ぼくらは海へ還る
「落ち着きますね」
「そうだね」
そんな短い会話を交わしたぼくと彼女がいるのは、水族館だった。休日の昼間に彼女が勢いよく押しかけてきたので何事かと思えば、友達から割引券をもらったのだとか。まあ、ぼくも特に用事があったわけではないので、ここに来た次第である。
それにしても、水族館とは何とも不思議な空間だ。青くて薄暗く、しかし、不安は感じない。むしろ、感じるのは安堵だった。
「珍しいですね」
そんなことを考えていると、くるり、と彼女が水槽からこちらに顔を向けてつぶやいた。
「何がだい?」
「あなたがわたしの意見に同意するのが、です」
何かを企んでいるのではないか、とでも言いたげな疑いの眼を向けられ、ぼくは眉を下げて苦笑する。
「それは心外だな」
「だって、いつもは何かとケチをつけるのに」
「それは君がいつも夢のようなことを言うからだろう?」
「失礼な。あなたは夢を見なさすぎなんですよ」
そう言ってぷいっとそっぽを向いてしまった彼女は、いつも夢を見ている。それはたとえば、毎年七夕に織姫と彦星が逢えたかどうかを心配する、といった具合に。
ぼくはそんな彼女に現実を教えているだけであって、感謝されこそすれど、怒られることはしていないはずだ。そこからもわかるように、彼女は少し子供っぽいところがあるので、ぼくのほうが大人にならなくてはならないのだけれど。
「まあ、これは現実だし、水族館が落ち着くのは本当のことだよ」
水槽に目を向けながら独り言のようにしれっと言えば、ガラスに映った彼女がちらっとこちらを一瞥したのが見え、続いて「そうですか」というつぶやきが聞こえてきた。
今度はぼくが彼女のほうを盗み見れば、彼女は不満げな表情から打って変わって、嬉しそうな笑みを浮かべている。まったく、単純なものだ。
「それにしても、君は水族館がすきだね」
周りにいる子供と遜色がないくらいウキウキとしながら、さまざまな水槽を見て回る彼女の後ろを歩きながら話しかける。
すると、彼女はくるり、と回って、
「ええ、魚はかわいいくてすきですし、この落ち着いた静かな感じがすきなんです。それに、」
「それに?」
「ヒトは海から生まれたって知ってました?」
にっ、と勝ち誇ったような笑みを浮かべ、得意気に尋ねてくる彼女。しかし、
「ああ、人間は魚だったんだろう?」
それはこの前、何かの授業で聞いた話だった。ぼくと彼女は同じクラスで、しかもそれは選択ではなく必修の授業だったので、彼女はぼくがそれを知っていたことをわかっていたはずだ。
だから、これはぼくの記憶力を試すための質問だったのか、あるいは、ただの確認だったのかもしれない。その証拠に、彼女はぼくの返答を聞くと、満足げに笑った。
「だからでしょうか、水族館がすきなのは。落ち着くし、とても安心します」
「本能に忠実だね」
「それは誉めているんですか?」
「もちろん」
純粋とは、本能に忠実であるということも含まれているのだろう。彼女はそんな人間だ。無垢で真っ直ぐな、そんな人間。そして、いつも夢を見ている。
ここには波も、反射するほどの光もないはずなのに、先を歩く彼女がゆらゆらと揺れ、きらきらと光っているように見えた。
やがて、この水族館の目玉の一つである大水槽まで来ると、彼女はガラスに手をつき、子供のように目を輝かせながら、食い入るようにそれを見ていた。その様子を見て思わずほおがゆるみ、彼女のトナリに並んで立つ。
「いつか、わたしたちも海へ還るんでしょうか」
唐突な質問をしてきた彼女に目を向ければ、彼女は先ほどまでとはまったく違う、落ち着きはらった凪のような穏やかな表情を浮かべていた。
ぼくはその質問の答えを少し考えてから、口を開く。
「君は、還りたい?」
「もちろんです」
彼女はこちらを向くと、にぱ、とあどけない笑みを咲かせた。それは、昔から変わることのない、ぼくのすきな笑顔だった。
「わたしは本能に忠実ですから」
「ああ、そうだったね」
水族館で心が弾むのは、昔の仲間に逢えるから。水族館が落ち着くのは、青くて薄暗くて、まるで海の中にいるような感覚に陥るから。
海は人間の故郷。そして、すべての生命が生まれた場所。だから、ぼくらはいつか、海へ還る。