などを採る時は、こっそりと後を着けた。
狼が現れたら、見つからないように追い払おうと思ったのだ。
僕が突然森に現れなくなったことを、ココロはどう思っているのか……それは分からない。でもレイラに何と言われようとも、せめて、それ位のことは……。
だが僕はある時、そういったことは必要ないと知らされた。
ココロが薬草を採ってるいる最中、また狼が一匹で現れたことがあった。
僕は木の上でその光景を認め、体を緊張させる。
魔力で出来た弾を手の平から発射して追い払おうと考えたが、
「えっ……?」
彼女の真剣な様子がそれを止めさせた。
ココロはその時、初めて会った時みたいにへたり込まなかった。
お母さんの形見の、大きな三角帽子を被ったココロ。彼女は苦しい程に注意を張り巡らせた表情で、狼から視線を逸らさず、籠から何かを取り出した。
それを狼の直ぐ傍に投げて注意を向けさせると、じりじりと後ずさって遠ざかり、さっとその場から逃げた。
狼はココロを眺めるだけで追わなかった。鼻をスンスンさせると、放られた物に近づき食べ始める。彼女が投げたのは、小鳥か何かを焼いたもののようだった。
でもそれは、単なる囮ではなかった。僕は狼の観察を続ける。
狼はそれを食べ終えると、次の獲物を探して辺りをうろつき出した。しばくすると、急に足取りがおかしくなる。体が左右に不気味に揺れ動き始めた。
「何だ……?」
やがて狼は胃の中の物を弱々しげに吐くと、パタリとその場に倒れた。
僕は木から降りて近づき、膝を地面に着けて狼の状態を確認する。
狼はぴくぴくと弱々しく体を痙攣させながらも、息絶えんとしていた。
恐らく……あの小鳥に毒か何かを詰めていたんだろう。
僕は立ち上がると、ココロが逃げ去った方角を見ながら、「あぁ」と思った。
森は危険だ。群れからはぐれた狼が出る。でも、森に入らざるを得ない。
ココロは一人で生きていくために、自分の頭で考え、工夫をしたのだ。
僕はもう一度思った。あぁ、と。上手く、言葉に出来なかった。
彼女は一人で生きていくことを受け入れ、立派にやろうとしている。
その考えは、なぜか僕を孤独にさせた。
自分だけが、いつまでも同じ場所にいるように感じたのだ。
その出来事が一つの切っ掛けとなり、僕もまた、強くなろうと思った。
まだ明確に決めた訳ではない。漠然と考えは渦巻いている。ただ……。
――僕はその時初めて、魔王になることを考えに入れた。
魔王候補生の” 僕 ”が、魔王となる手段。
それは――
『それは現魔王を……魔王様を、その手で倒すことです』
レイラの言葉を、ゆっくりと反芻する。
魔王候補生として城に訪れ、試練を突破し魔王を倒す。
そこで魔王に蓄積された魔力は僕の体に移る。新しい魔王の誕生だ。
魔王になれば、今よりも色んなことが自由になる。
人間族のココロを傍に置くことだって、出来るようになるはずだ。
「レイラ、僕は強くなりたいんだ。魔王になろうと決めた訳じゃないけど、それでも……用意だけは、しておきたい」
森から戻った夕暮れ時。家の外で、狩ってきた獣の処理をしていたレイラにそう声を掛けると、彼女は無言で僕の顔を見つめた。
レイラの目に自分はどのように映るのか。不意に、そんなことが気になった。
彼女はそうやってしばらく僕を見つめていたが、やがて鼻から息を抜くと、静かに言った。避けられない運命を前に、決意を固めるような顔で。
「分かりました」
翌日から訓練が始まる。
レイラは基礎的な魔力の使い方を教えた後は、無理強いして訓練させることはなかった。しかし、一度訓練を求めたならば彼女に容赦はなかった。
魔力量を増大させるためには、同じ魔族から魔力を吸収するか、魔力を限界まで使い果たし、回復と共に器を大きくするという二つの方法があった。
だが後者の方法は、レイラが微かに眉根を寄せて言うには、時に魔族にさえ死をもたらす危険なものらしい。そんな訓練を、彼女に監督してもらい続けた。
同時に、剣の達人でもあるレイラに剣術をも教わる。
彼女の編み出した、変幻自在の夢幻剣術。
高速に動き、巧みな剣捌きで相手を翻弄し、距離感を失わせる。後に加える冷徹な一撃。狩りの途中、森で、平野で、水辺で、場所を選ばず訓練は始まる。
一日が終わると魔力と体力を使い果たし、自分が空洞になったような感覚を味わった。一切がないからこそ、一切がある。不思議な充実を覚える疲労感だった。
魔力の使い方や剣術の他に、戦闘の仕方も学んだ。その傍らに時間を見つけては果物を入手し、人間族の子供に変身してココロに分けてやった。
「こんにちは」
ココロはそんな僕を、申し訳なさそうな、でも親しみを込めた表情で迎えた。
また、彼女は彼女なりに、魔女としての知識や経験を蓄えているみたいだった。僕の体に訓練で出来た傷を見つけると、薬草を分けてくれた。
「……!」
「えっ、いいの?」
その薬草は、魔族にもよく効いた。魔女の力を僕は初めて思い知った。
――そんな日々が、それから何年も続いた。
レイラの修業は辛く、厳しく、容赦がなかった。ココロは辛い経験をしたにも関わらず、曲がった所のないまま一生懸命に生きていた。
そんな日常の中で、こんな日々がずっと続けばいいのにと思った。
しかし世界は僕の関知しないところで動く。素知らぬ顔で運命を刻み続ける。
僕がこの世に魔王候補生として誕生したことが、一つの明確な兆しでもあった。何百年に一度の均衡の崩壊。新しい秩序。破壊と再生。
その年、経緯については不明だが、他の魔王候補生二人が結託し、魔王に戦いを挑んだ。彼らは試練の段階で倒れ、魔王の前に引きずり出される。
そこで魔王は、二人分の魔王候補生の生命力と、強力な魔力を得た。
均衡が崩れる、軋んだ音が響く。
魔王候補生に十年近く先んじて、人間族の世界にも何人かの勇者候補生が誕生していたことをレイラに知らされた。
それと共に、二人の魔王候補生が敗れたのと前後して、勇者候補生の一人が神の試練をくぐり抜けたという話も……。
――人間族の世界に勇者が誕生し、魔族との間で戦争が始まろうとしていた。
* * *
「勇者? そいつはどんな奴なの?」
夕食を摂っている最中に尋ねると、レイラが珍しく深刻そうな表情で答えた。
「勇者とは、人間族の神から認められた人間を指します。人間は自然の理の中に閉じ込められていますが、勇者は神によってその理から外された唯一の人間です」
ココロの母親が亡くなって六年近くが経ち、僕の体は青年態に成長を遂げていた。寿命が長く、大人の時期も長い魔族。レイラに明確な変化はないが、彼女との身長にも徐々に差が無くなりつつある
「自然の理から外された……それはどういう?」
「えぇ、つまり――」
レイラの説明に思わず喉が鳴った。
肉体の異常回復。魔法という名の火や風といった自然現象の操作。過去に認められているものだけでも、勇者が普通の人間族ではないことが知れた。
「数百年前の魔族と人間族の戦争で、我らが王たる魔王は破れました。そこで蓄えられた魔王の力は魔族の世界に散らばり、領土が削られ、今の人間族に優位な領土となったのです」
いくら勇者といえど、魔族の世界そのものを崩壊させることは出来なかった。その代り、戦争終結時には人間族寄りの魔族領土は人間族のものとされた。
そしてその直後、魔族の世界では、魔王の空位を世界そのものが恐れるかのように、二人の候補生が生まれた。彼等は互いを殺し合い、残った者が魔王となった。
しかし蓄えられた魔王の力を得ていないので、力は弱い。それが数百年前のこと。現在の魔王の成り立ち。その魔王が、新たに二人の魔王候補生の力を得た。
「では、その勇者に魔王が倒されると……」
「魔族の領土は更に削り取られ、いえ、場合によっては魔族界そのものが消滅する可能性もあるでしょう」
僕はその日の晩、定位置となった森の木の上で考えた。
夕食の後、レイラが言った。
『戦争となれば、この地も戦禍に巻き込まれます。魔女の子供と逃げるなら、早い方がいいでしょう』
僕はその時、水のように静かなレイラの顔を見ながら聞いた。
『レイラはどうするの? それに僕は……』
彼女は僕の問いかけの前に、無言になった。
常にない空白が生まれる。レイラが何かを惜しむように、優しく口角を曲げながら僕を見ている気がした。
でもそれは、魔族の世界にたまに降る淡雪のように溶けていき……。
『私は城に戻り、人間族との戦いに備えます。エリオン様。誰も、何も、あなた様に強制はいたしません。自分で考え、自分で行動するのです。今のあなた様には、それが……』
森の外れ、ココロの住んでいる家の方角に目を向ける。彼女はあれからも変わらず、近くの村々のために薬などを調合し、一人で生きていた。
戦争が始まれば、かつてのような平和な日々は送れないだろう。いつ終わるとも知れない不安の日々に投げ込まれ、生き続けざるを得なくなるという。
食料品の欠乏。退廃する国土。荒む人の精神。数百年前に行われた戦争は、そんな状態が何十年も続いたらしい。
戦争の間は治安が悪化し、人間の隠された獣性が露になるともいう。
人間族の女子供にとっては、生きるのがより困難になるとレイラは語った。
『魔族、人間族共に、来るべき戦争に向けて準備を始めています。戦争は新しい均衡を構築するために、既存の均衡を破壊し尽くします。だからこそ……混乱に乗じ、人間族の世界に逃げ込むことも出来るでしょう』
ならば僕は均衡の崩壊を利用し、今度こそココロと二人、人里離れた地で暮らそうか。自給自足は出来る。事情を話せば、彼女も着いて来てくれるかもしれない。
それが僕に出来る、唯一の……。
「ココロ……」
彼女の名前を呼んだ後、息をゆっくりと吐く。
でも僕には、もう一つの選択肢があった。人間族と魔族の戦争。
魔族の存亡をかけた苛烈な戦い。その戦争を止めさせるという手段が。
――それは……僕が魔王となることだ。
魔族は魔王の命令には、絶対に服従しなければならない。ならば僕が新たな魔王となれば、先代の魔王が発した戦争の命令を中止することも可能なはずだ。
そう考えた直後、本当にそうか? という考えが頭を過った。
戦争とはそんなに簡単なものなのか? とも。
この大陸の戦争は、両種族でそれぞれ魔王候補生と勇者候補生が生まれることを契機とし、時が満ちるように始まってしまう。
戦争を止めると言っても、それを人間族が聞き入れないかもしれない。人間族の希望である勇者がいる限り、魔族の世界に侵攻を続ける可能性がある。
まとまらない考えを一つずつ整理するように、頭の後ろに両手を組み、木の本体に背を預ける。
魔王の力は強大だ。
いくら力を蓄えた魔王候補生といえ、簡単に打倒出来るとは思えない。
なら勇者を倒すか? いや、勇者の力も未知数だ。
それに勇者を倒したからと言って、魔王が戦争を止めるとも限らない。
「…………僕は、どうすれば…………」
魔王、勇者。魔王、勇者。
夜空を眺めながら、その二つの言葉に漠然と思いを巡らせる。
すると不意に、ある考えが僕の中で閃いた。その衝撃に眼を大きく見開く。
ガバッと体を起こし、究極の答えを見つけたような心地になる。
同時に、それは果たして実現が可能だろうかとも危ぶんだ。
解決というものは、きっと、そんな安易なものではない。もっと現実的で忍耐を要し、辛く苦しくても、共にあり続けることが……。
――しかし。
力強い逆説の声を身の内に聞く。しかし僕には、それが出来る可能性があった。
ココロが悲しまない世界を作ることが、僕には出来るかもしれない。
ゆっくりと、頭上の空を仰いだ。
「ココロ、僕は……」
深い夜空が広がり、名前の知らない星座が音もなく巡っていた。
* * *
「ココロ、もうすぐ戦争が始まる。だから僕と一緒に逃げよう」
翌朝、僕は人間族の姿となってココロの家の扉を叩くと、意の一番にそう告げていた。彼女は突然のことに、目をパチクリとさせている。
彼女とは、変わらぬ関係性の中で過ごしていた。初めて会った頃には同じ位だった背丈にも差が生まれ、今では僕の方が頭一個分以上大きくなっていたけど。
「…………?」
首を傾げるココロ。
戸惑ったような目の中には、深刻な物がチラと光った。
「信じられないかもしれない。でも、もう直ぐ、人間族と魔族の戦争が始まるんだ! ここにいちゃ危ない。僕は、安全な場所を知っている。だから……」
僕はそこまで早口で言うと、緊張が極まり、不意に自分を客観視する目を見つけてしまう。意識の水面が、苦しいほどに静まり返る。
――突然そんなこと口走り、一体、誰が信じるというのだ。
「い、いきなりこんなことを言っても、信じてもらえないかもしれない。でも……」
僕はそのことに気付くと、気落ちし、切々としたものを訴えるような口調となり、最終的には無言となって俯いていた。
その場の空気は沈滞し、小動物のように震える。
僕という存在もまた、冬を前にした動物のように縮こまり……。
「…………え?」
ふと手に感じる温かな感触に顔を上げる。
ココロがおずおずとした仕草で、僕の右手を両手で取っていた。
「ココロ?」
壊れやすい大切なものを、壊してしまわないように、崩してしまわないように、気遣うような調子で声をかける。
ココロが僕の視線に気付くと、少しはにかんだような上目遣いとなり、やがてにっこりと笑った。首をゆっくり縦に振ると、
「し」、「ん」、「じ」、「る」、「よ」
言葉が読み取れるようにはっきりと、口を動かした。
「あ…………」
僕は茫然とした心地でそれを眺めながらも、氷りついたものが溶けるように笑顔になった。ココロは恥ずかしそうな顔で、そんな僕を見ながら遠慮がちに笑った。
僕はココロに旅の準備をするよう伝えると、急いで家に戻った。
「レイラ……僕は、人間族の世界に行くよ。勇者に会いに行こうと思うんだ」
そこでレイラと、別れの挨拶をした。彼女は不思議と、全てを心得たように頷いた。餞別にと、ずっしりとした重みを感じる袋を渡してくれる。
「これは……」
袋の紐を開くと、人間族の間で流通しているという貨幣が入っていた。
彼女に目を向けると、黙って頷いた。僕を一人前と認めてくれているのか、均衡のことは口にせず……気付けばレイラと初めて出会ってから、六年が過ぎていた。
「エリオン様、今後、あなた様は存在の仕方なさに押し潰されそうになることが、あるやもしれません」
「レイラ……?」
レイラはそこまで言うと、薄く、でも初めて明確に笑った。
「しかし、自分が一体何を大切にしたいのか。何を守りたいのか。それを常に思い出すようにして下さい」
親が子供を見るような優しい目で、笑ったんだ。
僕は胸に温かいものが込み上げてくるのを覚え、胸を詰まらせた。二人の間に、別れを惜しむ空気が満ちる。僕は俯き、熱い吐息を吐き出すと――
「今まで本当に、有難う御座いました」
こうして僕らは、別れた。
レイラは魔王の元へと戻るために、僕は勇者と会いに行くために。
僕はレイラの庇護という巣から飛び立ち、一人で……いや、ココロと二人で歩き始めた。興奮もあったが、それ以上に満たされた想いが強かった。
安全な拠り所と呼べる、新しい地を探す旅。今、それは遠くに感じても、時はそれに比して近い。感覚が失われた場所に、生気を呼び戻す。そんな……。
『勇者は試練を突破して神から認定を受けた後、生まれた国の城に留まり、戦争の準備をしていると聞きます』
レイラの言葉を頼りに、支度を終えたココロと二人で旅をする。魔女であることを隠すため、ココロはお母さんの形見の帽子は鞄にしまっていた。
「それじゃ、行こうかココロ」
「……!」
初めて旅をする人間族の世界。一路、勇者の生まれた東の国へと向かう。
ココロは黙って僕について来てくれたが、旅の費用を僕が持っていることを不思議に思っているようだった。肩を並べて歩きながら話す。
「大切な、僕を育ててくれた大切な人が……渡してくれたんだ」
僕がそう言うと、彼女は母親を思い出したのだろうか。
瞳に僅かに悲しい光を浮かべながらも、口角を引き上げて笑った。
旅は全体的にいえば、順調に進んだ。
初めて乗る馬車。馬車がないところでは徒歩で次の町へと向かい、安宿に泊まる日々。二人で旅の鞄を背負い、砂塵避けの裾の長い上着を羽織る。
親切に色んなことを教えてくれる人から、舌舐めずりするように、目を細めて近づいてくる人。人間族の醜いところ、綺麗なところ、色んなものを見た。
旅慣れてない二人だからこそ、時に騙されそうになったりもした。しかし、腰にはいた訓練に使っていた鋼の剣が、静かに効果を発揮することもあった。
食事は露店や安宿の酒場で、吟遊詩人の歌に耳を傾けながらひっそりと摂った。人間族の世界は所々に悲惨があったけど、戦争のことを知らないみたいに、のんびりしていた。
だが勇者がいるという国に近づくと、徐々に人々の顔に、緊迫感のようなものが見て取れるようになった。ココロが町を行く人の顔に、不安な視線を向ける。
「もう少しだよ」
僕がそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
旅を始めて三週間近くが過ぎると、勇者が滞在しているという東の国に着いた。そこでココロを宿で休ませ、城へと向かい勇者に面会を求めた。
「魔王討伐の仲間に加わるべく、勇者との面会を希望する」
城の守衛にそう言うと、彼らは顔を見合わせた。
その頃には、勇者の噂は人間族の世界でも広まっていた。
「悪いが、どこの馬の骨とも知れぬ人間と、勇者を面会させることは出来ない」
全てが上手くいくとは思っていない。僕は思案に顔を曇らせる。
そんな僕に、守衛が鼻から息を抜いて言った。
「だが……腕に覚えがあるのなら、近日開催される剣闘会に参加するんだな。そこで良い成績を残せば、勇者の一団に加わることが出来るかもしれんぞ」
僕はその僥倖にすがるように、宿屋に滞在し、数日後に開催予定の勝ち抜きの剣闘会に出場することにした。願ってもない絶好の機会だ。
出場の旨を告げるとココロは心配そうな顔をしていたが、僕は不安を打ち消すように自信を持って言った。
「大丈夫だよ、ココロ……僕は、強いから」
彼女は瞬きをしながら瞳を震わせていたが、口元を引き絞るとコクリと頷いた。そして当日は階段状の観客席で、両手を前に組みながら僕の戦いを見守ってくれた。
城下町の外れにある、特設の大規模な会場。
衆人環視の中で魔力を使うことは出来ないが、魔力で肉体を強化して臨んだ。
レイラから教わった夢幻剣術で、相手を翻弄し剣を弾く。出場者の実力は様々だったが、順調に勝ち進んだ。観客の熱気が会場に奔流となって溢れる。
その場の全ての視線が僕に集まっても、臆することも、恐れることもなかった。僕はたった一つの輝きを知っていた……ココロの存在が僕を鼓舞する。
勝ち抜き戦の最後の相手は、斧を両手に構えた屈強そうな初老の戦士だった。剣闘会とはいっても、使用する武器は槍であったり剣であったりと様々だった。
目を闇色に光らせ、圧力のある一撃を寸前のところで避ける。
懐が空いた所へ迫り――
「へぇ……お前、強いな」
歓声の渦の中で決勝戦を終えた僕に、そんな声がかかった。王族専用の席で、その国の王と共に観覧していた青年。大会の間中、ずっと意識していた男。
――勇者だった。
僕は一目見ただけで、直観的にその青年を勇者だと見抜いていた。
彼は純粋な興味に目を輝かせながら、戦いの舞台へと降りてきた。長身という訳ではないが、細く引き締まった体。逆立てた短髪に、鋭い目つき。
しかし口元には、どこかお調子者のような笑みを浮かべている。姿から察する年齢は、ココロと同じくらいだろうか。困惑する兵士に彼が剣を所望する。
「疲れてるところ悪いが手合わせしないか? 見たことのない剣術だな。太刀筋を見てたら、ぞくぞくしちまってさ」
彼は勇者であることに気負いもてらいもないような、朗らかな男だった。数百年に一度生まれる勇者候補生。その中でただ一人、神から認められた人間とは思えない程に。
だが、その飄々とした態度は表面だけで、その奥には強い意志が宿っていることを僕は察した。全てを悟りきった上で尚、笑顔を顔に張り付けている。
そんなどこか得体のしれない印象を、僕に与える。
僕は彼の提案に応じるように、無言で、ゆっくりと剣を構えた。
「おっ、そうこなくっちゃな」
勇者は剣を寝かせるような格好で、右のこめかみの位置で両手で持つ独特の構えをした。剣は微動だにせず、まるで磨かれた動物の角のように光る。
「さぁ、始めようか。言っとくが、俺は強いぜぇ」
勇者は微笑を絶やさずに告げ、僕は精神を研ぎ澄ませた。
そして、どちらからともなく剣が繰り出され……。
それは初めての体験だった。剣と剣で会話を重ねるような、奇妙な体験。
剣筋は、言葉よりも能弁に勇者の人となりを語った。
正面から繰り出される怒涛の連撃。僕は強化した肉体で勇者の剣を捌き、剣を蛇のように滑らして、レイラから仕込まれた変幻自在の剣を振るった。
二人の繰り出す剣が、空気中を優雅に泳ぐ。剣と剣が打ち鳴らす音さえ、剣が空気を裂く音さえ、蜜蜂の羽音のように物憂く……。
僕たちの常人を超えた戦いに、観客は言葉を失くす。
戦闘狂でないことは目の理性的な光を見れば分かる。しかし戦いの最中、勇者は笑っていた。僕もまた、彼の人となりにつられるように笑った。
剣で遊ぶ二人。お互い一歩も譲らずに、性質の全く異なる剣を振るい続けた。
結局、その戦いは二十分近く続いたが、決着は着かなかった。
「はぁ、はぁ、やるじゃ……ねぇか」
「そ、そっちこそ……」
肩で息をしながらお互いを見やり、微笑みを交換する。
それが勇者アスラとの出会いだった。