願いが一つ叶うなら
夜空を見上げて彼女は言った。
「今日は、逢えたでしょうか」
「何がだい?」
ぼくがそう問うと、彼女はゆっくりと首を動かし、こちらを向いてにこ、と穏やかに微笑んだ。
「織姫と彦星が、ですよ」
ああ、そうか。今日は七月七日、つまり七夕だ。そして、その日、織姫と彦星は年に一度だけ逢うことがゆるされている。
その話はぼくもよく知っているけれど、彼女はそんな神話の人物の逢瀬を心配しているのだ。自分の頭の遥か上、あの星空の中にいる二人のことを。
「君は毎年同じことを言うんだね」
「ええ、だって気になるじゃないですか」
「気になるも何も、彼らがいるのは雲の上で、いつも晴れているんだから、逢えないわけがないじゃないか」
呆れたように言葉を紡ぐと、その返答が不満だったのか、彼女はじとりとした目でこちらをにらみつけ、口を尖らせた。
「あなたも毎年同じことを言うんですね」
「君が学習しないからだよ」
そう、さっきも言ったように、彼女は毎年七夕になると空を見ては同じことを言うのだ。晴れていても、曇っていても、毎年毎年、前の年のことは忘れたかのように、彼女は同じ言葉を飽きずにつぶやく。
だから、幼なじみであるぼくはそれを毎年聞かされてきて、いつからかそれに対するぼくの返答も毎年同じになった。もう高校生だというのに子供のようなことを言う彼女は、とても夢見がちな性格をしている。
すると、ひょこっと横からこちらをのぞきこんできた上目遣いの彼女と目が合った。
「学習しないとは失礼な」
「事実を述べたまでだよ」
「それが失礼だと言っているのですが。わたしはただ、」
「ただ?」
そこで一度言葉を切った彼女の先を促すように、語尾をくり返す。すると、彼女はにこっと笑って、
「そうやって一喜一憂したほうが、ロマンがあるでしょう?」
と言った。ロマン、ねえ。ぼくにはよくわからない世界だ。織姫と彦星の話は所詮物語であって、その二人が実在するわけでもなければ、そもそもその二つはただの星でしかない。夢がないと言われようと、それが現実なのだから仕方ない。
だけど、もし彼女の言うことに付き合うとするのなら、
「逢えないわけがないだろう?」
また顔を上げて空を見ていた彼女に話しかけると、彼女はちら、とこちらを一瞥してから呆れたように肩をすくめた。
「またあなたは……確かに結果としてはそうなるのでしょうが、それまでを考えるのが醍醐味で――」
「だって」
彼女の文句を遮るようにして言葉を発し、ぼくはにっと笑ってみせた。
「ただでさえ年に一度しか逢うことをゆるされていないのに、逢えなかったら哀しいじゃないか」
それを聞いた彼女ははっと目を大きく見開いたが、すぐに口に手を当てて、くすり、と笑みをこぼした。
「あなたも結構ロマンチストなんですね」
「君ほどじゃないけどね」
「そうですよね。せっかくの七夕ですから、きっと逢えましたよね。――あっ」
ぼくの意見に納得したようにうなずいて、三度空を見上げた彼女が声を上げる。それにつられてぼくも顔を上げると、そこに広がっていたのは、満天の星空だった。彼女は、そこに何を見たのだろうか?
「今、流れ星が見えましたよ!」
「へえ、よかったじゃないか」
「何かお願い事をしないと」
「もう遅いんじゃないの?」
「いいんですよ。また流れるかもしれないじゃないですか」
何とも確率の低いことを言って、胸の前で手を組み、目をつぶる彼女。目をつぶったら、流れ星が見えないと思うのだけれど、とは言わないでおいた。
「何を願うんだい?」
「織姫と彦星が無事に逢えますように、と」
「それはさっき解決したんじゃなかったっけ?」
「万が一のことがあったら困るじゃないですか。念には念を、というやつですよ」
まったく、彼女はどこまでも天上の彼らのことが気になるらしい。今日の空は天の川も流れ星も見えるくらい晴れ渡っているのだから、もし二人が逢えなかったとしたら、神様が意地悪だとしか言いようがない。
そんなことを考えてふう、と小さくため息をつき、しかしもう一度夜空を見上げようと思った、そのとき。
「それから、もう一つ」
くるり、と彼女が願い事をする体勢のままこちらを向いた。そして、
「来年も、あなたと一緒に星が見られますように」
そう言って、にこり、と彼女は無邪気な笑みを咲かせたではないか。
しかし、ぼくは神様ではないので、ぼくに向かって祈られても困る。
「願いは一つしか叶わないんじゃないのかい?」
「もう、夢がないですね」
ぷく、とほおをふくらませた彼女を見て、ふ、と自然に笑みがこぼれる。こういうところは本当に子供っぽいと思う。
「まあ、その願いなら星に祈らなくても叶うと思うけどね」
「じゃあ、あなたが叶えてくれるんですか?」
「ああ、君がいなくちゃ始まらないけどね」
ぼくがそう言うと、彼女はそうですね、と答えて嬉しそうに微笑んだ。
願いが一つ叶うなら、どうか来年も、その先も、ぼくが大すきな彼女の笑顔が見られますように。