ノアの方舟に乗って
彼女は珍しく、現実を見ていた。
「今日、クラスメイトにあなたとの関係を聞かれました」
「へえ、それで君は何て答えたの?」
ぼくがそう尋ねると、彼女は何も言わずにうつむいて、少し間をおいてから口を開いた。
「答え、られませんでした」
弱々しくつぶやいた彼女の表情は、どことなく哀しげに見える。彼女はいつも夢を見ていて、そういうときの彼女はすごく幸せそうなカオをしているので、彼女がこんなカオをするのはめったにないことだ。
だから、彼女は本気で悩んで落ちこんでいるのだろうが、ぼくは思わずこう口にしてしまった。
「君が現実を見ると、そうなるんだね」
「……どういう意味ですか、それ」
むっとしたように口を尖らせた彼女が、じとりとした目でこちらをにらみつけてくる。その視線にぼくは苦笑して、肩をすくめてみせた。
「君は夢を見ていたほうがよさそうだ、ってことかな」
「いつもと言っていることが違いますよ」
そう文句をこぼし、彼女はぷいっとそっぽを向いてしまった。ぼくは彼女がいつも言っていることに賛同しただけなのに、何故機嫌を損ねられなくてはならないのだろうか。とりあえず、夢を見ていない彼女が面倒だということだけはわかった。
「で、君は何を悩んでいるの?」
「わたしとあなたの関係って何ですか?」
「幼なじみ、かな」
「ですよね」
ぼくと彼女は家がトナリ同士で、小さいころからずっと一緒にいた。だから、「幼なじみ」というのが一番的確で、適切な表現だろう。
彼女もそれをよくわかっているからこそ、ぼくの意見にすぐ同意したはずなのに、そのカオにはまだ不満の色が残っていた。
「それじゃあ、何か不満かい?」
「いえ、そういうわけじゃありません、けど……」
「『けど』、何?」
「どうしてわたしはあなたとの関係を聞かれたとき、そう答えることができなかったんでしょうか」
「は?」
まったく、何を言い出すかと思えば――確かに、ただ「幼なじみ」と答えておけばよかったところを、何も答えられなかったというのは疑問だが、そんなことを聞かれても、彼女自身がわからない彼女の中の感情を、ぼくがわかるわけがないだろう。
でも、そんなことを聞いてくるあたりが、少しだけいつもの彼女に戻ったような気がする。
「じゃあ、君にとってぼくは何? 幼なじみ以外の何かだと思ってくれているのかい?」
「はい。大切な人、です」
「そう。じゃあ、それでいいじゃないか」
「よくないですよ」
「どうして?」
彼女はぎゅ、と拳を握りしめ、何故か悔しそうな、それでいてどこか苦しそうなカオをして答える。
「だって、それはわたしからあなたへの一方的な関係であって、わたしとあなたの相互関係じゃないでしょう?」
確かにそれには一理あるかもしれないが、夢を見ていない彼女がここまでしおらしくなるとは思わなかった。いつもの夢を見すぎな発言もどうかと思うけれど、こんなに元気のない彼女は余計に嫌だ。これは、ぼくのワガママなのだろうか。
「あなたにとって、わたしは何ですか?」
そう言って、とても真剣な目でこちらを見つめる彼女に、ぼくはため息をついた。
「君はぼくにこう言わなかったっけ? 『わたしは、わたしのアダムを見つけましたから』って」
「……言いました」
「じゃあ、答えは一つだろう?」
今度はぼくも真っ直ぐに彼女の目を見据え、にっと微笑んでみせる。
「ぼくと君の関係は、アダムとイヴ。ただ、それだけの話だよ」
ぼくがはっきりとそう答えると、彼女はぽかんと口を開けていたが、数秒ののちにふふ、と笑みをこぼした。
「やっぱりあなたは意外とロマンチストなんですね」
「君ほどじゃないけどね」
いくら彼女を元気づけるためとはいえ、やっぱりぼくが夢を見るのはガラじゃない。ぼくは現実を見て、夢を見るのは彼女に任せるとしよう。