嘲笑 4話
結衣は衝撃的な光景に、呆然と立ち尽くしてしまった。
数人の大人が寄って集って一人の少年を袋だたきにしているのだ。それも三十を過ぎ、人間として熟成した大人が、である。
そしてなによりも、袋だたきにされている少年に結衣は見覚えがあったからだ。
濃紺を基調とした白羽学園のスクールブレザー、結衣と同じ褐色の色素をした短髪。無駄な贅肉のない細身の身体つきに、歳以上に大人びて見える顔つき。
「っ、黒谷君!?」
気が付いた時、結衣は彼の名前を呼んでいた。
人の壁を掻き分け、彼の元へと駆け寄る。彼は衰弱しきった様子で、地面に倒れており、至る所に擦り傷や打ち身、切創が出来ている。
普段の大人びた冷静な態度からは想像も出来ないほど、今の彼は心体共に疲労していた。
結衣はどうするべきか対応に苦慮するが、このままこの場所にいることだけは良くないことは判る。彼の腕を、自分の肩に回して支えると、負担にならないように気をつけて一緒に立ち上がる。そのまま、再び人の壁を通り抜けようとするが、隙間を閉ざして逃げられないようにされる。 結衣は苛立った声をあげる。
「何のつもりですか?」
周囲にいた大人達の中から、暴力に酔った中年男性が、結衣の前に立ち塞がる。
「君こそ、何のつもりだ? 私がいつ何をしたというのかね。悪い者を成敗するのは、大人の役目だ。彼を置いて何処かに行きなさい」
周囲の人達も彼の言葉に便乗し、そうだ、そうだ。と、鬱陶しい目で結衣を見る。
「私が彼を置いて行って、貴方達は彼に何をするつもりなんですか? 結局、自分の中にある苛立ちを彼にぶつけるだけじゃないんですか!?」
結衣は苛立ちを抑えられず、感情的な口調になる。その光景が、周りにいた人達にとって滑稽に映ったのだろう。クスクスとした嘲笑が、耳にこびり付く。
「いきなり出て来て、何なんですか。あなたは!?」
中年男性と同年代らしき女性が現れる。黒の地味なワンピースにストッキングを着用していた。
「……私の大事な息子は……」
女性は、結衣に掴み掛かる様に歩み寄る。結衣の襟を握り締めると、無理矢理に自分の傍まで引き寄せる。
「あなたが庇っている――そいつの所為で死んだのよ!!」
結衣は彼女の身勝手な物言いには憤りを感じるが、ここで暴れるといった暴力的な行動を起こしてはいけない。そうすることで、自分が目の前の彼等と何ら変わらないぐたらない者となる。熱の篭った頭を冷ますように、ポツリポツリと雨が降り始めていく。
「彼が何だって言うんですか。例え、彼が臆病者だとしても、貴方達のしていることはただの犯罪です。いい歳した大人が、子どもに当たるなんて……恥ずかしいと思わないんですか?」
間違ったことは言っていない。例え周りに賛同者が居なくても、多数の意見に流され、自分の意見を持てない様な人間にはなりたくない。
結衣を掴んでいた女性は、顔を真っ赤にして憤慨する。右手だけが襟元から離されると、大きく後方へ引かれる。 結衣は冷めた表情で、それを眺めていた。
このままジッとしていれば、彼女は結衣の頬を叩くだろう。結衣の実力から考えれば、一般人相手に遅れを取ることなど無く、それを止めることは容易い。だが、この場で必要とされているのは建前なのだ。
彼女が結衣を叩いたという――暴力的な行動に出た。それだけで、結衣は正当防衛を訴えるということも可能なのだ。
女性の腕が大きく振るわれ、空気を揺らしながら接近する。結衣は口内や舌を切らないように歯を噛み締め、衝撃に備える。
「…………ッ!!」
パンッ、と乾いた音が響き、直ぐにザーザーという雨音で掻き消される。
確かに何かを叩いた音が聴こえた。そして、今さっきまで彼女の行動、沸騰した頭から推測するに、結衣の頬を叩こうとしていたのは間違いない筈だ。しかし、いつまで待っても痛みが来ないのはどう説明すればいいのだろうか?
衝撃に備えて閉じてしまった瞼をゆっくりと開いていく。
結衣は、瞳に映る光景を認めた時。まず、こう思わずにいられなかった。
――えっと、どちら様?
黒髪の少年が、結衣と黒谷の前に突如現れ、女性の平手打ちを止めていたのだ。
「ここにいる皆さんを、暴行罪の容疑者として連行します」
彼の一言は、黒谷を袋叩きにしていた人達全員を戦慄させた。
だが、それも不意を突かれた一瞬の出来事で、同時に、結衣の時と同じ嘲笑に似た声があがる。
「坊主。正義感で警察の真似事なんか止めておけ」
どうして? と、言われれば簡単な話だ。
少年は、結衣と同じ年代の外見だったのが災いしたのだ。誰もが、子供のタチの悪い悪戯と決め付け、彼の言葉を信じようとしなかったからだ。
少年は嘲笑、馬鹿にされることに対して何も言わず、呆気に取られている様子もない。ただ周囲にいる大人達に対して、氷のように醒めた視線を送るだけである。
そんな中――
「ちょっと、すみません。通らせてください…はい、はい。すみません」
人の壁の向こう側から、この一年の間で、結衣にとって聞き慣れた声が聴こえて来た。結衣はハッとした表情で、近付いて来る人物を認める。
「会社帰りに墓参りに来てみれば、結衣じゃないか」
目の下隈のある疲れた顔付きに、長年着た反動でくたびれたスーツ。口元と顎には少しばかりの髭が生えており、ツンツンと尖っている。まさに、会社疲れのサラリーマンの一般例を表したような姿。
その姿には、大変見覚えがあり――
「ふ、古川さん!?」
結衣の親戚であった。