表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

ぼくらは海へ還る

「落ち着きますね」

「そうだね」


 そんな短い会話を交わしたぼくと彼女がいるのは、水族館だった。休日の昼間に彼女が勢いよく押しかけてきたので何事かと思えば、友達から割引券をもらったのだとか。まあ、ぼくも特に用事があったわけではないので、ここに来た次第である。

 それにしても、水族館とは何とも不思議な空間だ。青くて薄暗く、しかし、不安は感じない。むしろ、感じるのは安堵だった。


「珍しいですね」


 そんなことを考えていると、くるり、と彼女が水槽からこちらに顔を向けてつぶやいた。


「何がだい?」

「あなたがわたしの意見に同意するのが、です」


 何かを企んでいるのではないか、とでも言いたげな疑いの眼を向けられ、ぼくは眉を下げて苦笑する。


「それは心外だな」

「だって、いつもは何かとケチをつけるのに」

「それは君がいつも夢のようなことを言うからだろう?」

「失礼な。あなたは夢を見なさすぎなんですよ」


 そう言ってぷいっとそっぽを向いてしまった彼女は、いつも夢を見ている。それはたとえば、毎年七夕に織姫と彦星が逢えたかどうかを心配する、といった具合に。

 ぼくはそんな彼女に現実を教えているだけであって、感謝されこそすれど、怒られることはしていないはずだ。そこからもわかるように、彼女は少し子供っぽいところがあるので、ぼくのほうが大人にならなくてはならないのだけれど。


「まあ、これは現実だし、水族館が落ち着くのは本当のことだよ」


 水槽に目を向けながら独り言のようにしれっと言えば、ガラスに映った彼女がちらっとこちらを一瞥したのが見え、続いて「そうですか」というつぶやきが聞こえてきた。

 今度はぼくが彼女のほうを盗み見れば、彼女は不満げな表情から打って変わって、嬉しそうな笑みを浮かべている。まったく、単純なものだ。


「それにしても、君は水族館がすきだね」


 周りにいる子供と遜色がないくらいウキウキとしながら、さまざまな水槽を見て回る彼女の後ろを歩きながら話しかける。

 すると、彼女はくるり、と回って、


「ええ、魚はかわいいくてすきですし、この落ち着いた静かな感じがすきなんです。それに、」

「それに?」

「ヒトは海から生まれたって知ってました?」


 にっ、と勝ち誇ったような笑みを浮かべ、得意気に尋ねてくる彼女。しかし、


「ああ、人間は魚だったんだろう?」


 それはこの前、何かの授業で聞いた話だった。ぼくと彼女は同じクラスで、しかもそれは選択ではなく必修の授業だったので、彼女はぼくがそれを知っていたことをわかっていたはずだ。

 だから、これはぼくの記憶力を試すための質問だったのか、あるいは、ただの確認だったのかもしれない。その証拠に、彼女はぼくの返答を聞くと、満足げに笑った。


「だからでしょうか、水族館がすきなのは。落ち着くし、とても安心します」

「本能に忠実だね」

「それは誉めているんですか?」

「もちろん」


 純粋とは、本能に忠実であるということも含まれているのだろう。彼女はそんな人間だ。無垢で真っ直ぐな、そんな人間。そして、いつも夢を見ている。

 ここには波も、反射するほどの光もないはずなのに、先を歩く彼女がゆらゆらと揺れ、きらきらと光っているように見えた。

 やがて、この水族館の目玉の一つである大水槽まで来ると、彼女はガラスに手をつき、子供のように目を輝かせながら、食い入るようにそれを見ていた。その様子を見て思わずほおがゆるみ、彼女のトナリに並んで立つ。


「いつか、わたしたちも海へ還るんでしょうか」


 唐突な質問をしてきた彼女に目を向ければ、彼女は先ほどまでとはまったく違う、落ち着きはらった凪のような穏やかな表情を浮かべていた。

 ぼくはその質問の答えを少し考えてから、口を開く。


「君は、還りたい?」

「もちろんです」


 彼女はこちらを向くと、にぱ、とあどけない笑みを咲かせた。それは、昔から変わることのない、ぼくのすきな笑顔だった。


「わたしは本能に忠実ですから」

「ああ、そうだったね」


 水族館で心が弾むのは、昔の仲間に逢えるから。水族館が落ち着くのは、青くて薄暗くて、まるで海の中にいるような感覚に陥るから。

 海は人間の故郷。そして、すべての生命が生まれた場所。だから、ぼくらはいつか、海へ還る。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ