食事の嫌いな男の子
昔々あるところに、食事をすることが嫌いな男の子がおりました。
朝、目覚めれば彼の周りには色とりどりの朝食が用意されています。昼には栄養バランスの良い適度な量の食べ物が並べられます。夜も、それは素晴らしい食材で素敵な夕食が準備されています。
けれど男の子は食事が嫌いでした。
自分の口にするものが美味しいと思えなかったのです。食べるという行為、その時間が苦痛で仕方がありませんでした。
普通の人であれば美味しいものを食べたら嬉しいと感じるものです。
「でも僕は食べることが好きじゃない。食事をしても嬉しくない。僕は、料理を食べることが嫌いなんだ」
男の子は自分を不幸だと感じていました。仕方なく料理を食べる男の子は、周りの人と感覚が違うことに気づいていたからです。食べるということが人生の無駄に思えて仕方がありませんでした。
皮肉なことに男の子の家にはいつも食べ物があり、彼のおなかが減ることはありませんでした。
小食ではあっても食べることに不自由のない男の子は、いつしか素敵な青年になっていました。青年になっても男の子は相変わらず食事が嫌いでした。
ある日、青年になった男の子は自分の食事嫌いを治したいと考えました。
食べるという行為に人並みな幸せを感じたかったからです。
男の子のその気持ちに一緒に住む家族の人達も賛同しました。彼の食事嫌いの原因が家族の側にもあるかも知れないと、心のどこかで感じていたからです。そこで家族は彼のために一つの試練を与えました。
「家を出て一人暮らしをしてみないか」
家族の元を離れての一人暮らしを勧めてみたのです。当たり前のようですが一人で生きていく為にはそれなりの器量が必要です。青年はこの試練が家族の愛だと知っていました。そしてその愛に応えたいとも思いました。
「やらせてもらえるならやってみたい。一人で生きていきます」
青年は一人で生きていく覚悟を決めました。
一人で生きる自由を手に入れた青年は、誰の目にも真っ当な生き方をしているように見えました。彼は、人と同じように働き、人と同じように遊び、人と同じように生きるための勉強をしました。
「あいつはいい奴だ」
「賢い子だよ」
「応援したいわね」
周りからはこの青年の悩みはまったく見受けられません。
親元を離れ一人暮らしを始めて数年。彼は食事をすることの幸せを感じることができるようになったのでしょうか?
確かに、自炊をする点で彼の食事への気持ちに変化はありました。
食べることに無頓着だった彼も、食事を摂らないと体力的にキツイと実感できるようになって、三日に一度くらいは自分で料理を作るようになっていました。
何より気持ちの変化で嬉しかったことは、一人で食べるよりも友人と食べた時の方が楽しいと感じるようになっていたことでしょう。
でも三日に一度の食事で本当に彼は生きていけたのでしょうか。いいえ、実際は違います。食事に関して青年に置かれた恵まれた状況は以前とあまり変わってませんでした。
青年の器量は彼を他人からほおってはおきませんでした。
家柄もよくまじめで欠点の少ない一人暮らしの青年に、手を差し伸べる人が多かったのです。もしかしたら親切心からだけではなかったかも知れません。
彼に温かい食べものを持ってくる。そんな人が後を絶ちませんでした。
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彼の元に足しげく顔を出す人の中に一人、ふくよかで健康的な娘がいました。彼女は料理をすることが好きで食べることも大好きでした。
彼はそんな彼女の用意してくれる料理よりも、彼女の人柄に好感を持っていました。彼女の料理を一緒に食べる時、自分の気持ちは明るくなりました。食べることの価値観さえ違わなければ、一緒になりたいとも感じるようにもなりました。
けれど彼女と自分が一緒になっても、決してよい生活はおくれないとも感じていました。食べることの価値観が異なるという溝は、それほどに大きいものだと感じていたからです。
ある年の冬、青年の住む国に原因不明の病が蔓延しました。
魔女の呪いとわれる病の中でも一等たちの悪いものでした。それは、体力をつけようと食事をとると逆に死期を早めてしまう病でした。
青年の住む都でも多くの若者が病に倒れ、看病の甲斐なく命を落としていく者がおりました。
青年の元に料理を持ってくる者達も例外ではありませんでした。
食べることの好きな、ふくよかな娘も流行病に罹りました。
国の王を含めた多くの人がこの病に倒れてしまったのです。
国中は悲しみに包まれました。
何故か、食事の嫌いな青年はこの病に罹ってはいないようでした。
不思議なことに年老いた者やもともと体の弱かった者の中には、この病を発症しない者がいました。魔女の呪いを受けながらもこの病に罹っていないのではと思えるほど、軽い症状だったのです。
周りの中でも最も元気だった青年は、自分の置かれた状況を把握して立ち上がりました。病から人々を救うべく一人、黒紫山に住むと言われてる魔女を探す旅に出たのです。
魔女の呪いと噂される病。
黒紫山に住むと言われる魔女ならばこの病を治す方法を知っているかもしれません。恐ろしいとは思いまいたが、探し出ださなければ皆の命がないという危機迫った思いの方が強かったのです。
七つの山と六つの谷を越え青年は魔女達が住むという館を探し当てました。
魔女は埋もれるほど多くの書籍を所有し、似た空気を纏った数人仲間と共につつましい生活をしておりました。
青年の予想に反し彼女らの目に狂気の光はありませんでした。いえ、狂気をはらんでいたのは逆に青年の方だったかも知れません。
「まあ、落ち着きなさい。若者よ」
年老いた女が青年を気遣い一杯の茶を差し出しました。
「獣のような出で立ちで、誰が訪ねてきたのかと思えば随分と痩せ細った男の子ではないですか」
「我ら、黒紫のモリナに住む賢者にわざわざ何用があって参られたのか?」
賢者という言葉に青年は驚きを隠せませんでした。
黒紫山に住むモリナ館の賢者達。
青年が魔女と思っていた者達は、七つの山と六つの谷を越えたこの場所では至高の知識と至宝の知恵をもつ者として称えられていたのです。
鋭くも温かい眼光もった賢者達に飲み物を勧められ、落ち着きを取り戻した青年は事細かな状況を説明しました。
「助けてください。何か良い方法はないのでしょうか。このままでは皆が倒れてしまう。私は私に親身になってくれた人達を助けたいのです」
賢者に未来を見通す力はありまん。賢者は賢き道を選択する者なのです。
未来を予言することはできなくとも今できる最善の方法ならば導き出せるかも知れません。
集まった賢者達はある思いに行きつきました。賢者達はこの病の原因に心あたりがあったのです。
食事をすると逆に死期を早めてしまう奇病。
それは1000年前にあったと伝えられている人々を恐怖の渦に陥れた恐ろしい病に似ていました。
「これをご覧」
一人の賢者が差し出した古い文献にはこう書かれていました。
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ルタポの悪毒。
ルタポの毒が人の体に溜まることで、人にだけ発症が見られる奇病。
主食、ルタポ芋に含まれる微量な悪素がなんらかの原因で悪毒化した時、その毒は人体に蓄積され摂取する度に死に至る病を重篤化させる。通常ほぼ無毒なルタポが悪毒化しそれに気づかず当たり前のようにルタボを食した人間が、その毒を人体に取り入れてしまうことで発症する病。
それが、ルタポの悪毒。
賢者の持つ古い文献の中にはルタポが原因であろうこの病のせいで多くの人が死んでいったと記され、それに対応した当時の賢者たちの苦悩が記されていました。
1000年に一度のあるかないかの稀な奇病。
その奇病に苦しみ、もがく人々。現実その現象が今起きている悲劇。
事は一刻を争いました。
「1000年前の不幸を繰り返してはならない。若者よ、これを持ってお行き」
賢者は聖刻文字に刻まれた八つの石を若者に持たせました。
「この聖石を清らかな飲み水に触れさせなさい。時間はかかりますがその水を飲むことで、悪毒は薄まります」
これで、皆は食事ができるようになるのか。これで助かるのか。
若者は安堵の気持ちを感じつつ感謝の言葉を告げ、急ぎ帰路に就こうと思いました。しかし、ふとここに来るまでかなりの時間をかけてしまったことに気づき愕然としました。
今は、あれからどれほどの時が経ったのだろう。
今から都に戻って果たして間に合うのか。もしかしたら既に、間に合わないタイミングなのでは‥‥。
一瞬、戦慄にも似た感覚が青年を襲いました。
「天馬に乗りなさい」
蒼白い顔でうつむいている若者の顔を横目に賢者が言いました。
「天馬であれば、三日三晩で着くだろう」
賢者の天馬は空を駆ける神馬でした。青年は颯爽と天馬の手綱を引き復路の道を急ぎました。
矢のように、風のように、野を越え山を越え、青年の急ぐ気持ちに応えるかように天馬は空を駆けました。
三日三晩を走り抜け、救いようのないほどの暗雲を払いのけ、転がるかように都に着いた時、世界は恐ろしいほどの死の気配に包まれていました。
壊滅的な状況下にくじけそうになる心を奮い立たせ、頭を高くもたげた青年は言い放ちました。
「病に伏せているものよ諦めるな。死を待つ者よ今しばらく踏みとどまれ。私は賢者の石を持ち帰って来た。助かりたければ立ち上がれ。生きたくば、目を開けろ。この石があれば我らは助かる。もう一度言う。聞け、賢者の石だ。我らは助かるぞ」
青年はどこからこんな声が出るのかと自分でも驚くほどの声を上げ、思いよ届けと言わんばかりに何度も何度も、死の気配に包まれる街に希望の声を響き渡らせました。
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青年の魂の叫びは人々の心に届きました。
「明日を信じていいの?」
「この苦しみから解放されるのか」
「お母さん、助かるの」
「私はあの人を失わずに済むのか」
人々は自分たちの胸に希望の灯が燈っていくのを感じました。それは染み入るほどに優しく暖かいものでした。
聖刻文字に刻まれた八つの石。
青年の持ち帰った賢者の石は直ちに動けた人々の手に渡り、国の重要な水源部に設置されることになりました。
聖なる水の噂は国中の生きる人々に伝わり、希望の灯ははっきりと皆の胸に燈っていきました。
王を筆頭に国中の多くの者が己の命をとりとめました。人々は命を拾い、都市は命を吹き返したのです。
青年は病を治す聖水という薬と、希望という二つの薬を町に持って帰りました。
彼は親や友人の元へ聖水の入った水瓶を届け、これまで親身になってくれた人達の元にも駆けつけました。
彼が淡い思いを寄せていたふくよかな娘の元にたどり着いた時、彼女は重篤な症状でした。深刻な病状を耳にし、それでも急いで見舞いに行った時には、彼女はまさに死の床に伏せている状態でした。
青年は目を見張りました。あれほど健康的で眩しかったはずの彼女の姿が見る影もなくなっていたからです。
「元気になれたら、おなか一杯、食事をしたい」
娘は一音一音愛おしむように青年に告げました。
「大丈夫、元気になるよ。元気になって美味しいものを食べよう。僕は君に…君に元気になってほしいんだ」
青年は泣くことを堪えて娘に思いを告げました。
その思いは親切心以上のものでした。青年は献身的に娘の看病をしました。娘の回復を心から願っての行動でした。
都市の暗雲も晴れてくるころ、死神は振り上げたその大鎌を納めました。病に伏せっていた病人達の顔には生気が戻り、看病をしていた者の顔には笑顔が戻りました。
青年に看病され、重篤だった娘も床からも起き上がれるまでに回復しました。
そしてそれを見届けた青年は、それまでの疲れが出たのか、逆にくずれるように倒れ、娘が声を掛けても目を覚まそうとはしませんでした。
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青年は夢を見ていました。
食べたいものを食べられず、やせ細って死んで行く愛する人達。
死の苦しみの中で、家族を思いやりながら倒れていく人達。
一人必死になって食材を集め、体の弱っている人に料理をふるまう自分の姿。
必死になって働いて、泣いても叫んでも叶わない病魔の強さ。
賢者の石の効果もなく、国中の人々が倒れ苦しみ死んで行く地獄絵の様相。
悪夢でした。
誰かが夢の中で自分の名を呼ぶ声が聞こえました。
誰?
もう一度、柔らかな声で自分の名を呼ぶ声がします。その声に導かれるように青年は悪夢から目を覚ましました。
顔を上げると目の前にはあの娘が立っていました。驚きと喜びの入り混じった娘の顔を見ながら、
「良くなったんだね、君。良かった」
やつれた顔の青年が開口一番にそう告げると、娘は驚いた目をさらに大きく広げ、グシャっと顔を崩して大粒の涙を流しました。
「私より貴方の事です。こんなに細くなってしまって、私は貴方にどう恩を返せば良いのでしょう」
暫くして落ち着きを取り戻した娘はそう言うと、壊れ物でも触れるかのように青年の手をとりました。
こんなにまでなってと言われた青年は、娘にとられた自分の手をしげしげと見つめ、改めて自分の姿を顧みました。
看病する側が、看病される側となっていた自分の姿。
唯でさえ食事をとらない体は、過度な過労によって一段とやせ細り、風が吹けば飛んでいきそうな頼りない体つきになっていました。
我ながらひどい。
そう思いつつも、目の前にいる娘を見ていると、そんな自分の体のことなどどうでも良くなってきます。
助けたかった人が自分の傍にいて、自分の手を持ってくれている。思いやった分だけ、思いやってくれる人が目の前にいる。こんな幸せなことがあるでしょうか。
そんな事を肌で感じ、染み入るような満足感を噛みしめていると、自分のお腹がグウと鳴きました。
「何か食べますか?」
涙で濡れる頬を拭いながら、娘が優しく尋ねました。
その優しさにほだされた青年は、ほんの少し頬を緩めて、生まれて初めての言葉を口にしました。
「そうだね。お腹がすいた。何か食べたいな」
娘は青年の前にルタポの粥を用意しました。
目の前に出された見慣れたその料理を見た時、青年は生まれて初めて心の底から美味しそうだと思いました。
暖かく湯気が立ち、体に負担の無いよう煮込まれたルタポの粥。ほんの少しの塩加減で、ほんの一欠けら春の菜の葉が入っています。
ただそれだけの茶碗一杯の粥。
ああ…その時食べた粥の美味しかったこと。
食事をするのが嫌いだったなど、遠い昔のことの様でした。
こうして食べることが嫌いだった男の子は試練を経て、食べることの意味を知り、共に生きる良き人に出会えたおかげで後の人生を大変幸せに暮らしたのでした。