02.エリオンとココロ
広大なジェルミラ大陸には、東と西に分かれて人間族と魔族が住んでいた。
大陸の三分の二を占める、肥沃な大地を持つ東側の地域。
そこには、人間族の神と、その代弁者である教会によって支配された人間族が。
残りの三分の一を占める、湿地帯の多い西側の地域。
そこには、魔族の王たる魔王を頂点とする、特殊な力を持つ魔族が。
二つの種族は同じ言葉を話したが、交流することもなく敵対関係にあった。その関係が、何故、いつ頃生まれたのかは誰も知らないし、分からない。
かといって頻繁に交戦することもなく、数百年前に大規模な戦争が起きたきりで、魔族と人間族の間では一応の均衡が保たれていた。
” 僕 ”はそんな時代に、魔族と人間族の境界に近い、魔族の村で生まれた。
人間族と違い、魔族は簡単には数が増えない。魔魂と呼ばれる赤く丸い結晶を両親が作り、それに力が満ちると、魔魂を核とした体を得て誕生する。
体も生まれた時から大きく、人間族の十歳児位の大きさはある。二本の足で歩くことが可能だ。そればかりか翼で空を飛び、言葉を話し、僅かだが魔力も使える。
寿命も人間族に比べて長いが、その分だけ、生まれるまでに時間もかかる。魔魂が砕けて死んだ後は、霧のように世界から姿を消す。存在の痕跡を残さない。
そんな風に、誕生から消滅まで、人間族とは異なった形をとる魔族。
僕が誕生する間際、魔魂からは破壊を伴わない凄まじい魔力が天に伸び、暗黒の柱が現れたという。その日、それと同じ柱が魔族の世界で他に三本確認された。
それは魔王候補生として生まれた証。魔族の世界の均衡を乱す、一つの事件だった。やがて訪れる、暗黒の時代を予感させるような……。
「…………」
目をゆっくりと開く。僕の誕生だ。
石造りの住居内。生まれたことを本能的に理解した僕は、目の前にいる、両親であろう魔族に視線を向けた。
薄い紺色の肌に、緋色の瞳。頭に生やした二本の角と、背中から生えた漆黒の翼。白い髪を持つ屈強な肉体の男と、黒く長い髪をした女性らしい体つきの女。
典型的な魔族の姿をした二人が口を開け、驚いた顔で僕を見ていた。何かに威圧され、動けずにいるようにも……。
しかし、ハッと我を取り戻した様子になると、二人揃って慌てて跪いた。
僕の父親と思われる魔族が口を開く。
「ご、ご誕生、おめでとうございます」
僕は無言を保ち、様子を見守る。
「これは生まれるまで、誰にも分らないことでしたが……あなた様は強大な魔力を持ってご誕生なさいました。お、恐らく……魔王候補生としての生を、授かったのでしょう」
瞬きをしながら、低く、ざらついた声で僕は尋ねた。
「魔王……候補生?」
それに父親が、はい、と汗を額に滲ませながら応える。
「魔族の王、魔王となるべく生まれた、候補生の一人に御座います」
その時僕は、戸惑いの感情を初めて覚えた。
強大な魔力。魔王候補生。魔王となるべく生まれた……。
「…………そうですか」
生まれたばかりで、頭が回っていないことだけは確かだった。全てに実感が伴わない。俯き、鋭利な爪を生やした手を、開いたり閉じたりしながら漫然と眺める。
そんな僕の視界の隅で、母親と思われる人が、やはり跪いたまま言う。
「兆候を見てとった魔王様に仕える魔族が、直ぐにでもあなた様の元へとやって参ります。あなた様はそのお方の庇護のもと、魔王候補生としての生を歩まれものと存じます」
僕は視線を二人に戻すと、頷いた。
「分かりました。それで……」
「はい?」
「僕の名前は、何というのですか?」
そこで二人は困ったように顔を見合わせたが、やがて何かを確認するように頷き合った。揃って前を向くと、父親が厳かな調子で言う。
「あなた様のお名前は……」
ここから僕の物語は始まる。
魔族の世界で魔王候補生の一人として生まれた、僕の……。
――エリオンの物語が。
* * * *
生まれてから数日後の朝。一人の魔族が翼をはためかせ、村へとやってきた。
僕はその間、村長によって誕生の儀式を施され、村の皆に紹介された。両親からは魔力を込めて編んだという黒を基調とした衣服を与えられ、日常生活に必要なことを教わっていた。
「失礼」
家の扉が遠慮がちに叩かれる。事前に村長から言伝を受けていた父親が緊張した面持ちを隠さずに、扉を開く。
現れたのは、長い黒髪を持つ美しい魔族の女性だった。威厳を現した角に、形の良い翼。流麗な曲線を持つ身体は、細かい装飾の施された衣装に包まれている。
両親の言葉を証明するように、城で魔王に仕えていた魔族がやってきたのだ。
自分の両親を決して卑下するつもりはないが、両親は特徴のない魔族だった。それに比して彼女は、格の違いが一目で分かる堂々とした魔族だった。
彼女は両親に挨拶した後、室内に歩み出た。
僕を視界の内に認めると、推し量るような目で見て呟く。
「どうやら、間違いないようですね」
それは低いが、声そのものに魔力が宿っているかのような、魅力的な声だった。
女性にしては身長の高い彼女が身を屈めて片膝をつき、自己紹介を始める。
「お初にお目にかかります。本日より、魔王候補生たるあなた様のお目付け役となりました。レイラと申します、どうぞ宜しくお願い致します」
彼女はおそよ隙の見当たらない、賢そうな目をしていた。
僕はどう応じればよいかと迷いながらも、口を開く。
「両親から話は聞いていました。初めまして……レイラさん」
すると彼女は、首をゆっくりと横に振った。
「” さん ”は必要ございません。どうぞ、レイラとお呼び下さい」
僅かに戸惑いを覚えたが、わかりました、と言って僕は頷いた。
それと共に、自己紹介を済ませていないことを思い出す。
「僕の名前は、エリオンといいます。宜しくお願いします。それで、僕には一体何が求められているのでしょうか?」
僕の質問にレイラは表情を変えず、簡潔に答えた。
「何も」
怪訝そうに眉を寄せる僕に、彼女は続ける。
「エリオン様は魔王候補生としてお生まれになりました。しかし、魔王になるか否かはエリオン様が決めることです。ただ、あなた様は強大な魔力をお持ちです。それが誤った使い方がなされぬよう、私は目付け役として参上した次第です」
その回答は、僕に多くのものをもたらした。
安堵、不安、喜び、迷い。そういった沢山のものを。
「では……僕が魔王とならない生き方も、当然のようにあるのですね」
僕が尋ねると、レイラは静かに答えた。
「はい、その通りでございます」
――こうして僕はレイラと出会った。
以降、彼女から様々なことを教わる。魔族のこと、人間族のこと。上手な飛行の仕方や魔力の使い方、生きていくために必要な狩りのことなど、様々なことを。
人間族は畑を耕して作物を収穫したり、動物を飼い、それらを用いて料理というものをするのだそうだ。食事にも、生きるためと楽しむための二つがあるという。
しかし、魔族はそういったことはしない。森でなっている果物や木の実を食べたり、狩りをして食料を得る。調理といえば、火で炙るくらいのことだ。
村では村長の指示のもと、僕とレイラの住む家が作られた。
両親とは離れ、彼女と二人で暮らし始める。
人間族の子供は、母親から未熟な状態で、泣きながら生まれるという。
その未熟な子供を大事に育てるために、家族という意識が強いのだとも聞く。
だが魔族には、家族という意識は薄い。それでも僕はレイラと暮らす中で、彼女のことを大切な家族だと思うようになった。
無口で、無表情なレイラ。何かを教える時を除き、自分から口を開くことは殆どない彼女。だが僕の話を聞く時は、どんなものでも真剣に耳を傾けてくれる。
常に淡々と物事を処理するレイラ。この世で知らないことなどないかのように賢く、冷静な彼女。僕が尋ねたことも、簡単な言葉で上手に教えてくれる。
それは全て、彼女にとっては与えられた役目を果しているに過ぎないのかもしれない。例えそうだとしても、僕はレイラのことを慕い、大事に思っていた。
レイラは生まれたばかりの僕にとって、唯一の存在だった。
そう、あの日、ココロが僕の前に現れるまでは。
* * *
僕が生まれた村には、両親を含めて何十人かの魔族がいた。
その中には僕と同じような、子供の魔族の姿もあった。
だけど村の魔族は僕のことを魔王候補生として崇め、気易く話しかけてこなかった。友達という言葉は僕にとっては架空の、ただ眺めるだけのものに過ぎない。
レイラと二人で暮らし始め、数か月後のある日。
彼女が用事で城に戻り、暇を持て余した僕は近くの森へと散歩に出かけた。
人間族と魔族の住む地域は、前の戦争の後に人間族が長い時間をかけて作り上げた、背の高い強固な壁によって分断されていた。
でも大陸の南側に存在するその深い森には、壁は備え付けられていなかった。魔族と人間族の境界に位置する、深く、黒い森。
そこで僕は、同じ背丈位の人間族の子供と出会った。
魔女の娘である――ココロと。
森の中を歩いていると、耳慣れない、甲高い叫び声が聞こえた。
それは逼迫し、何かしらの危機を伝える物のように、僕の鼓膜に響いた。何かに急きたてられるように、僕はその声が発せられた場所に急ぐ。
すると一匹の狼に襲われそうになっている、人間族の女の子がいた。
「あ、あ……あぁぁ!」
女の子は腰を抜かし、動けないでいるようだった。対して狼は唸り声を上げ、今にも女の子の喉笛に噛み付こうと、体に力を溜めている。
僕は翼をはためかせ、女の子と狼の間に割って入った。
「え? あ、あぁ……」
女の子の戸惑う声を背中に聞きながら、手の平に魔力を発生させた。狼にぶつけようと考える。だがその際、レイラの言葉がふと思い出された。
『徒に魔力を使用してはいけません。それは世界の均衡を、少なからず乱すものです』
僕は狼を、ただ睨みつけるだけに留めた。
” お前たち動物は賢いから分かるだろ? お前が決して、僕には敵わないということが……。さぁ、この場を立ち去るんだ ”
そう語りかけるように、目に力を込める。
狼は警戒の眼差しを向け続けながらも、ある瞬間になると、さっと姿を消した。
「ふぅ……」
危機が去ったことを察知すると、遅れて疑問がやって来た。どうして助けようと思ったんだろう。理屈ではなく反射的に、無我夢中で動いていた。
「大丈夫?」
答えが出ないまま振り返り、女の子にそう尋ねる。
女の子はお尻を地面につけたまま、口を震わせて僕を見ていた。
「あ、あ、あ……」
そこで僕は、図らずも初めて目にした人間族の姿をまじまじと眺めた。
翼こそ生えていないが、体の作りは魔族によく似ていた。手足がそれぞれ二本、頭も一個。薄い紺色の僕らと違い、柔らかそうな白い肌が何より特徴的だった。
また、これは目の前の女の子に限ったことだろうが、赤と白を混ぜ合わせたような不思議な髪の色をしていた。その髪はとても長く、前髪は両眼が隠れるほどだ。
そんな女の子は緑色の膝丈の衣装を身に着け、手には大きな籠を持っていた。
「立てる?」
僕が近づいて手を差し伸べると、女の子はビクッと震えた。
そこで僕は目を丸くすると共に、あることを悟った。
――そうか、人間族は魔族が怖いんだ。
体の中を一陣の、寂しい風が吹き抜けたような気がした。
なんだろう……よく分からない。この感じ。
それは生まれて初めて感じた、独特な感情だった。村の魔族から遠目で見られるのとは異なる、寂しさ。ひょっとしてそれを、悲しさと呼ぶのかも……。
「怖がらせてしまって、ごめんね」
「え?」
僕が困ったような顔で言うと、今度は女の子が目を丸くした。
「森は危ないから、気をつけるんだよ。それじゃ――」
僕がそう言って踵を返し、翼に力を込めようとすると、
「あ、ま、待って!」
僕を呼び止める声が背後から聞こえた。
その言葉を意外に思いながら、ゆっくりと振り返る。
「あ、あああ、あの、あの、あのあの……」
僕は数度瞬きをしながら、目の前の人間族の女の子を見た。
女の子は立ち上がり、体を緊張したように震わせながらも、やがて、
「あ、あの……ありがとう! ありがとう、ございました!」
そう言って、僕にペコリと深くお辞儀をした。
――その時の気持ちを、僕は何に例えよう。
ありがとう。魔力が込められたような、不思議な言葉。
温かく、柔らかく、まるで目の前の女の子のように……。
心地よい衝撃に襲われた僕は、しばらく体を動かすことが出来ずにいた。驚きと不可解な感動が全身を満たす。それは暖かい温度で、僕の中でひしめき合う。
地に足の着かない心地のまま、漫然と口を開いた。
「あ、ありがとう……と」
「え?」
女の子はもう、僕をそこまで警戒していなかった。不安に抗うように、何かに対して一生懸命な様子が伝わる。僕の言葉を、目をパチパチさせながら迎えた。
「その、” ありがとう ”と生まれて初めて言われたよ……ありがとう」
すると女の子は「あ」と何か感じ入った声を上げた後、顔を綻ばせたんだ。
太陽の日差しの下にいるような温かさを感じる、人懐こそうな顔で。
――それは僕が最初に見た、自分に向けられた優しい笑顔だった。
* * *
「恐らくそれは、魔女の子供でしょう」
女の子と自己紹介をして別れた後、僕は家に戻り、レイラが城から帰って来るのを待った。そして夕食の時間、森で遭遇した女の子のことを話した。
「魔女?」
僕の言葉にレイラが頷く。
「はい、魔女です。薬品の調合などに長けた、人間族でありながら人間族から追放された異端の者たちです」
その説明に、僕は手を動かすのを止めた。
「異端の者たち? それはどういうこと?」
レイラもまた、手の動きを止める。
「人間族を支配する神。その代弁者である教会から、異端の扱いを受けているということです」
僕は彼女の返答に、上手く要領を得ることが出来なかった。
「魔女と呼ばれる人たちは、人間族の神を敬っていないの?」
質問を重ねると、レイラは静かな目で僕をじっと眺めた。
「そういった魔女もいるかもしれません。しかし、一概にそうとは言えません」
「では、どうして異端の扱いを受けて追放されるの?」
無言のまま、レイラは数度瞬きをした。そして言った。
「存在の仕方なさ」と。
「え……?」
僕は文字を読むような心地で、レイラの無表情な顔を見つめる。
「存在しているものには全て、” 仕方なさ ”が伴います。魔族も人間族も、体を維持するためには他の生物から、時に命を奪い、栄養を得なければなりません。それも仕方なさです。そして食べ物を口にしたら、吸収しきれなかった分を排泄しなければなりません。これも仕方なさです」
意味を掴めないでいる僕に、「今はそれで構いません、しかし、覚えておいて下さい」と、レイラは続ける。
「どんなものでも。例えそれが我らの王たる魔王様であれ、人間族の神であれ、魔軍や教会といった組織であれ……存在しているものには様々な形で” 仕方なさ ”が伴います。魔女もまた、人間族の教会を維持するための、存在の仕方なさとして生まれたものです。そして、その仕方なさに翻弄されるのが、この世に生を受けた我々の宿命なのです」
夕食後、僕は翼を駆って森へと向かった。
高い頑丈そうな木の枝に足場を見出して止まり、空に浮かぶ満月を眺める。
「存在の……仕方なさ」
日中に見た、女の子の笑顔が脳裏を過った。
『わ、私の名前は、ココロといいます』
『ココロ?』
『あ、はい。よく、変な名前だって言われますけど』
『そうなんだ。僕の名前は、エリオン』
そっと、大切なもの口にするような調子を込めて、女の子の名前を呼んだ。
「ココロ……」
微かに痛む胸のうずきが、僕に存在の仕方なさを囁いているようでもあった。
星を繋いだ冠が、黒い空に幾つも見えた。
* * *
僕はあの日以来、森に出かけることが多くなった。レイラは人間族の世界には足を踏み入れないよう注意しながらも、それを許可してくれた。
人間族との境界となっていることが原因か、村の魔族はその森に訪れることはなく、近くの別の森で狩りを行っていた。
深く広大な暗い森の中を、一人で探索する。
すると何度かに一度は、ココロの気配を察知することが出来た。
「ココロ、こんにちは」
居ても立ってもいられず、ココロのいる場所まで翼を動かして飛んでいく。
森で彼女と会うのは、その日で三度目だった。
「わっ、エ、エリオンさん? びっくりしちゃった」
「” さん ”はいらないと言っただろ?」
「あ、そうだったね。ごめんなさいエリオン」
ココロはいつもと変わらない格好で、森の中で薬草を探していた。母親のお手伝いをしているのだと、前に説明してくれた。
本当は、危険の少ない別の森や草原で採るよう言われ、この森に入るのは禁止されているらしい。でも薬草が沢山採れるため、母親に黙って来ているようだった。
「また薬草を採りに来たの? この森は危ないよ」
僕の忠告を、彼女は「えへへ」と笑って誤魔化した。
「うん、心配してくれて、ありがとう。でも私、少しでもお母さんの役に立ちたくて……だから、その」
その儚くも見える表情に、僕は言葉を失くしかける。
「それでも……君が死んだらお母さんは悲しむよ。以前、狼に襲われそうになったことを忘れたの? もう来るのは止めた方がいいよ」
何とか僕がそう言うと、ココロは今度はしょんぼりとして、困った顔をした。
見ていて飽きない、次々に表情を変える彼女。
前回会った時、ココロは薬草を採り終えて帰ろうとしているところだった。僕は会えたことが嬉しくなって、森の出口まで彼女を送った。
『危ならいから、送って行くよ』
『え? でも、悪いよ』
『いいから』
手を振って別れた後、忠告するのを忘れていたことを思い出す。本音を言えば、ココロが森に来なくなるのは寂しかったが、それが彼女のためだとも思っていた。
でもココロは僕のそんな考えを知らないで、やがて――
「あう~~ごめんなさい。……だけど、狼はあんまり人間を襲わないって――」
謝りながら、不思議な声を上げた。
あう~~? 聞いたことの無い、間の抜けた変な声だ。
でもそれが妙に、ココロに似合って……。
「ふっ、ふふ」
その場に、誰かの低い忍び笑いが聞こえた。
誰の声だろうと疑問に思い、ハッとなる。
そこで僕は、それが僕の口から発せられていることに気付いた。
ココロが思いもよらないといった表情で、「あ」と口を開ける。
「エリオンが笑ってる。初めて見た」
「す、すまない。だって、君が……変な声を、」
弁解の言葉を述べようとすると、彼女はふて腐れた顔でまた言う。
「へ、変な声? あう~~~。ひどいよ~」
僕はそこでたまらず、一際大きな笑い声を上げた。
「ははっ、はははっ!」
彼女は「もう」と言いながらも、僕につられて何だか可笑しくなったみたいで、「ふふ、あは、あははは」と同じように笑った。
「エリオンは、魔族さんなんだよね。お母さんから、魔族さんの話は聞いてたよ。本当に肌の色が違うんだね、それに角と翼も……」
薬草採りに付き合った後、今日はココロも時間があるということで、僕たちは木の近くに腰かけて話をした。彼女は興味深そうに、僕を眺めている。
そうやって腰を落ち着けて話すのは、初めてのことだった。ココロはいつも忙しい。初めて会った時も簡単な挨拶を済ませると、直ぐに家に帰ってしまった。
「そうだよ。それで、ココロは……」
僕はレイラから聞いたことを、ココロに尋ねてみようかと思った。
君は魔女の子供なのかい? と。
するとココロが察したのか、言い淀んだ僕の言葉を引き取って答えた。
「あ、うん。私は……魔女の子供なの」
胸中の複雑な感情を表したような顔で、でも笑いながら。
それからココロは自分のことを話した。
森の外れで、母親と二人でひっそりと暮らしていること。父親は物心着いた時から知らないこと。森の近くにある人間族の村の村長から依頼され、母親が色んな薬を作って生活していること。
今まで、魔女の子供ということで、友達らしい友達がいなかったことも……。
彼女はそのことを話す時、もう辛いことには慣れたとでも言うように、また笑った。過去を振り切るように、でもどこか寂しそうに。
その笑顔は、僕の胸をひどく痛ませた。いつも彼女は笑っている。
「ココロ……」
「ふふ、それでね」
続いてココロはその気配を引きずることなく、生き生きとした調子で母親のことを話し始めた。
「お母さんはね、とっても優しくて腕のいい魔女なの。この間も、近くの村の流行り病を薬草を調合した薬で治しちゃったの! それで、他の村からもお母さんの薬を依頼する人が多くなって、薬草を採りに行っている暇もないから、私が――」
僕はそんなココロと対面していると、自分のことを考えさせられた。魔王候補生として生まれた自分。しかし、魔王として生きようとは未だ思えない。
レイラに庇護され、生きることに必死になる必要もなく、安穏と生きている。
自分の立場に甘えているんだろうかと思いながら、きっとそうなんだろうと思った。だから僕には、精一杯に生きているココロが眩しかった。
「そっか……ココロは偉いね」
でも僕が本心でそう言っても、ココロはあたふたしながら否定する。
「え? ぜ、全然そんなことないよ。私は自分が出来ることを、一生懸命やろうとしてるだけだから。それに嬉しいの、お母さんの役に立てるのが」
僕は目を細めてココロを見る。
「やっぱり、偉いよ」
そう言うと、彼女は照れた顔になってポツポツと話し始める。
「そ、そんなことないんだよ。その、昔は私……いじけてばっかりで、友達も出来ないし、お母さんも忙しくて遊んでくれなくて、それが原因で喧嘩して、家を飛び出して、沢山迷惑かけちゃって…………あ、えっと、今でも迷惑かけっぱなしなんだけどね。あはは、採ってくる薬草間違えちゃうし」
僕は何と答えればいいか迷い、微笑みながら頷いた。
「うん」
そのままココロは、過去の景色を思い出すような目で続ける。
「でも……お母さんは、優しいの。昔からよく言ってた。誰かにされたら傷つくようなことを、相手にしちゃ駄目だよって。その代わり、誰かにされて自分が嬉しい優しさは、ずっと覚えていなさいって。そうやって生きていけば、世界は沢山の優しさで溢れ返るって。ふふっ、魔女じゃないみたいだよね」
彼女の翳りのない朗らかな笑顔に、僕は胸を詰まらせる。不思議な感覚だった。痛いのに心地よくて、甘く切ない……。
「あの、それで……エリオン……」
「ん?」
そんな感慨に浸っている僕に、ココロは何か申し訳なさそうに口を開く。
「初めて会った時、怖がってゴメンなさい。ずっと謝らなくちゃって思ってて」
「そんなこと……」
僕が彼女の純真な物に打たれていると、ココロは僕の手を握った。
「え……? ココロ?」
狼狽えた声を上げる僕に、彼女が身を寄せて言う。
「でも、今は全然怖くないよ。魔族さんも私たちと同じだって分かったから。同じように笑ったり、多分泣いたり、苦しんだりするんだよね。だって、だって私たちには同じ――」
その次の言葉を僕はただ、目を見開いて迎えた。
力強い心臓の音が、ドクンドクンと、何かを報せるように脈打っていた。
* * *
それからも僕は、頻繁に森に顔を出した。
レイラから色んなことを教わる傍ら、森に通う日々。ココロがいないときは、レイラに教わった方法で鳥を獲ったりして夕食の材料とした。
また、ココロが狼に襲われることがないよう、狼を殺し尽そうかとも思った。でもそれは、森の均衡を崩すことになるとレイラに止められた。
レイラは均衡という考えを大事にする。それは魔力という特別な力を持った魔族には、とても大切なことだとも教えられた。
『力を行使すれば、簡単に均衡を壊すことが出来ます。だからこそ、力には責任が伴うのです。どうかそのことを、お忘れなきように』
僕はその言葉を思い出しながら、時折、自分の手を眺めた。
その行為を通じて、自分の存在をじっと眺めるように。
森ではココロの気配を察知すると、彼女のところまで飛んで行き護衛を申し出た。彼女は僕がどこからともなく飛んで来ると、決まって驚いた顔をした。
「わっ! 凄い……どうしていつも分かるの?」
「え? いや、それよりもココロ、森は一人じゃ危ないよ。だから……」
そんなやり取りをした後、ココロは嬉しそうに笑うんだ。
「ふふふ。エリオン、いつもありがとう」
僕はその笑顔を見るのが好きだった。
胸を切なく締め上げる、ココロの優しい笑顔を見るのが。
一人ぼっちだった二人。
魔族候補生と魔女。奇妙な取り合わせ。
――そうやって、月日が過ぎた。
僕は以前よりも少しだけ熱心にレイラから魔力の使い方を教わり、人間族の子供の姿に変わることも出来るようになった。
『これはやむを得ず、人間族と交わる時に使うものです。ですが、この姿で魔力を行使してはなりません。魔族と正体が判明すれば、かならずや混乱が起きます』
未来は依然として、晴れるとも曇るとも知れなかったが、毎日が楽しかった。
――でも、終わらない物がないように。変らない物も何一つとしてない。
そんな日々の中で、事件が起こってしまった。
悲しい悲しい事件が……。
* * *
僕はその日、森の中を一人でぶらぶらと散歩していた。
ここ数日、ココロは森に姿を見せていなかった。
「ココロ……どうしたんだろう?」
森に冷たい風が通り抜けると、僕の心にも同じように風が通り抜けた。
森と僕に訪れる、苦しい程の静寂。
僕はそこでふと思い立ち、レイラとの約束を破り、人間族の世界に足を踏み入れる決心をした。人間族の姿に化け、ココロに会いに行こうと思ったのだ。
急に現れ、正体を明かすとビックリするだろうか。その想像は僕を愉快にさせた。さっそく人間族の姿に変わり、ドキドキしながら森を抜けた。
目に飛び込んできたのは、目に眩しいほどの景色。
緑の寝床のような、寝転がったら気持ち良さそうな平原が広がる。雲一つない空は澄み渡り、緑との対比が美しかった。光を呑み、風景を呼吸する。
太陽は等しく人間族と魔族の世界を照らしている。でもその輝きは、魔族の世界で見上げるそれよりも、力に溢れているような気がした。
僕は初めて見た人間族の世界に打たれながらも、やがて自分を取り戻す。
周りを伺いながら、森の近くを歩いた。しばらくして、蔦が絡まった家を見つける。そこがココロの家だと検討をつけると、はやる心が僕を駆け足にさせた。
だが玄関先に辿りついた時、ある違和感を覚えた。人の気配がしないのだ。
魔女の母親とどこかに出かけたのかと思い、玄関先で待った。次第に空が曇り始める。いつまで経っても人が訪れる気配はなかった。
「そうだ……」
そこで僕は村に行こうと思い立つ。ひょっとして、二人で近くの村の村長という人間に薬を届けに行っているのかもしれない。いや、きっとそうだ。
僕は周りを確認してから魔族の姿に戻ると、翼を駆って上空に昇った。近くに村を見つけ、人間族に見つからないよう警戒しながら飛んで行く。
村の付近で地に足を降ろし、再び人間族に姿を変えた。ふと視線を感じた気がして、冷や汗を背中に浮かべる。目を気配がする方へ瞬時に向けた。
「にゃあ」
近くで黒い猫が僕を見ていただけだった。猫は鳴き、さっと姿を消す。
不審な子どもと思われないよう、それから堂々と村の入り口を抜けた。近くの村からお遣いに来たことにして、村長の家がどこにあるのか尋ねようと人を探す。
そこで僕は、村に異変を感じ取った。人間族の村人たちが、がやがやと声を上げながら村の中央広場に集まっていたのだ。
何らかの祝祭でも催しているのだろうかと思い、足を向ける。
「な、何だ……あれは?」
広場に向かう途中、泣き声と絶叫が聞こえた気がした。しかし、僕は遠目でも分かる異様な光景に目と意識を奪われていた。
人だかりの外まで歩み寄ると、言葉を無くす。
――人間族が、人間族の大人の女性を、生きたまま焼いていた。
台の上には、巨大な杭のような物に手足を縛りつけられ、叫び声を上げる人間族の女性。その下に積まれた薪に火がつけられ、ばちばちと音を立てて燃えている。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあああ!!」
怯えにも似た小刻みな恐怖が、足もとから頭へと抜ける。
想像を絶する光景に、理解も何もできないまま体が震えた。
その燃え盛る女性を背景に、白い服を身に纏った人間族の男が、十字架を掲げながら何かを言っていた。だが言葉の羅列は、意味を持って開かれない。
僕はしばらくの間、その光景に茫然となりながらも、ある瞬間に自分を取り戻した。そこでようやく、女の子の泣き声に気付く。
途端に怯えが強くなる。目を見開き、唾を飲み込んで決心すると、震える手で人混みをかき分けて進んだ。
「おかぁぁぁぁぁぁぁあさん、おかああああぁぁさん!」
その先には……ココロがいた。声を限りに泣き叫ぶココロが。
白髪の年老いた男性に体を後ろから抱き締められ、ぼろぼろと涙をこぼし、燃える人間族の女性の近くに行こうと、もがいているココロが。
『存在しているものには全て、仕方なさが伴います』
その瞬間、僕は刺し貫かれるように全てを理解した。
あそこで燃えているのが、ココロの母親なんだということを……。
「やめてよぉぉぉ! あぁぁっぁあっ、やめてぇぇえぇぇぇ!」
ココロの叫び声が、僕の胸を抉る。
あんなに嬉しそうに笑うココロが、今は悲痛に顔を歪めて泣いている。
「おかっあああさぁぁん、おかっ、あ、あああさん」
僕はその光景を見ていられなくて、前髪に表情を隠した。
口がわななき、怒りを溜めこむように、先程とは違う感情で体が震える。
黒い衝動が、僕という器を一度に満たした。それは猛る魔力の奔流となって溢れ出ようとしている。魔力が僕の体から、蒸気のように立ち昇った。
「に、にんげん……ども……」
怨嗟のあまりに引き攣った表情で、白い服を着た人間族を睨みつけた。
奴等は自分が話すことに夢中で、僕の存在に気付かないでいる。
「魔女は異端の存在です。しかし我々は、土着信仰と結びついた彼女達を、慈悲によって――」
断片的な話の中で、理解する。奴らこそが人間族の神の代弁者。教会とやらの人間だということに。
は、ははは。奴らが、神の代弁者だと……。
ふざけるなぁぁ! 人間族……お前らは、何をしているのだ。
何を!? 何を!? 何をぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおぉ!
憎悪に捕らわれた僕は、白い服を着た人間どもを皆殺しにしてやろうと思った。
殺す。なぎ払う。叩きつける。壊す。切り裂く。ぶちまける。殺す、殺す!
変身を解き、その場から一歩を踏み出そうとしたその時。
「……なりません」
「――っ!?」
僕の動きは、誰かによって封じられた。
顔を反射的に後方に向けると、美しい人間族の女性が僕の左肩を掴んでいた。
「レイラ……」
姿こそ違えど、それは紛れもなくレイラだった。
僕が振り向くと、レイラは自然と肩から手を離す。
「レ……イラ……なぜだ、なぜ止める!?」
レイラとの約束を破ったことには思い至らず、乱暴な物言いをしてしまう。そんな僕に彼女は、いつもの冷静な態度を崩さずに言う。
「均衡を乱すことになるからです」と。
その言葉に前後の見境を忘れた僕は、吼えるように言った。
「均衡……均衡だと!? そんなものが大切なのか? ふざけるなっ!」
すると近くにいた村人と、白い服を着た人間どもが僕に視線を集めた。
レイラはその視線に気づくと、僕の手を取りその場から離れようとする。
「レイラッ! この手を離せ!」
僕は必死に抵抗したが、レイラの力の前では無駄だった。
ココロの泣き叫ぶ声を聞きながら、やがて人だかりの輪の外に出る。
そこで力が緩んだレイラの手を払いのけると、僕は再び声を荒げようとした。
口を開く前に、レイラが僕の顔に手をかざす。
「なっ……」
彼女がどんな力を使ったのかは分からない。だが僕は突然、火が消えたように冷静になってしまった。先程までの僕は、本当に僕だったのかと驚き、疑う程に。
「レイ……ラ?」
困惑した目でレイラを見上げる。
僕を通じて遠くを見るような目をしながら、彼女は淡々と言った。
「人間族には、人間族のしきたりがあります。また、人間族と魔族との均衡を崩せるのは、唯一、魔王様のみ。我々は魔王様の命令には絶対に服従です。エリオン様には、その均衡は馬鹿げた物に映るやもしれません。しかしそれは、先人が血を流して築き上げたものです。あなた様が身勝手に崩していいものではありません。お分かり頂けますね?」
有無を言わせない言葉と口調に、僕は静まり返る。
二人の間に満ちる沈黙には、僕の苦悩がそっくりそのまま漂っているようだった。しょげたように頭を下げ、重々しく脳内に響く言葉を反芻する。
――人間族と魔族との均衡。それを崩せるのは、魔王のみ。
広場の中央から上がる、木が爆ぜる音と女性の絶叫、ココロの泣き叫ぶ声が鼓膜を揺らす。何かを恐れるように、ゆっくりと面を上げた。
「ココロは、ココロはこれからどうなる?」
僕は静かに問いかけた。
レイラは一度ココロの方に視線を向けると、感情の起伏を表さずに言う。
「魔女の子供は……魔女として生きる以外に術がありません。魔女として生き続け、そして魔女として死んでいきます」
目を見開くことしか出来ない僕に、レイラは続ける。
「人間族の世界は、すべて教会の管理下にあります。しかし、掟などによって教会では作り出せない薬もあります。魔女の薬品の知識は人間族には必要ですが、それが教会を脅かすものとなってはいけない。魔女狩りにあったあの魔女は、恐らく、その分限を超えてしまったのでしょう」
彼女の言葉に、ココロが嬉しそうに話していたことを思い出す。
『お母さんはね、とっても優しくて腕のいい魔女なの。この間も、近くの村の流行り病を薬草を調合した薬で治しちゃったの! それで、他の村からもお母さんの薬を依頼する人が多くなって――』
衝撃に見舞われ、身動きが取れないでいる僕に向けてレイラが続ける。
「魔女は教会にとって必要悪です。あの魔女の子供は必要悪と見なされながらも、魔女としての身の丈を超えないよう……身を屈めて生きざるを得ないでしょう」
僕は自分の無力さに怒りを覚え、作った拳をぶるぶると震わせた。
「……ココロは、人間族だぞ。なのに、人間族と一緒には生きていけないのか?」
僕の問いかけに、レイラは風が凪いだ森のような静かな表情で応える。
「えぇ」
「は、はは、は……」
乾いた笑いがこぼれ、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
レイラはそんな僕を黙って見ていた。
気のせいかもしれないけど、自分自身の悲哀を覗き見るような目で。
広場から甲高い絶叫の声は止み、ただ薪が燃える音と少女の泣き声、そして声高な説法だけが、その場に染み着くように続いていた。
やがて雨が降り始めると、魔女が死んだことを確認した教会の人間は、後片付けをして村を去った。ごみ屑のように、ココロの母親の遺体を扱いながら。
そんな奴らを、恐らく村長という人間だろう――ココロを後ろから抱きとめていた老人が、ペコペコと頭を下げ見送っていた。
雨脚は強まり、広場から人は去り始める。
視界の内で、小さな羽虫が宙を舞う。あるものは螺旋を描きながら、あるものは真っ直ぐに、どこへ行くとも知れず宙を舞う。
魔女狩りと呼ばれる教会のその行為は、人々の憂さ晴らしにもなっているようだった。他の村から集団でやって来たらしい男たちが、去り際、何かそんなことを感じさせる話をしているのを耳にした。
僕とレイラは村人から奇異の目で見られながらも、雨に打たれ、広場にうずくまっているココロを眺め続けていた。
村長が見送りから戻ると、何処から持ってきたのか、つばの広い緑色の三角帽子を手にしていた。そっと彼女に近寄り、頭に被せた。ココロは俯いたままだ。
それは、ココロには少しだけ大きかった。ひょっとすると彼女の母親のものかもしれない。そう考えると、僕はたまらない気持になった。
そうして広場に誰もいなくなると、僕はココロに歩み寄った。
「ココロ……」
村人は、誰もココロに声をかけなかった。打ちひしがれたように地面に伏せる彼女の名を呼ぶと、彼女はそこで初めて反応を示し、ゆっくりと顔を上げた。
虚ろな、光の灯らない目で、ココロは僕の姿を眺めた。生気をまるで感じさせず、見知らぬ他人に向ける、不審の目のようにも……。
その時になって、ココロは人間族に変身した僕の姿を知らないのだという、当たり前のことに気づいた。話しかけようとするも、何と声を掛ければよいか迷う。
するとココロが、見ず知らずの人間族の子供に向けて口を開いた。
パクパク。口は弱々しく動くだけで、声を発しない。
「え? コ、ココロ……?」
僕は愕然とした面持ちで、彼女を見た。
ま、まさか……。
――ココロはそうしてその日、母親と声を失った。