第1話
『過去か未来か』
国の繁栄を占う祭事が執り行われているのは、真珠のような光沢を持つ白石で作られた空間だった。
――ガルスドラフォル王国、祭事の間――
そう呼ばれる場所は、不思議に満ちている。淡く光る白壁の光が空間を満たしているため、採光は取られておらず、出入り口さえない、完全なる密室空間であり、円形をしたその空間の中心点では水が湧き上がっている。しかし、この水は重力に負けることなく天井へと吹き上がり……いや、水は確かに落ちているのだ。天井へと向かって。
まるで、シュールな絵画のような情景である。地面から湧き出した水が、小さな滝となり天井へと降り落ちる。水の落ちる天井では、見事に装飾を施された囲いの中で、落ちた水が飛沫を上げていた。
そんな天井の泉――時視の水盆――を、一人の男が見上げている。ベルベットの上質な光沢のマント、細微な刺繍が施された上衣、また、同じような装飾のベスト、中に着ているのは艶やかなシルクのシャツ。ズボンに覆われた足元には、つま先の尖った靴。お伽噺に出てくる王子も斯くや有らんという装いである。
その男の傍、祈るように膝を付き、水の湧き出る場所を見つめるのは占い師であろう、目深に被ったフードの下、ただ静かに集中している。その二人を背に、近衛と思える姿の男が二人、甲冑を纏った騎士が三人、身なり良い老人が一人、見守るように立っていた。
「神よ、ガルスドラフォルを見守る猛々しきモノたちよ。我に運命を示せ」
男の厳かな声に、皆の視線が時視の水盆へと向く。この不思議な泉は過去、未来を無分別に見せると言われている。しかしこの泉は使用者を選ぶ。歴代、ある特徴を持って生まれた者にしか呼応しないと言うのだ。雨のように降りかかる水を受け、天井を仰ぎ見ていた。飛沫が強くなり、まるで大きな岩でも落ちたかのような水の呻うなりの中、確かに見えた人影。
(水盆が時を映したか……)
ガルスドラフォル王国に数百年ぶり、やっと生まれた選ばれし者の声に、時視の水盆が応えたのだ。
本当に、己の存在に時視の水盆が呼応するのか、半信半疑だった男は安堵のうちに息を漏らし、そのまま呼吸を忘れた。白い足先が、確かに水からはみ出している。
「なっ!?」
(落ちてくる!?)
咄嗟の行動だった。
一瞬と言うべき時間の中、音は止み、飛沫は止まった。いや、その様に感じた。受け止めようと走り出した体は重く、差し出した腕がゆっくりと伸びていく。天井の泉、その大時化おおしけの如き水面から、白い足先が、見る間に太股、腰、胸、顔と姿を現す。
(間にっ…合えっ……!)
スローモーションで動く世界で、思考だけは素早く……。女の体全てが空間に投げ出され、その身が差し出した腕へ……しっかり抱き込んだ瞬間、時間が正常に動き出した。
「ぐっっほっ……げっ!ごふっ……ぶっ………、死…死ぬかっ…げっほ……と、思っ…ごほごほっ……」
どすっと、両腕に衝撃が襲い掛かった。なんとか救うことが出来たが、落ちてきた女は咳込み必死に呼吸をしている。
(く、苦しっ……)
急に酸素を送り込まれた肺はキリキリと痛み、水の侵入を許した鼻腔はツーンと痺れ、眼球の裏側まで浸み込んだ目も痛い。大量に水を飲み込んだ胃は悲鳴を上げ、咳が止まらない。
「うえっ……っふ…ごほっ……、うわ、鼻水……」
やっと咳が収まり上唇に到達していた粘着質の物体を女は思わず右手で拭ぬぐった。その右手を目についた布で拭う。
「あ~、もう、なんだったんだ?目ぇ痛てぇー鼻痛てぇー」
女がゴシゴシと目をこすると、ぷちゅっという音がした。眼球のスキマに水が入って鳴ったようだ。ついでに鼻を摘まんで耳抜きをして、耳の水を抜く為に小指でほじり、鼻水を啜る。とどめと言わんばかりに盛大にくしゃみをした。
「くっ……きしっ!!……あ~、すっきりした。一体、なんだったん?ったく……」
呟いて、目を擦ってから体をもぞもぞと動かす。女は未だ自分が湯船にいると思い込んでいた。ゆえに、湯船のふちを握り、出ようとしたのだった。しかし、触覚が水を感知していないことに気付く。
「んん?」
現状の理解が出来ず、あたりを見渡せば淡く発光している白い壁。湧き出るという勢いを超えて上に伸びる水の柱。その勢いを目で追うと、天井をタプンタプンと揺蕩たゆたう水面。
「はい?」
女は改めて、目を擦り天井を凝視する。変わらず揺れる水に己の姿が映っている。
しかも、その姿は何者かにお姫さま抱っこの形で抱きかかえられており……
「ほへ?」
上に向けていた顔を左に移せば、細微な刺繍の施された明らかに上質そうな布地が映り、そこから視線を上げれば……
「もさもさ!!」
理想を体現したその姿に、思わず歓喜の声を上げその顔をがっしり掴んでしまったのは、彼女には仕方の無いことだった……
彼女は異形を愛していた。性癖と言って憚らない。
理想が詰まった人物に抱かれ、水盆から落ちてきた女は思考能力を失っていた。
女は、名を『三島詩』と言う。通称『ミッシーマウタ』。友人連に、あんたは存在がギリギリだよねー、と笑われている。しかし、ギリギリアウトかセーフかわからないグレーなラインの通称を付けられても仕方が無いほどに、詩はあのアニメーション会社が大のお気に入りなのである。
そして、彼女に恋人が出来ない理由、それもまた、深くその会社に関わっている。
『美女と野獣』
詩は、美女と野獣を題材にしたアニメ映画の大ファンであり、映画のセリフから、歌、各パートのメロディー全て歌える程に、DVDが擦り切れて二回ほど買いなおした程に、この作品を愛しているのである。もちろん、ボーモン夫人版、ヴィルヌーヴ夫人版、共に原作を読破しているし、どんな出版社であろうと国内外問わず絵本、短編集、なんでも蒐集する程に、この作品を愛している。いや、野獣を心の底から愛している。恋愛対象「野獣」なのだ。
だからこそ、詩はこの作品でどうしても納得できないことがあった。それは、野獣の呪いが解け、イケメン王子に変身してしまうこと。野獣のままでいいじゃないか!むしろ野獣のままのほうがいいじゃないか!と切実に思うのだ。もちろん、王子が人間に戻る意味も、理由もわかる。けれど、彼女が恋をしたのはあの青い瞳だけではない。感情に合わせて伏せられる耳、風にそよぐ鬣、力をかけすぎないよう、そっと、そっと触れる仕草……わかっているのだ、元々人間だった王子が、野獣から王子に戻りたい気持ちも、それが自然であることも!
けれども、詩が惚れたのはもふふさしたあの野獣なのである!
物心が付くか付かないかの幼い時分、この作品に出会ったが為に、詩は人間を愛せない女になっていた……!
そして、咄嗟に詩を抱きとめ水浸しになり、袖に鼻水をこすり付けられ、くしゃみにより唾を掛けられ、今まさにキラキラとした目で顔を撫で繰り回されている男……ガルスドラフォル王国王子『ガルスト』こそ、詩の理想を体現した、野獣だった。
毛は全体的に白黒の縞柄。しかし顔などは白の方が圧倒的に多く、鬣などはグラデーションで灰色掛かっている。鼻から口に至る造詣は猫科の動物に似通っているだろうか。しかし、瞳付近はパイソンを思わせる。いや、それは耳の近くから突き出た角の影響でそう見えるだけかもしれない。もっさりとした鬣は手入れが行き届き、硬質そうに見えてさらりとした肌触りをしている。青い瞳には黄色く一筋の線が伸び、開いた口から覗くのは立派な牙。
野獣と表現されるからには、身体もまた動物の様だ。二足歩行を可能にしている足は踵が浮き、今は巨大な靴に収められている部分には硬く黒い肉球が存在する。上体は足腰から比べると大きく、二足歩行よりも四足歩行に適していることが窺い知れるが、そのフォルムからすればゴリラと表現するのがしっくり来るだろう。詩を抱きとめた前足…いや、手は足と同じく肉球付きであるが、猫科の動物に比べれば指が長い。そして、基本的に二足歩行しているのか、手の肉球は柔らかい。プニプニである。
そんな彼、ガルストは、驚きに瞳孔を見開いて固まっている。
如何にガルスドラフォル王国と言えども、普通彼の姿を見れば皆一様に固まる。浮かべる表情は、恐怖、畏怖、尊敬、好奇心と様々ではあるが…好意的に見られることもあるが、これほど嬉しそうに撫で繰り回された経験など無い。
ガルストが呆けている間に、詩は顔だけに留まらず首から胸から腕から(首から下は服に包まれていてもさもさを堪能は出来なかったが)撫で回す。「降ろして下さい」と頼んでみたが反応が無いので腕の中でもがき、ガルストの腕に膝をついて伸び上がる。腕を足蹴にされても微動だにしない彼の腕力はかなりのものだろう。理想のボディ検分に忙しい詩は自身が中々、失礼なことをしていることも思い浮かばず、まずはガルストの顔に抱きつくような形で耳を弄ぶ。馬科の動物に近い、すらっと長めの耳だが、もっさり毛に覆われていて気持ちがいい。ついで肩に腹を乗せ、背中を見つめる。なんと、白黒縞模様の長い尻尾を見つけた。その尻尾が天井に向かってピンと伸び、しかもボサボサに膨れている。思わず握りたくて手を伸ばすが、ガルストの体躯の大きさに阻まれ届かない。
仕方ないので、腕から飛び降り、背中に回って尻尾を掴んだ。指が回らない。二メートルを超える巨体であるから、尻尾もそれに見合うほど太いのだ。
「完っ璧!完璧な美男子だ!」
詩は悦に入って尻尾を根元から握りなおし、その手を尻尾の先へとスライドさせる。その瞬間、巨体が震えた。
『何をする!この痴女がっ!!』
ここに来て、二人の言葉が通じていないことをお知らせしよう。
2012/9/29 ルビ修正
2020/9/13 改稿
2020/9/22 改稿