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猟闇師

猟闇師・外伝 ~ バレンタイン☆パニック!? ~

――――二月十四日。


 日本全国の女子にとって、その日は一年の中でも特別な日である。街中は甘いチョコレートの香りで溢れ返り、恋人達がそこかしこで、チョコ以上に甘い言葉を囁き合っている。そんな言葉が似合いそうな日でもある。


 バレンタインデー。年頃の少女にとっては、自分の好意を寄せる相手に想いを告げる絶好の日。


 愛の告白など、別に他の日でも構わないだろうという人もいるだろうが、やはり雰囲気というものは大切である。同じ言葉でも、何か特別な日に言われれば、それにときめいてしまうことがあるかもしれない。そんな魔法を期待して、今年も日本全国で恋する少女達が意中の相手にチョコレートを渡すための計画を練るのだ。


 その日、嶋本亜衣しまもとあいは、いつものように自宅のパソコンで検索作業を続けていた。バレンタインまで残り一週間を切ったにも関わらず、彼女の日常は相変わらず色気とは無縁だった。


 亜衣は、東北にある小さな街に住む女子高生の一人である。しかし、ただの女子高生ではない。


 十六歳を過ぎても未だ小学生と同じくらいの身長しかないという身体つきに加え、≪歩く都市伝説百科≫とも呼ばれるほどの都市伝説オタク。その上、≪人脈の亜衣ちゃん≫の自称を持ち、妙な友人が多いことでも有名である。


 学校では暇さえあれば妙な噂話を友人に話し、時に呆れられることも多い亜衣。そんな彼女にとって、インターネットは正に情報の宝庫である。学校から帰った彼女が検索作業を続けること自体は、さして珍しいことではない。


 問題は、そんな彼女が開いているサイトにあった。いつもは都市伝説や妖怪、幽霊などの怪談話を扱ったサイトを巡回しているのが普通だが、今日に限って亜衣はオンラインのネットショッピングに夢中だった。もっとも、ただのネットショップではなく、どうにも胡散臭いお守りやらアクセサリーなどを売っている店ばかり覗いていたのであるが。


「うーん、見つからないなぁ……。やっぱり、今の日本では、私が探しているものなんてないのかなぁ……」


 腕を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに寄りかかってぼやく亜衣。パソコンの画面には≪願いが叶う幸運のアクセサリー≫だの≪お金がどんどん舞い込む金運の数珠≫だのといった商品の写真が並んでいたが、亜衣の興味はそんな物には欠片もなかった。


 巷で売られている幸運のお守り。その殆どは、何の効果もない単なる気休め程度のものである。売る側もそれをわかっているのか、大抵は二束三文の値段で簡単に買うことができてしまう代物だ。


 中には嘘のお守りを高額で売りつける霊感商法まがいのものも存在したが、さすがに亜衣も、そんなものには引っかからなかった。都市伝説オタクでオカルトマニアではあったが、だからと言って何でも節操無く信じて食いつくほど馬鹿ではない。


 亜衣の探しているものは、そういったお守りの類とは少し異なるものだった。願いを叶えるお守りの存在はジンクスや都市伝説の話ではお約束なのだが、それだけに、安易に信じて買ってしまうというのも考えものではある。


 そもそも、お守りやアクセサリーを買ったところで幸運が訪れるのであれば、この世に不幸な者などいないということになってしまう。それに、無償で幸運を手に入れようなどとは、いくらなんでもおこがましい考えだ。


 持っているだけで運命をも変えるような強い力を発揮するお守りは、その時点で既に呪いの道具と同義である。そんな物を手にすれば、当然のことながら幸運と同時に不幸もやってくる。見返りなしで願いが叶うような甘い話など、そうそうないことぐらいは亜衣も知っている。


 自分の願いを叶えるためには、自分の手で何かをしなければならない。お守りを持ってお願いをするのとは違い、自分から進んで行動に出る。その方が達成感もあるし、何よりも運を天に任せるより確実だとは思っていた。


「はぁぁ……。それにしても、ろくなもん売って無いね。幸運を呼ぶアクセサリーなんかとは違って、惚れ薬なんてのは、そうそう売って無いもんなのかなぁ……」


 惚れ薬。飲ませた相手を自分に惚れさせてしまうという、おとぎ話などにはよくある薬である。亜衣が先ほどから探していた物は、まさにその惚れ薬に他ならなかった。


 知らない者からすれば、惚れ薬と幸運を呼ぶアクセサリーに、何の違いがあるのだと言いたくなるだろう。だが、こういった類の話に詳しい亜衣からすれば、この二つは大きく異なるものだった。


 幸運を呼ぶアクセサリーが持っているだけで効果を発揮するのに対し、惚れ薬はあれこれと策を講じて意中の相手に飲ませなければならない。単にお金を出して買えばよいというわけではなく、相手になんとかして薬を飲ませなければならないのだ。


 手にしただけで幸運が舞い込むお守りとは違い、惚れ薬は何かと労力が必要なものである。しかし、それだけに効果も高い。少なくとも、亜衣はそう信じていた。目に見えない力だけに頼るのではなく、薬というより具体的な物を使うことが、彼女の中で惚れ薬に対する信憑性を高めていたのかもしれない。


 都市伝説オタクの亜衣とて、それでも一人の女の子。気になる相手がまったくいないと言えば、それは嘘になる。


 惚れ薬さえ手に入れば、こんな小学生に間違われてしまうような自分でも、素敵な男子と恋人同士になれるかもしれない。そんな淡い期待を抱き、先ほどから亜衣は惚れ薬に関する情報をネットで集めていたのである。


 だが、現実というのは厳しいもので、いざ検索を始めてもなかなか思うような結果は得られなかった。意中の相手を落とすための惚れ薬など、そう簡単には存在しなかったのである。


 例えば、亜衣が最初に見つけた≪女神さまの惚れ薬≫。名前だけ見れば聞こえはいいが、これは亜衣の求めるものとは微妙に違っていた。作ることそのものは簡単そうだったが、効果は男を誰かれ構わず集めるという性的魅力に特化したもの。つまり、その辺で売られているフェロモン入り香水と何ら変わりないということである。


 次に見つけた≪魔女の媚薬≫。これは亜衣の求めるものに最も近いものだったが、問題なのは材料だった。


 ナンテンだの月桂樹だのといった植物ならまだ集められそうだったが、最後に必要となったのはカマキリの黒焼きである。当然のことながら、こんな二月の寒い最中に生きたカマキリなどいるはずもない。しかも、相手だけではなく自分も薬を飲まねばならないとのことで、一気に気持ちが悪くなり興醒めした。


 ちなみに、カマキリがいないときはタツノオトシゴで代用できるとあったが、これを読んだ亜衣はますますやる気を失った。「そんなもの、カマキリよりも用意できないに決まってるじゃん!!」と、思わずパソコンの画面に向かって叫んでしまったほどだ。


 その他、身近な材料で作れそうな惚れ薬もいくつか存在したが、どれも微妙に難しく断念せざるを得なかった。


 ≪ジプシーの惚れ薬≫は制約が多過ぎて失敗する可能性の方が高かったし、失敗した際のペナルティについて書かれていなかったので怖くて止めた。制約が多いことは薬の効果が高いことを意味しているのかもしれないが、失敗したときの情報がないのは少し不安だった。


 オレンジを使ったより簡単な薬もあったが、これはオレンジジュースを直接相手に飲ませねばならないということで、バレンタインには決定的に不向きだった。いくらなんでも、オレンジジュースをバレンタインにプレゼントするような酔狂な女子など、さすがに亜衣の身近にもいなかったからだ。


 世の中、そうそう旨い話などあるはずもない。そう思って検索のキーワードを≪媚薬≫に変えたところ、今度は十八禁のエロサイトや性的興奮剤を売る危ないネットショップばかりが引っ掛かってしまった。部屋に誰もいないことを確認し、赤面しながらパソコンのブラウザを閉じたことは、できればあまり思い出したくない。


 結局、媚薬を混ぜた菓子で意中の男子を落とそうという亜衣の計画は、どれも肝心なところで頓挫してしまっていた。しかし、それでも諦めきれない部分があり、ネットオークションやネットショップを転々としながら目的の物を探して今に至るというわけである。


「やれやれ……。やっぱり世の中、そう旨い話なんてあるもんじゃないよね」


 パソコンの画面に現れたブラウザを一つずつ閉じながら、亜衣は半ば諦め気味に溜息をついてぼやいた。時計を見ると、既に時刻は深夜の二時。さすがに寝ないと、明日の学校に遅刻してしまう。


 こうなれば、今年は無難に適当なおまじないでもしてチョコを作るか。そう思って、亜衣が最後のブラウザを閉じようとしたときだった。


「あっ……。これ、もしかして……!!」


 他のネットショップのサイトに紛れて、何気なく開きっぱなしにしておいたネットオークションのサイト。そこに売り出されていた一本の小瓶に、亜衣の目はたちまち釘付けとなった。



――――あなたの恋を成就させます。効き目抜群の惚れ薬。



 商品紹介の欄に書かれた、いかにも胡散臭い惚れ薬の文字。こんなもの、本当に買う人間がいるのかとも思うが、紫の小瓶に入ったそれは、写真だけ見れば確かに本物っぽい。調度、童話の世界の魔女が持っていてもおかしくなさそうな、なんとも不思議な雰囲気を漂わせていた。


 気になる値段の方だったが、これも比較的良心的なものだった。普通、フェロモン入りの香水でも、小さな小瓶に入ったもので五千円から一万円は下らない。中にはそれよりも安く手に入るものもあったが、まともに買えばそれなりの出費を伴うことは目に見えている。


 だが、このオークションに出されている惚れ薬は、なんと三千円という安値で売りだされていた。しかも、落札者は今のところ誰もいない。確かに胡散臭いものではあったものの、今の亜衣にとってはこれとなく魅力的な一品に見えて仕方がなかった。


「おお、こんなところにお目当ての物が! やっぱり、人間最後まで諦めずに粘ってみるものだね」


 他に落札者がいないのをいいことに、亜衣はそんなことを口にしながらさっさと入札を決め込んだ。落札期限は三日後だったが、今から手に入れればバレンタインにはぎりぎり間に合う。日本全国、どこの人にも郵送で二日以内に届けてくれるというのが、これまた魅力的な条件だった。


 本当に効果があるかどうか、それさえも定かではない謎の媚薬。普通の人間ならまず手を出さないような如何わしい商品だったが、今の亜衣には紫の小瓶に入ったその薬が、まるで恋の女神様からの贈り物のように感じられた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 亜衣の手元に媚薬が届いたのは、それからきっかり二日後のことだった。


 その日、薬は何の変哲もない小さな小包として、亜衣の手元に届けられた。幸い、家に本人がいた時に届いたため、家族の者に妙なことを勘繰られる心配もなかった。


 荷物が普通の宅急便で届いたことに多少の物足りなさを感じながらも、それでも亜衣はさっそく自分の部屋で小包を開き、中から薬を取り出した。梱包用のエアークッションを取り除いてゆくと、果たして中からはネットオークションの写真で見た通りの小瓶が姿を現した。


「ふうん……。なんか、意外と普通の瓶みたいだけど……。まあ、いくら惚れ薬だからって、本物の≪魔女の宅急便≫が届けに来る必要はないかな」


 紫の小瓶を片手でつまんで眺めながら、亜衣は小瓶と一緒に同封されていた紙を広げてみた。惚れ薬の使い方が具体的に書いてある、一種の説明書のようなものである。


「ふむふむ……。どうやらこの薬、お風呂に入れて使うものみたいですなぁ」


 紙切れに書かれていた内容を目で追いながら、亜衣はそれをしっかりと頭の中で反芻しつつ熟読した。万が一、読み間違えて使用法を誤ることがあれば、それこそ落札に使った三千円が水の泡になってしまう。


 解説書によれば、この薬は自分が入浴する際に湯船に入れて使うとのことだった。薬を入れた湯船に浸かって汗をかき、その後、全身に小麦粉を塗りたくって汗を吸わせる。その上で、その小麦粉を集めて卵や牛乳と混ぜ、焼き菓子のタネを作って一晩寝かせる。最後に、そのタネに焼いた自分の爪か髪の毛を混ぜ込んで、クッキーのようにして焼けばよいとのことだった。


 解説書を読みながら、亜衣は自分でも酷く胡散臭い方法だと感じていた。フェロモン入りの香水などと違い、その使い方はどうにも呪術めいている。科学的な根拠などなにもなく、むしろ呪いの儀式に近いもののような気がしてならない。


 だが、そんな方法こそ、都市伝説オタクの自分に相応しいのではないか。もともと媚薬を手に入れようとした時点で、ある程度の覚悟はしていたはずだ。


 それに、解説書には失敗した際のペナルティに関しては書かれていない。単に書くのを避けただけかのかもしれなかったが、そもそも誰かを呪い殺すわけではないのだから、呪い返しのような目に遭う可能性も低いだろう。神懸かった存在に頼るわけでもないので、祟りとも無縁のように思われる。


「よっし……。まあ、なにはともあれ、まずは試してみないとね。明日は休みだし、朝からお風呂に入ってお菓子の生地を作ることにしますか」


 既に亜衣の頭の中では、明日の朝から呪い……もとい、惚れ薬入りクッキー作成の儀式がシミュレートされていた。後は、この薬の効果を信じ、明日の朝から菓子作りにとりかかるだけである。


 ネットオークションで手に入れた、効果の程さえも定かではない謎の媚薬。霊感商法まがいの如何わしい商品だったが、今の亜衣には薬に対する信憑性よりも、その効果を試してみたいという好奇心の方が大きかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌週、バレンタイン当日。


 いつもはぎりぎりまで布団から出てこない亜衣だったが、その日は珍しく早起きをしていた。まあ、無理もない。昨日から仕込んでいた媚薬入りクッキーを、いよいよ焼く時が来たのだから。


 早朝の五時から起き出して、亜衣は昨日から寝かせておいた媚薬入りの生地を冷蔵庫から取り出した。生地は程良い柔らかさを保っており、これを伸ばして型で抜けば、後はそのまま焼くだけの状態だった。


 まだ、家族の者が誰も起きていないのをいいことに、亜衣は台所に菓子作りの道具を広げて格闘を始めた。もとより、家庭的なイメージとは程遠い亜衣のこと。菓子を一つ作るだけでも、予想以上の大仕事なのである。


 案の定、単に菓子を作っているだけのはずなのに、気がつけば台所は見るも無残に汚れきっていた。水に濡れた小麦粉がべったりとステンレスのシンクに張り付き、ところどころ零れた菓子の生地も散っている。オーブンで焼いた菓子はどれも形が悪く、幼稚園児が適当に紙粘土を練って作ったような不格好な塊になっていた。


「うむむ……。やはり、慣れないことはするもんじゃないのかなぁ。なんか、見るからに不味そうだよね、これ……」


 自分で作った、しかも自分の身体の一部まで入れた菓子なのに、こうも酷い出来というのはいかがなものか。これが媚薬と共に意中の相手の腹に入ることを考えると、嬉しい反面申し訳なくも思えてしまう。


「やっぱり、形の良いやつだけ選んであげた方がいいよね。別に、全部食べさせなくたって効果はあるだろうし……。余ったやつは、適当に地面にでも埋めちゃえばいいかな?」


 皿の上に山盛りになったクッキーを見て、亜衣は思わず呟いた。中にはうまくできたものもあるが、あまりに酷い形のものを渡すのは気が引ける。自分でも料理は下手な方だと思っていたが、それでも人並みのプライドは亜衣も持ち合わせているのだ。


 クッキーの山の中から手頃な物を選び出し、亜衣はそれを包むための箱を用意しようと台所を離れた。が、その途端、亜衣の腹を突如として急激な腹痛が襲った。思わず腹に手を押さえ、洗面所に直行せねばならないほどに強烈なものだ。


「うぐっ……! や、やばいよ、これは……。もしかして、眠気覚ましに朝からコーヒーを三杯も飲んだのがいけなかったかな……」


 もとより朝に弱い亜衣のこと。菓子作りの途中で二度寝しないために、朝からコーヒーを飲み過ぎたのが災いしたらしい。哀れ、亜衣は腹と尻をそれぞれ片手で抑えたまま、決して同級生の男子には見せられないような歪んだ顔つきをして洗面所に駆け込んだ。


「くぅ……。こんなところで腹痛を起こすなんて……我ながら、不覚……」


 その言葉を最後に、亜衣はしばらくの間、洗面所に立て籠ることになってしまった。台所には誰もいなくなり、散らばった菓子作りの道具と焼き上がったクッキーの山だけが残されている。


 騒ぎの終わった無人の台所。朝っぱらから酷く汚されたその場所には、再び静寂が訪れる。


 だが、しばらくすると、そんな台所に一つの人影が姿を現した。寝癖の目立つ頭に無精ひげを生やした顔。それに、裾がよれよれに伸びたパジャマを着て、眠そうに目を擦る一人の男。嶋本家の大黒柱でもある、亜衣の父である。


「ふわぁ……。なんだ、妙に朝から騒がしいと思ったら……亜衣が、また何かやらかしたのか?」


 しょぼくれた目を擦りながら、亜衣の父はふと台所にあるクッキーの山に目を向けた。大皿に山盛りにされたそれは、形こそ悪そうなものの、なかなかどうして美味しそうな香りがしている。


「そういえば、今日はバレンタインだったな。亜衣のやつ、それで朝から何やら作っていたのか」


 そう言いながら、亜衣の父は大皿に盛られたクッキーの中でも特に歪な形をしたものを選び、一つだけ摘まんで口に放り込んだ。娘に断りもなくクッキーを食べることは申し訳ないとも思ったが、それでも一つくらいならいいだろう。比較的形のよいものは学校の友人や娘の好きな男子の腹に入るのだろうが、それ以外の失敗作は、例年の如く家族の者が処理させられるのがお約束だからだ。


 亜衣の父が選んだクッキーは、どう見てもその辺に転がっている石ころのような形をしていた。もっとも、そんな酷い見た目に反し、なかなかどうして味は良い。


「ほう、やるじゃないか、亜衣のやつ。この分だったら、今年は酷い味の失敗作を食べさせられることはなさそうだな」


 娘の作ったクッキーの味に満足し、独り頷く亜衣の父。すると、洗面所から水の流れる音がして、中から亜衣が姿を見せた。


「あっ、お父さん!」


「おや、亜衣。お前、そんなところにいたのか。さては、味見のつもりで自分の作ったクッキーを食べ過ぎたのか?」


「そんなんじゃないよ! それより、そのクッキー。まさか、勝手に食べたりしてないよね?」


「えっ……。い、いや、別に、そんなことは……」


「だったらいいんだけどさ。それ、今日学校に持って行くやつだから。お父さんには別にちゃんとチョコを用意しておくから、つまみ食いは禁止だよ!!」


「あ、ああ……。わかっているさ」


 洗面所から出るなりこちらに詰め寄ってきた亜衣に、彼女の父はそう言ってごまかすのが精一杯だった。本当は、後で亜衣に軽く謝っておくつもりだったのだが、いつにも増して激しく責め立てるような口調の娘に、つい本当のことを言えなくなってしまったのだ。


 紙の箱にクッキーを詰める亜衣を横目に、彼女の父は新聞を取りに玄関に向かった。その間にも、亜衣は皿に盛られたクッキーを箱に詰め込んで、最後に綺麗な紙で包装してリボンをかけた。


「うーん……。なんか、予想以上にたくさんできちゃったね。でも、上手にできたやつは全部食べてもらいたいし……。まあ、これはこれで、オッケーかな?」


 ピンク色の紙に包まれた箱を見て、亜衣はさすがに調子に乗り過ぎたと反省した。作ったクッキーの中でも比較的形のよい物を選んで箱に詰め込んだのだが、それでもかなりの量がある。一人で食べるには明らかに多過ぎる量であり、ちょっとしたお歳暮の箱くらいの大きさになっていた。


 これが普通のクッキーならば、残り物を適当に家族で分けて食べればよいだろう。だが、今年のこれはただのクッキーではない。特製の媚薬を使って作り上げた、意中の相手を自分に振り向かせるための呪術クッキーなのだ。


 一人分としては少し大き過ぎる贈り物を学校の鞄に詰め込んで、亜衣は再び台所に立ち片付けを始めた。散らかっている台所を片付けるのは面倒だったが、それでも朝食の準備さえできない状態にしていては、さすがに母親に叱られる。


(むふふ……。今まではチビだのガキだのと言われて来た私ですが、今年のバレンタインはちょっと違いますぞ……)


 菓子の生地がこびりついた流し台を洗いながら、亜衣は自分の好意を寄せる男子から告白されることを想像して思わずにやりと笑ってしまった。しまりのない目つきに涎の垂れた口元。こんな姿を見られれば、むしろ百年の恋さえも醒めてしまうだろうというような顔をして。


 やがて、母親も姿を見せ、嶋本家の朝はいつもの日常を取り戻す。だが、このときは、亜衣はまだ自分にこれから降りかかるであろう災難に、まったく気づいてはいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 その日、亜衣の通う県立火乃澤高校は、バレンタインムードで一色だった。日本全国、この日だけは、男子も女子も妙に色めき立っているのが嫌でも分かる。


 意中の異性に想いを告げる、年に一度の一大イベント。そう言ってしまえば聞こえは良いが、実際に漫画やドラマのような甘い展開になる男女は一握りしかいない。


 バレンタインというだけで、絶対に誰からも菓子をもらえないであろう男子までもがあらぬ期待を胸に抱き、絶対に想いを受け止めてもらえそうにない女子までもが甘い妄想に浸っている。そして、そんな彼らの横では、来月の十四日に向けて大量のお返しを入手すべく、義理チョコを誰彼の見境なく配りまくる女子もいる。


 はっきり言って、見ていてとても痛々しい。もっとも、媚薬入りのクッキーを作った自分も例外ではないため、亜衣は何も突っ込まずに黙っていることにした。それに、クラスメイトの行動に野暮な突っ込みを入れるよりも、やはり友人が誰に何をあげたかの方が気になった。


「ねえ、照瑠。照瑠も誰かにチョコあげた?」


 教室に着くなり、亜衣は友人の九条照瑠くじょうあきるに声をかけた。


 照瑠は火乃澤町に昔からある九条神社の跡取りだ。亜衣とは違い身長は高く、モデルのような体型をしている。今時の女子高生にしては珍しく、可愛いというよりは美しいという表現が良く似合う少女である。


 亜衣の交友関係は極めて広かったが、照瑠とは殊更奇妙な縁で結ばれていた。昨年の六月に奇妙な転入生が学校に現れてからというものの、彼女と一緒に怪奇な事件に巻き込まれることも多かった。以後、互いにまったく違う性格であるにも関わらず、二人の奇妙な交友関係は続いているというわけである。


 照瑠は亜衣とは違い、その容姿から男子の間で人気も高い。故に、彼女が誰かにチョコをあげたのかは、男でなくても多少は気になるというものだ。


 ところが、そんな亜衣の気持ちに反し、照瑠の口から出たのは「特に、何もしてないわよ」という期待外れの答えだった。亜衣自身、多少は覚悟していたものの、やはりこれには少しがっかりである。


「はぁ……。照瑠、相変わらず真面目だね。もしかして、神社の巫女さんだから、軽い行動は控えようってやつ?」


「そんなんじゃないわよ。ただ、別に本命をあげる相手がいないってだけ」


「なんだ、つまんないの。折角イケメンが近くにいるんだから、照瑠も恋の一つでもすればいいのにさ」


 そう言いながら、亜衣は教室の隅にある机に突っ伏して寝ている一人の少年に目をやった。


 犬崎紅けんざきこう。昨年の六月に、この火乃澤町に現れた謎の多い少年である。先天性の色素欠乏症なのか、その髪の毛は常人とは異なる白金色。肌の色もクラスの女子が羨むほどに白く、瞳の色は生まれつき赤い。強過ぎる紫外線は身体に悪いため、日中は日陰で寝てばかりいることが多かった。


 だが、それにも増して彼を特異な存在にしているのが、その内に秘める力だった。


 そもそも、紅が火乃澤町にやってきたのは、古の封印を解かれて現代に蘇った伝説の魔物を追ってのことである。彼は霊的な存在に通じる力を持ち、それらを退治するための刀や≪犬神≫と呼ばれる一種の妖怪を使役して、今までも多くの怪奇事件を解決に導いてきた。


 闇を用いて闇を祓う、あかの一族の末裔。時に紅は自分のことを、そう言って他人に説明した。その赫の一族というものが何なのかは亜衣にもわからなかったが、少なくとも彼が普通の高校生でないことくらいは既に承知している。こと、霊的な存在に立ち向かう際の紅の姿は、いつもの教室で爆睡している姿とは似ても似つかないものだからだ。


「それにしても、照瑠も本当に勿体ないよね。これだけ男子にモテて、しかも身近にイケメンまでいるのに、彼氏の一人も作らないなんて贅沢だよ」


「贅沢って……。私は別に、今はそこまで熱を上げられるほど好きになれる人もいないだけで……」


「だから、それが贅沢だって言ってんのさ。今はなんとも思わないかもしれないけど、誰かに取られてから惜しくなるってこともあるんだからね。いつまでも側にいるだけで安心してちゃ、いつか物凄い後悔をすることになるかもしれないんだよ」


「亜衣……。あなた、何が言いたいわけ?」


「別に何も。ただ、私は照瑠が犬崎君に、チョコをあげたかどうか気になっただけだからさ」


「なっ……! 馬鹿なこと言わないでよ! どうして私が、あの無愛想なやつにチョコをあげなきゃならないのよ!!」


 亜衣は軽い気持ちで言ったつもりだったが、紅の名前が出た途端、照瑠は顔を真っ赤にしたまま全力で亜衣の言葉を否定した。


 確かに亜衣の言う通り、犬崎紅は美系の部類に入るだろう。しかし、その性格は極めて不器用で、さらには浮世離れしているところもある。


 ぶっきらぼうで口が悪く、おまけに少々金に意地汚い。根は優しい部分もあるのだろうが、普段は決してそれを人に見せようとはしない。照瑠自身、紅のことが妙に気になってはいるものの、それが世間一般で言う恋心とは少し違うものであることくらいはわかっていた。


「悪いけど、私は別に犬崎君とは何もないからね。そういう話は、もっと別の人にしたらどう?」


「むぅ……つまんないなぁ、もう。照瑠と犬崎君がラブラブになれば、無敵の心霊カップルの誕生だと思ってたのにさ」


「なに下らないこと言ってるのよ。そんなことより、あなたの方はどうなのよ。どうせ、来月のお返し欲しさに、そこら中に義理チョコ配りまくったんでしょ」


「ふっふっふ……。残念だけど、ハズレだよ。私だって、お年頃の女の子だからね。ちゃんと気になる人のところに、しっかり本命を届けておいたんだ」


「お年頃の女の子って……自分で言ってれば、世話はないわよ」


 相変わらずな調子の亜衣に、照瑠は半ば呆れた様子でそう言った。


 亜衣が誰に何を渡したのか、照瑠にも興味がないと言えば嘘になる。しかし、亜衣の性格を知っている者としては、これ以上は下手な詮索をしない方が得策だった。無駄に藪蛇を突いたところで、出てくるのは決まって下らない迷信話か都市伝説。後は、少々エッチで下品な話かミーハーな話題と決まっているのだから。


 ホームルームの開始を告げる予鈴が鳴り、照瑠と亜衣はひとまず話を終えて席についた。クラスメイト達が着席する中、犬崎紅は相変わらず机に顔を埋めて爆睡している。そんな彼の様子が少しだけ気になった照瑠だったが、教室に担任が入ってきたことで、すぐに意識を正面に向け直した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 部活動というものは、学生時代にしか楽しめない特権の一つだ。スポーツにしろ芸術にしろ、大人になってから思う存分にやろうとしても、なかなかできるものではない。プロになるのは更に厳しく、それこそ一握りの人間しか栄光をつかめない。


 陸上、野球、サッカー、そしてバスケット。スポーツが好きな者ならば、誰もが一度は運動部を経験したことがあるだろう。特に野球部やサッカー部などは、学校によっては高い人気と長い伝統を持っているところもある。火乃澤高校の野球部も、そんな部活動の一つだった。


 放課後、学校の授業が終わった時間から、彼らはいつもの通り練習を開始する。野球部のエースである里中祐樹さとなかゆうきにとっては、日々の勉強以上に野球の練習が大切なものとなっていた。


 里中は、現在高校二年生。火乃澤高校の野球部員の中でも、特にその実力を期待されている人材である。


 彼のポジションは、当然のことながらピッチャーだ。時にOBの先輩さえも舌を巻くほどの剛速球を投げる彼は、将来は間違いなくプロ野球の道に進むだろうと言われていた。本人もそれを信じて疑わなかったし、なによりもプロになりたいという目標を目指し、今まで野球に打ち込んできた。


 こう言うと、里中が野球しか見えていない熱血馬鹿だと思う人がいるかもしれない。実際、里中も勉強の成績は決して良い方ではなく、主に野球の大会で結果を残すことで学校に貢献していた。


 だが、そんな里中ではあったが、意外にも後輩達からの人望は厚かった。もともと兄貴肌な性格だったために面倒見がよく、三年生が引退した今では部長を任されている。また、身だしなみにも気を使う方で、その顔立ちも整っていたことから女子にも人気があった。


 部活も違い、しかも今でこそ引退してしまったが、同じ火乃澤高校の三年生、中原雅史なかはらまさしとは良い意味でライバル視されていた。こと、女子の人気を得ている学校のアイドル的な存在として、他校にもそれなりに名が知られていた。サッカー部の中原と野球部の里中と言えば、火乃澤高校におけるイケメンの代名詞だったのだ。


 今日はバレンタインデー。当然のことながら、里中の手元には学校中の女子から送られて来たチョコレートの山が溢れ返っていた。昨年は主に女の先輩からもらったものが多かったが、今年は後輩から送られて来たものもたくさんある。今朝も学校に着くなり女子の群れに囲まれて、半ば強引に全てのチョコレートを渡されたことは記憶に新しい。


「先輩、凄いっすね。俺なんか、母ちゃんからの義理チョコしかもらったことないから羨ましいっす」


 後輩の一人が、里中の周りに並べられたチョコの山を見て言った。


「そうか? でも、これはこれで、結構大変なもんなんだぞ。中身が生菓子なんかだと、早めに食わなかったら腐っちまうし……こんなに甘いものばっかり食べてたら、さすがに俺だって胃もたれするぜ」


「それ、贅沢な悩みってやつっすよ。俺だったら、一度でいいから女の子から山のようにチョコレートもらって、鼻血が出るまで食いまくりたいって思いますけど」


「おいおい……。こういうのは、数じゃなくて気持ちの問題じゃねえの? ま、そんなに言うんだったら、どれでも好きなやつをお前達にやるよ」


「えっ、マジッすか!? さすが里中先輩! やっぱ、部長になる人は懐が違うっす!!」


 里中の一言で、部室にいた後輩達がにわかに騒ぎ出した。本命の女の子からチョコレートをもらうのとは違ったものの、まさかこんな形でバレンタインのチョコを口にできるとは思っていなかったからだろう。


「それじゃ、とりあえずこれでも開けてみるか。なんかやけにデカイ箱だし……もしも本当に生菓子なんかだったら、それこそ早目に皆で食っちまった方がいいからな」


 そう言って、里中は自分のもらった箱の中でも一際大きなものを選んでリボンを外した。ピンク色の包装紙を取り除くと、中から現れたのは白い箱。さらにその蓋を開けると、ほんのりとした甘い香りと共に、なにやら不格好な形のクッキーが姿を現した。


「うわっ、なんすか、これ!? なんか、随分と形の悪いクッキーっすね……」


「ああ、そうみたいだな。でも、問題は形じゃなくて味だろ、味。見たところ手作りみたいだし、形が不揃いなのも仕方ないんじゃねえの?」


「ま、それもそうっすね。それじゃ、遠慮なくいただきます!!」


 日頃から、練習で激しいトレーニングをしている野球部員達のことである。常に腹を減らしていると言っても過言ではなく、部活中に甘い物が食べられるともなれば争いは必至だ。


 半ば奪い合うようにして、後輩達は瞬く間に差し出されたクッキーを一つ残らず平らげた。あれだけたくさんあったクッキーだったが、食欲旺盛な野球部員達を前にしては、ほんの軽食代わりにしか過ぎなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夕方、学校が終わる時刻。


 その日に限り嶋本亜衣は、未だに学校に残っていた。今日のためにクッキー作りを張り切りすぎた結果、日本史のレポート課題をやり忘れていたのが原因である。


 課題の提出は、本日の昼休みまでが期限。しかも、日本史の先生は、頭の固いことで有名な頑固ジジイである。当然、未提出など許されるはずもなく、亜衣は今の今まで学校に残されてレポート課題と格闘していたというわけである。


「まったくもう! あのハゲダヌキ、どうしてこんな日に限って居残りなんてさせるのさ!!」


 本人が目の前にいないのをいいことに、亜衣は言いたい放題言いながら廊下を走った。そろそろ部活も終わる時間。今朝、気合を入れて作ったクッキーがどうなったのか。今日は一日中それが気になって仕方がない。


 一階へ続く階段を降り、亜衣はそのまま廊下を抜けて運動部の部室が集まっている場所に出た。彼女はその中から≪野球部≫と書かれた扉を見つけると、肩で息をしながら軽くそれを叩く。


「はぁ……はぁ……。なんか、他の子に紛れて勢いで渡しちゃったけど……里中先輩、ちゃんと私のクッキーを食べてくれたかな?」


 扉の向こう側からの返事を待ちながら、亜衣は呼吸を整えつつ呟いた。彼女が特製の媚薬入りクッキーを渡した相手。それは他でもない、野球部のエースである里中だった。


 二分、三分と時間がたち、徐々に亜衣の呼吸も落ち着いてくる。が、いくら待っても扉の向こうから返事はなく、亜衣は不思議に思って首をかしげた。


 亜衣の住む火乃澤町は東北にあり、この季節は彼女の身の丈が埋まるほどの雪が降ることもざらにある。現に、今日も雪が降っており、街は一面が白く染められていた。


 もっとも、雪のせいで運動部が練習を止めることなどは、火乃澤高校においては考えられなかった。外で練習することはできないものの、体育館や剣道場、柔道場などを借りての筋トレを中心にトレーニングを続けている。他の部活との兼ね合いで連日の使用ができるわけではなかったが、それでも冬眠中の熊のように何もしないでいるわけではないのだ。


 この時間、野球部は練習を終えて部室に戻っているはずだった。着替えの最中にしても、ノックをしたのだから返事くらいはあっても良いはずだ。自分でも割と強めに扉を叩いたとは思っていたため、ここまで静かだと逆に不気味である。


「おかしいなぁ……。野球部の人たち、今日はもう帰っちゃったのかなぁ……」


 扉の前で腕組みをしたまま、亜衣は難しい顔をして考える。試しにもう一度扉を叩いてみたが、やはり返事はない。部室には最初から誰もいなかったかの如く、気味の悪いほどの静寂に包まれている。


「里中先輩! もしもいないなら、野球部の人なら誰でもいいけど……返事してくれないと、こっちからドアを開けちゃうよ!!」


 いつもより少し大きめの声で、亜衣は高らかに叫んでドアノブに手をかけた。これで返事がなければ、恐らく部屋には誰もいないのだろう。そう思ってドアノブを回すと、意外にも扉には鍵がかかっていなかった。


(あれ、鍵が開いてる……。先輩達、帰ったんじゃないのかな?)


 扉が簡単に開いたことを不思議に思いながらも、亜衣はそっと野球部の部室に足を踏み入れた。下手をすると着替え中の野球部員と鉢合せする可能性もあったが、そんなことよりも部室に漂う奇妙な静けさの方が気になった。


 火乃澤高校の中では比較的大所帯な部活だったが、それでも野球部の部室は決して広いわけではない。基本、ロッカールームのような部屋なので、隠れるところなど見当たらない。


 果たして、亜衣の予想は正しく、彼女のお目当ての相手はすぐにみつかった。数人の野球部員と共にこちらに背を向けて立っていたが、後姿からでも見間違えるはずはない。


「もう、里中先輩、ちゃんといるんじゃん! いるならいるで、返事くらいして下さいよ!!」


 部室に人がいたことで安心し、亜衣はそう言いながら部長の里中の背中を叩いた。が、それでも里中は何も言わず、亜衣に背中を向けたまま立ち尽くしている。


「ちょっと、先輩! 人が話しかけてるのに無視するなんて、酷いじゃないですかぁ!!」


 里中から返事がなかったことで、亜衣は少々立腹しながら叫んだ。この調子では、先輩は媚薬入りクッキーを食べてくれなかったのか。もしくは媚薬の効果など嘘っぱちで、あれは単なる詐欺だったのか。そう、亜衣が思ったときである。


 今まで何も言わなかった里中が、ゆっくりと亜衣の方へ振り返った。いや、里中だけではない。その場にいた野球部員達の全員が、一斉に亜衣の方へと向き直って彼女を見た。


「ひっ……! せ、先輩……ど、どうしたんですかぁ!?」


 こちらを向いた里中の顔を見て、思わず悲鳴を上げて後ずさる亜衣。まあ、それも無理もないことだろう。彼女の方を向いた里中の顔は、既に人間らしさというものを完全に失っていたのだから。


 死んだ魚のように白目を剥き出しにし、その中にどんよりと濁った仄暗い光を湛える野球部員達。口からはだらしなく涎を垂らし、同じく力なく垂れた両腕がふらふらと揺れている。そう、まるで映画に出てくるゾンビのように、今の彼らは完全に正気を失っていた。


「う……あぁ……」


 生臭い息と共に、里中がなにやら声を出した。いつもはイケメンで通っている里中だが、こんな顔ではまったく格好良いとは思えない。生気を抜かれたゾンビの顔は、里中の男としての魅力を完全に奪っていた。


「あ、亜衣……」


「えっ……!? せ、先輩、私のことがわかるんですか!!」


「す……す……」


 ずるずると足を引きずるようにして、里中を始めとした野球部員が亜衣に迫る。別に取って食おうというわけではないのだろうが、それでもあまりの不気味さに、亜衣は徐々に扉の方へと追い込まれて行く。


「す……す……」


 相変わらず、野球部員達は言葉にならない声を上げていた。が、そんな中、里中と亜衣の距離が目と鼻の先まで近づいたとき、部員達がいきなり両手を前に突き出して叫び声を上げた。


「好きだぁぁぁぁっ!!」


 次の瞬間、里中を先頭に、今まで大人しくしていた野球部員達が一斉に亜衣に襲い掛かってきた。その姿は、さならが獲物を狙う獣そのもの。例えるなら、それこそ映画に出てくるゾンビの群れである。


「ひぃぃぃぃっ! で、出たぁぁぁぁッ!!」


 里中の両腕が自分の身体を抱きしめようとした瞬間、亜衣はそう叫んで一目散に逃げ出した。後ろからは里中を始めとした野球部員達が、ぞろぞろと彼女のことを追いかけてくる。亜衣の姿以外は目に入っていないのか、途中で誰かにぶつかりそうになっても気にする様子はない。


 生きながらにしてゾンビ同様の姿となった、男達の群れが追いかけてくる。年頃の、それも未だに小学生と同じくらいの身長しかない少女にとって、これは何物にも代えがたい恐怖である。


 相手は学校のアイドル的存在である里中だったが、今の亜衣には自分が襲われるのではないかという恐怖の方が大きかった。それに、好きでもない野球部員達にまで執拗に追い回されるのは、はっきり言って勘弁して欲しい気持ちだった。


「もう、いったいなんなのさ! どうして先輩だけじゃなくて、皆して私を追いかけてくるの~!!」


 学校を飛び出し、雪の降り積もる道を全力で逃げる亜衣。そして、その後ろから追いかけてくるゾンビと化した野球部員達。夕暮れ時の街中で、一種異様な逃走劇が繰り広げられる。


 大通りを抜け、商店街を抜け、最後は休耕中の畑を横目に亜衣は逃げた。が、ゾンビ達も負けじと亜衣を追い続け、一向に引き離すことができないままだ。いや、むしろ、逆に距離を縮められているのではないかと思うのは気のせいか。


 雪の積もった道は走り難く、亜衣は苛立ちと恐怖が入り混じったまま逃げ続けた。下手に焦るとそのまま雪に足を取られて転びそうだったが、この状況では焦るなという方が無理である。


「あっ!!」


 気がついたときには、既に遅かった。


 ちょうど、坂の辺りにさしかかったところで、亜衣は凍結していた道に足を滑らせて豪快に尻もちをついた。背中を地面に強打してしまい、背骨を通して鈍い痛みが全身を襲う。しかも、それだけでは終わらずに、亜衣の小さな身体はそのまま坂道を滑り落ちて、最後は電柱の脇に作られた雪だるまに激突して動きを止めた。


「うぅ、最悪……。どうして私がこんな目に……」


 雪まみれになった身体のまま、亜衣は頭を二、三度振って起き上がった。頭は少しふらふらしていたが、それでも休んでいる暇はない。こうしている間にも、あのゾンビ達がこちらに向かっていないとも限らない。


 果たして、そんな亜衣の予想は正しく、ゾンビ達は既に坂の上まで迫っていた。しかも、坂の下で雪に埋もれている亜衣をみつけるなり、「好きだぁぁぁぁっ!!」と叫んで突撃してきたのである。


「げっ!!」


 次の瞬間、亜衣は再び自分の目を疑った。


 亜衣を追ってきた、ゾンビと化した野球部員達。彼らは一様に凍結した坂道にダイブすると、そのままこちらに向かって滑り降りて来たのである。調度、ペンギンが腹を使って氷の上を滑るようにして、坂道を滑走して来たのだ。


 これが動物園のペンギンだったならば、「可愛い」と言われて受け入れられたことだろう。しかし、相手はペンギンではなく暑苦しい野球部員。しかも、完全に正気を失って、ゾンビ同様の顔となった最悪の状態。そんな者達が次々に凍った坂道を滑走してくる様は、どこか滑稽だが生理的に受け付けない何かがある。


「ひぃぃぃっ! 気持ち悪ぃぃぃっ!!」


 身体の雪を払う余裕などなかった。亜衣はなんとか雪の中から脱出すると、そのまま住宅街へと向かって逃げ出した。その際、後ろの方でゾンビの一人が雪だるまに激突したような音がしたが、今はそんなことに構っている場合ではない。


 今度は転ばないように、亜衣は凍結した場所を避けながら街の中を逃げ回った。路地に入り、角を曲がり、公園を横目に走りきればもうすぐ我が家だ。


 道端の雪を蹴り飛ばし、亜衣は後ろも振り返らずに家の中へと駆け込んだ。傘立てに傘を置いている暇などなく、そのまま玄関に飛び込んで、鍵をしっかりと閉める。


「ふぅ……。なんとか助かったかな……」


 ゾンビの群れから辛うじて逃げ切り、亜衣は安堵の溜息をついて壁に寄り掛かった。ふと、足元を見ると、見覚えのある茶色の皮靴が置いてある。どうやら今日は、珍しく父の方が先に帰っていたようだ。


「あれ……。お父さん、今日は会社が早く終わったのかな?」


 亜衣の父は、どこにでもいる平凡なサラリーマン。会社帰りに飲んで来ることも多く、基本的には家にいない。母親も共働きしているため、亜衣の家には夕方になっても人がいないのが普通である。


 そんな父が、今日に限って早く会社から帰って来ている。不思議に思った亜衣だったが、直ぐに気を取り直して家に上がった。父が早く帰っていたことで、家の鍵が開いていたのは幸いだ。あのまま扉の前で開錠にもたついていたら、それこそゾンビに追いつかれていたかもしれないのだ。


「それにしても、なんだか妙に静かだね。お父さん、いつもだったらリビングでテレビでも見ているはずなんだけど……」


 体についた雪を払い落し、亜衣はそっとリビングへ続く廊下を歩いた。部屋の中を除いて見ると、誰もいない。テレビもついていないし、煙草も新聞も出ていない。いつもであれば放り出してあるはずの鞄も、部屋のどこを探しても見当たらなかった。


 父が帰っていたとばかり思ったが、あれはもしかして勘違いだったのか。父と母のどちらかは知らないが、鍵を閉め忘れて家を出たのではないか。


「まったく、不用心だよね。いくら私の家に盗むような物がないからって……変質者が侵入しないとも限らないのにさ」


 身内の不精な行為に腹を立てつつ、亜衣はそんなことを口にしてリビングに入る。だが、彼女が部屋に入った瞬間、二階から何かを引きずるような音が聞こえて思わず肩をすくめた。



――――ズルッ……。



 布が擦れるような、それでいて何か重たい物を引きずるような独特の音。この音は、亜衣が先ほどの学校で聞いた音だ。



――――ズルッ……。



 また、音がした。今度は聞き間違いなどではない。音は確かに二階から聞こえ、しかもこちらに近づいている。


「ちょっと、今度はなんなのさ……。もしかして、一難去ってまた一難ってやつ……?」


 ゾンビから逃げられたのも束の間、今度は家に変質者でも侵入していたのか。リビングにたまたま置いてあった箒を持って、亜衣はそっと廊下に出る。


「あっ……!!」


 そこにいたのは、他でもない亜衣の父だった。二階に続く階段の上で、見下ろすようにして亜衣の方を向いている。だが、その顔を見た瞬間、亜衣の顔に見る見る先ほどの恐怖が蘇ってきた。


 白目を剥き、猫背に曲がった背中とだらしなく下がった両腕。口からは涎を垂らし、全身がふらふらと力なく揺れている。


 間違いない。あれは、亜衣に襲い掛かってきた野球部員と同じゾンビだ。恐らく、死んではいないのだろうが、それでも完全に正気を失っているという点では同じである。


「あ……あぁ……」


 父の口から掠れるような声が漏れた。それを聞いた亜衣は、箒を構えつつも徐々に後ろに下がって行く。


「あぁぁ……亜……衣……」


 父が、亜衣の名を呼んだ。いつもであれば普通に返事をするところだが、今はそんな気分ではない。亜衣の予想が正しければ、この次に起こることは目に見えているからだ。


「す、好きだぁぁぁぁっ!!」


「ひぃぃぃぃっ! ど、どうしてお父さんまでぇぇぇぇっ!!」


 予感的中。完全に錯乱状態となった父は、階段を一気に駆け下りて亜衣に襲いかかってきた。その、あまりの勢いに、亜衣は思わず腰を抜かしてその場に座り込む。すると、ゾンビ化した亜衣の父は、ここぞとばかり亜衣に飛びかかり、そのまま押し倒さんと迫ってきた。


「お、お父さん、やめてぇぇぇっ! 父親が娘にそんなこと言うなんて、さすがにヤバ過ぎるってば!!」


 迫りくる父親の手を懸命に箒の柄で防ぎながら、亜衣はなんとか相手の腕を振り解こうともがいた。が、例え錯乱しているとはいえ、相手は大人の男である。小学生と同じくらいの体格しかない亜衣では、振り解こうにも振り解けない。


「うぅ……。お父さん、ごめん!!」


 こうなったら、手段を選んでいる暇などない。


 亜衣は隙を見て父の股間を蹴り飛ばすと、そのまま滑るようにして相手の腕の中から逃げ出した。続けて今度は廊下に置いてあった花瓶を手に取ると、それでゾンビ化した父の頭を殴りつけた。


 ゴッ、という鈍い音がして、父親ゾンビは廊下に倒れた。頭から血が出ていないことからして、恐らくは気絶しただけだろう。


 自分のしたことに多少の後ろめたさを感じつつも、亜衣はそのまま二階にある自分の部屋へと逃げ込んだ。復活した父が入って来られないように鍵をかけ、今度こそ本当に安堵の溜息をついて座り込む。


「はぁ……。それにしても、どうしてこんなことになっちゃったんだろ……。もしかして、これってあの媚薬入りクッキーのせいなのかな……」


 里中を含む野球部員と、それから自分の父までもがゾンビ化した理由。考えられる原因は、自分の作った媚薬入りクッキーしかない。


 野球部員の変貌は、里中が後輩にクッキーを分け与えたということで説明がつく。本当は里中だけに食べて欲しかったのだが、当然のことながら向こうはそんなことなど気にしない。結果、媚薬の効果が複数の野球部員達にまで及び、こんなことになったのではないかと思うのだ。


 父に関しては、これはもうつまみ食いをされたと考えるしかないだろう。今朝、自分がトイレに駆け込んでいる間に、出来心からクッキーの一つを失敬したに違いない。媚薬の効果だったのかは不明だが、今日に限って会社から早く帰って来たのも、もしかすると亜衣に惹かれてのことかもしれなかった。


「それにしても……。もし、あれが本当に媚薬の効果だったら、ちょっと効き目あり過ぎだよ。いくら夢中になるにしても、あんな風になっちゃうなんて聞いてないし……」


 相手を自分の虜にさせる。それが、あの紫の小瓶に入っていた媚薬の効果だった。解説書にも書いてあったので間違いはないのだろうが、それでも少し効き過ぎだ。あそこまで見境がなくなってしまうのであれば、これはもう惚れ薬の域を越えて毒薬である。


 自分で撒いた種。そう言われれば何も言い返せないのだが、それでも亜衣は、これからのことを考えると途方に暮れた。


 野球部員達は、今も亜衣を探して街中を彷徨っているだろう。それに、廊下で倒れている父が目を覚ましたとき、それを母になんと伝えればよいのだろうか。この先のことを考えると、頭が重くて仕方がない。


 やはり、世の中に、そうそう旨い話など転がっているはずもなかったのだ。少しばかり反省しつつ、亜衣はふと自分の部屋の窓に目をやった。


「げっ……!!」


 それ以上は、何も言えなかった。


 亜衣の視界に飛び込んできたもの。それは、彼女を追って自宅までやってきた大勢の野球部員達だった。どうやって二階の屋根に登ったのかは不明だったが、それでも彼らは亜衣の部屋の窓にべったりと張り付いて、物欲しそうにこちらを見つめている。例の、白目剥き出しの顔はそのままに、だらしなく開いた口から垂れた涎が窓ガラスを濡らしていた。


「ひぃぃぃっ! も、もう勘弁してよぉぉぉっ!!」


 今度こそ、亜衣は本当に目に涙を浮かべながら大声で叫んだ。絶体絶命。脱出不能。そんな言葉が頭をよぎり、どんどん冷静な判断力が失われてゆく。



――――ドン、ドン、ドンッ!!



 部屋の戸を叩く音に、亜衣は軽い悲鳴を上げて身をすくめた。あれは、恐らく一階から上がってきた父だろう。ついさっき気絶させたばかりだというのに、いくらなんでも復活するのが早過ぎる。


 最早、手段など選んでいる場合ではなかった。後で何と言われようと、今はこの場を切り抜けるために最後の希望に全てを託すしかない。こういった類の事件を解決するのに最も相応しい人物。神の右手を持つ女子高生と、妖怪退治の専門家に助けを求めるのだ。


 未だ激しく叩かれている扉から離れ、亜衣は制服のポケットから携帯電話を取り出して番号を呼び出した。幸い、相手はすぐに気づいてくれたようで、数回のコールで電話が繋がった。


「あっ……。もしもし、照瑠?」


≪どうしたの、亜衣? こんな時間に、いきなり電話なんてかけて……≫


「それが、大変なんだよ! ゾンビが……バレンタインゾンビが、大挙して私の家に押しかけてきたんだ~!!」


≪バレンタインゾンビって……いったいなんなのよ、その微妙にキモカワイイ名前の怪物は……≫


「キモカワイイなんてもんじゃないよ! 頭の先から足の先まで、あれは全身キモグロイの塊だって!!」


≪はぁ……。なんだか知らないけど、また妙なことやって騒ぎを起こしたのね……。で、私はいったい、何をすればいいわけ?≫


「と、とにかく、まずは一刻も早く私の家に来て! あと、犬崎君には私から連絡しておくから……家の前で合流して!!」


 慌てて舌を噛みそうになるのをなんとかこらえながら、亜衣は電話越しに照瑠にまくし立てた。電話の向こうでは照瑠の呆れた声が溜息交じりに聞こえていたが、今の亜衣には自分を助けてくれる者さえいれば、後はどうでもよいことだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 九条照瑠が嶋本亜衣の家に着いたのは、亜衣から電話があってから数十分後のことだった。


 この寒い冬の夕暮れに、いきなりわけのわからないことを言って友人を呼び出す。相変わらず無茶苦茶だとは思ったが、それでも照瑠は亜衣のことを放っておくほど薄情ではなかった。


 それに、電話の向こう側で、亜衣は犬崎紅にも連絡を入れると言っていた。彼を呼び出すということは、どうやら今回も心霊事件が発生したということになるのだろう。もっとも、亜衣の話を聞く限りでは、今回は極めて下らない理由から起きた、別の意味で性質の悪い事件の可能性が高かったが。


 赤いバケツを帽子にした雪だるまのある角を曲がると、そこは亜衣の家だった。既に紅は先に到着していたようで、黒いコートに身を包んだまま電柱によりかかって待っていた。


「お待たせ、犬崎君。こんな寒い中、亜衣が馬鹿なことで呼び出してごめんね……」


「問題ない。それよりも、さっさと仕事を片付けるぞ。確かに下らない仕事だが、それでもあんな連中を街中に放置しておくわけにもいかないからな」


 その肌の色と同じくらい白い息を吐き出しながら、紅はあくまで落ち着いた口調で照瑠に言った。指差す代わりに血のように赤い瞳を亜衣の家に向けると、そこには無数の男達が壁や窓ガラスに張り付くようにして群がっているのが見て取れた。


「ちょっ……な、なんなのよ、あれ……」


「見てわかるだろう。あれは、俺達の学校の野球部員だ。なんでも、嶋本が作った媚薬入りクッキーを食べたら、見境なく嶋本のやつを追いかけるだけのゾンビになったらしい」


「媚薬って……あの娘、またそんないかがわしい物に手を出したってわけ!? なんて言うか……懲りないわねぇ……」


「確かにな。だが、愚痴を言っていても仕方がない。まずはあいつらを正気に戻し、媚薬の効果を祓うことが先決だ」


 事の次第を知って呆れる照瑠を他所に、紅はあくまで冷静だった。媚薬の出所や効果、それに作り主などが気になったが、単に男達を正気に戻すだけならば造作もないことだからだ。


「とりあえず、まずはあの連中を大人しくさせるぞ。それには九条、お前の力が必要だ」


「わ、私の力!? でも、私は犬崎君と違って、あんなゾンビと戦う力なんて……」


「勘違いするな。別に、戦う必要はない。ただ……連中は媚薬の力で正気を失って錯乱しているからな。お前の持つ癒しの気を送り込めば、恐らくは眠るように大人しくなるはずなんだが……」


「えぇっ!! それじゃあ、私にあのゾンビどもを触れって言うの!?」


「それ以外に、どんな方法がある。言っておくが、嫌悪感丸出しで気を送っても効果はないぞ。ちゃんと、相手のことを癒そうという気持ちを持って触れなければ、いくらやっても逆効果だからな」


「うぅ……。な、なんか、早くも最悪の展開になってきたわ……」


 亜衣の家のドアや窓に群がる暑苦しい野球部員達の群れ。あの中に突撃し、しかも介抱するようにして癒しの気を送り込まねばならないとは酷過ぎる。


 正直言って、やっていられないと照瑠は思った。確かに自分は九条神社の巫女として、ヒーリングの術を習得している身ではある。しかし、それでさえ未だ修業中であり、魔法のように誰でも癒せるというわけではない。


 だが、ここで自分が逃げ出してしまっては、亜衣を見捨てることになる。それに、もしも自分が野球部員達を眠らせることを拒否した場合、今度は紅が何をしでかすかわからない。


 犬崎紅は、仕事のためなら割と容赦ない行動に出ることもある少年だ。照瑠が何もしないとわかった途端、あの野球部員達を強引に眠らせようとするかもしれない。それこそ、呪術を使って気絶させるようなことから、果ては木刀で頭を叩いて昏倒させるようなことまで、顔色一つ変えずに行いそうなのだから恐ろしい。


 結局、自分がやるしかない。半ば諦めにも似た気持ちのまま、照瑠は亜衣の家に群がる野球部員達の背中を一人ずつさすり始めた。彼らは亜衣のこと以外は見えていないのか、照瑠に触れられても成されるがままだ。


(うぇぇ……。き、気持ち悪い……)


 ゾンビと化した野球部員達は、なぜか全員が汗だくだった。そればかりでなく、口からは涎と共に生臭い息を吐きだして、まるで吐瀉物に囲まれているかのような感じである。


(い、いけない、いけない。このままじゃ、亜衣を助けられないもんね……。無念無想。何も考えたら駄目よ、照瑠……)


 自分で自分に言い聞かせつつ、照瑠は野球部員の身体に少しずつ癒しの気を送っていった。すると、程なくして気を送り込まれた部員の一人がその場に倒れ、実に安らかな寝顔になって軽い寝息を立て始めた。


「ま、まずは一人ね……。こうなったら、もうどんどん行くわよ!!」


 一人を寝かしつけると、後は意外と楽だった。完全にやけくそになって割り切っている部分もあったが、それでも照瑠は力を振り絞り、自分の持つ癒しの気をゾンビ達に送り込み続けていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 照瑠が亜衣の家に群がるゾンビを全て大人しくさせたとき、既に空には大きな月が浮かんでいた。雪雲は風と共にどこかへ消えていたが、それでも晴れやかな気持ちとは程遠い。むしろ、全身の精気を余すところなく搾り取られたような気がして、照瑠はぐったりとした顔のまま、その場に力なくへたり込んだ。


「つ、疲れた……。さすがに、あれだけの数の人に気を送るのは、ちょっと無理があったかな……」


「よくやったな、九条。まあ、後は俺に任せておけ」


 稀に見る大仕事をやってのけたにも関わらず、紅は照瑠のことを気遣う素振りさえ見せなかった。相変わらず、無愛想で口の悪い男である。もっとも、いつもであれば不快感を露わにする照瑠だったが、今日は怒る元気も残されていない。


「後は、こいつで最後の仕上げだ。こいつらが目覚めた時に、再び暴走しないよう……俺が媚薬に込められた呪詛の力を祓ってやる」


 あくまで落ち着き払った様子で、紅は胸元から数体の紙人形を取り出した。無地で純白の和紙を使って作られた、本当に簡単な作りの紙人形である。


 今、紅の目の前には、照瑠が暴走を鎮めた野球部員と亜衣の父親が眠っていた。紅はそんな彼らから髪の毛を一本ずつ引き抜くと、それを器用に紙人形の中に入れてゆく。人形の折り目をポケットの代わりにして、その中に髪の毛を挿し込んでいるのだ。


「け、犬崎君……。いったい、なにやってるのさ?」


 今まで部屋に隠れていた亜衣が、照瑠の後ろからそっと覗いて言った。ゾンビ騒動は収まったものの、事件が完全に解決するまでは、まだ少しだけ不安が残っているようだった。


「説明は後だ。それよりも、お前はこいつらが目覚めた後の言いわけでも考えておけ。俺はこれから、媚薬の呪いを完全に流し去らなければいけないんでな」


 紙人形を再び胸元にしまい、紅は亜衣にそう告げて家を出た。慌てて追いかけようとする亜衣だったが、それでも倒れている野球部員や父親のことが気になったのだろうか。決まり悪そうに後ろを振り返ると、それ以上は紅の後ろを追おうとはしなかった。


「ちょっと、犬崎君! あなた、野球部の人達を放り出して、どこに行くつもり!?」


 亜衣に代わり、照瑠が立ち上がって紅を追いかけた。既に力のほとんどを使い果たしていたものの、立って歩けないほどではない。


「なんだ。気になるのか、九条。俺はこれから、この紙人形に移した穢れを流しに行くところなんだがな……」


 そう言いながらも、紅は照瑠を置いてどんどん先に歩いてゆく。置いていかれるのは頭にきたが、こちらが文句を言っても紅が足を止めないであろうことは、照瑠自身が一番良く知っている。


 これ以上は、何か言っても意味がない。そう感じた照瑠は足に力を込めて、紅の後を追いかけた。紅の態度に不満がなかったわけではないが、それでも今は、口よりも足を動かした方が早い。


 雪の積もった歩きにくい道だというのに、紅は実に器用に歩いていた。東北生まれの照瑠からしても、紅が雪道を歩くのは速いと思う。彼の生まれは豪雪とは無縁の四国だというのに、妙に歩き慣れた感じがしていた。


 住宅街を抜け、雪に覆われた田んぼの脇を通り過ぎ、紅と照瑠は河原に出た。火乃澤町に流れる一級河川の一つ、S川だ。春先から夏にかけてはブラックバスを狙った釣人の姿も見られるが、冬場は人気がなく寂しい場所である。


 S川にかかった橋の上まで来ると、紅は竹で編んだ皿のようなものを取り出した。その上に、先ほどの紙人形を一つずつ乗せて、最後に人形が皿から落ちないよう麻紐で軽く固定する。そして、人形が竹の皿から動かなくなったのを確認し、最後にそれをS川の中に向かって投げ入れた。


 橋の上から下を流れる川目掛け、紙人形を乗せた皿が宙を舞う。紅の投げ方がよかったのか、皿は途中でひっくり返ることもなく、無事に流れの上に着水した。


「これでいい。こうしておけば、野球部や嶋本の父親の身体に染みついた穢れも祓われる」


 S川の流れに乗って流れてゆく紙人形を眺めながら、紅は独り納得したように呟いた。


「ちょっと、なに一人で納得してるのよ。説明、してくれるんでしょうね?」


「説明? 今回のやつは、そこまで複雑な話じゃないぞ。昔から、穢れを祓うために行われて来た伝統的な儀式の一つだ」


「伝統的な儀式?」


「ああ。少し時期が早いが、雛祭りと言えばお前にもわかるか? こいつは、その原型にもなった流し雛の儀式だ。昔はこうやって、紙人形に自分の穢れを乗せて川に流す儀式があったんだよ。それがいつしか変形して、今のような雛祭りの形になったというわけさ」


「なるほどね。犬崎君はさっきの紙人形に、媚薬の呪いを移し換えたってわけか……」


「そういうことだ。古典的なやり方だが、この程度の解呪なら俺にもできる」


 橋の手すりに寄りかかったまま、紅は淡々とした口調で説明していた。それを聞いた照瑠も、今度は納得した様子で首を縦に振り頷いた。


 紅が力づくでゾンビ化した男達を眠らせなかった理由。それは、彼らを力で抑え込む必要がなかったからに他ならない。そんなことをしなくても、少し力のある人間が作った紙人形に、彼らの髪の毛を入れて川に流せばよいだけだったのだから。


 人型ヒトガタ。主に陰陽道などで用いられる、人間の形をした白い紙人形。自分の分身として用いることで呪いを避けたり悪霊の目をごまかしたりする身代わりの要素が強いが、使いようによっては呪いの藁人形に早変わりする。身代わり人形としての役割しか持たない人型は、使う者によって呪いをかける道具にも解く道具にも成り得るものだ。


 今回、紅が用いた術は、まさに呪いと解呪の二つの特性を合わせたものだった。呪いの藁人形の如く人型に髪の毛を入れ、それを流すことで別の呪いを解く。闇を用いて闇を祓うことを生業としている、実に紅らしいやり方である。


(それにしても……なんだかんだ言って、犬崎君もお人好しよね。亜衣の馬鹿騒ぎに何度も付き合わされているのに、呼び出されれば、こうしてすぐに駆けつけるんだから)


 照瑠に背を向け、再び橋の上から川を眺める紅の後姿を見て、照瑠はふとそんなことを考えた。金にならない仕事はしないようなことを口にしながら、結局はいつもただ働き。そんな紅の行動の裏に、彼なりの優しさのようなものがあるのではないかと感じていた。


「ねえ、犬崎君」


「なんだ、九条。もう、仕事は終わったぞ。お前も今日は随分と力を使ったようだし、早く帰って休んだらどうだ」


「それなんだけどさ……。犬崎君、今日はまだ少しだけ時間とかある?」


「時間だと? まあ、あるにはあるが……珍しいこともあるもんだな。お前からそんなことを言うなんて……」


「うん、ちょっとね。時間があるなら、悪いけど少し待っててもらえない?」


「別に構わないぞ。だが、今日はもう遅いからな。あまり待たせないでくれると、こちらも助かる」


「たぶん、大丈夫だと思うわよ。それじゃあ、ちょっと行ってくるわね」


 そう言うと、照瑠は雪の残る道を駆け抜けて、そのまま紅の前から姿を消した。後に残された紅は先ほどと同じように、橋の上から川の流れを見つめている。


 十分、そしてニ十分。照瑠がいなくなってから、気がつくとそのくらいの時間が経っていた。さすがに紅が肌寒さを覚えたそのとき、溶けた雪の上を歩く独特の水音が聞こえて来た。


「ごめんね、犬崎君。ちょっと、待たせすぎたかな……」


「気にするな。それで……いったい何のために、俺をこんなところで足止めしたんだ?」


「何のため、ね……。まあ、あなたみたいな無愛想な男には、一生関係ないことかもしれないけど」


 口ではそんなことを言いながら、それでも照瑠は手にしたコンビニの袋から何かを取り出すと、それを紅に突きつけるようにして手渡した。


「はい、これ。その辺のコンビニで買った売れ残りで悪いけど、バレンタインのチョコレートよ」


「バレンタイン? そういえば、今日は確かそんな日だったな。嶋本のやつは、それで自分の好きな男に媚薬入りのクッキーをあげて、あんな騒ぎを引き起こしたのか……」


「やっぱり、全然わかってなかったわね。だったら、勘違いしないように一応は言っておくけど……私のあげたチョコは、ただの義理チョコだからね。好きとか嫌いとか……特に、深い意味なんてないわよ」


「そうか。だったら、こいつは今日の報酬代わりとしていただいておく。調度、甘い物が食べたいと思っていたところだしな」


 照瑠からもらったチョコレートの箱を片手に、紅は苦笑しながら橋の上を歩いて行った。そんな彼の去り行く姿を眺めながら、照瑠もまた少しばかり疲れの残る顔で苦笑いした。


(まったく、相変わらず可愛くないんだから。まあ、それが犬崎君らしいと言えば、犬崎君らしんだけどね……)


 恋する少女にとっては、一年で最も特別な日であるバレンタイン。自分が本命をあげる相手がいないことに多少の寂しさを覚えつつも、照瑠は紅の後姿を見ていると、なぜか安心できてしまうことが不思議だった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日、バレンタイン騒動の終わった日。


 いつもは元気の塊のようにしている亜衣が、その日に限って学校を休んでいた。なんでも酷い風邪をひいてしまったらしく、当分は学校を休むことになりそうだった。


 紅の話では、亜衣の風邪の原因は呪い返しのようなものということだった。なんでも、彼女の使用した媚薬は呪いの毒薬に等しい代物だったらしく、紅が呪いを解いた反動を受けてしまったらしい。


 その種類にもよるが、呪いというものは基本的に、破られれば呪い返しが起こってしまう。呪いをかけた本人が、今度は逆に呪いの持っていた負のパワーをまともに浴びてしまうのだ。当然、場合によっては死に至ることもあり、それ故に呪いは危険なものなのである。人を呪わば穴二つとは、決して言葉だけの話ではないのだ。


 今回、亜衣が用いた媚薬は、どこの馬の骨とも知れない三流霊能者が作ったものらしかった。それだけに、呪い返しの効果も大したことはなかったのだが、それでも亜衣には十分過ぎるほどの苦痛だった。


 発熱、下痢、腹痛、それに嘔吐のおまけつき。本当ならば一日中ベッドで寝ていたいところだが、下痢のせいで何度もトイレに駆け込みたくなるため大人しく寝ていることさえ適わない。


「うぇぇぇ……く、苦しい~……。だ、誰か、私に救いの手を~」


 嶋本家の一室に、ヒキガエルの声を潰したような亜衣の呻き声が響き渡る。発熱のために目の焦点が定まらず、口元は涎と鼻水で濡れて酷い状態。トイレに歩く際にも足取りが定まらず、壁伝いにふらふらと歩くのが精一杯である。


 バレンタインゾンビ。亜衣が命名した呪われた野球部員達の姿だが、今の亜衣はそれと同じような姿であると言っても過言ではなかった。呪い返しは相手が受けた呪いをそのまま返されるという話を聞いたことがあるが、強ち嘘ではなさそうである。


 だが、そんな状態になってもなお、亜衣はめげるということをしなかった。


 今年は駄目だったが、来年こそはもっと確実にイケメンの彼氏をゲットするための作戦を実行してみせる。そのためには、今以上にオカルト話や都市伝説の研究を続け、その中から最も確実な方法を試す必要がある。


(うぐぐ……。で、でも、その前に……今度は腹痛を鎮めるためのおまじないを、例の都市伝説サイトで検索しないとね……)


 嶋本亜衣。火乃澤町に住む≪歩く都市伝説百科≫であり、≪人脈の亜衣ちゃん≫の自称を持つ変人女子高生。彼女の飽くなき探求心が次の珍騒動を巻き起こすのは、そう遠くない日のことかもしれない。

≪嶋本亜衣の都市伝説コーナー≫


亜衣

「どうも~、亜衣ちゃんで~す!

 今回は、私が主演の短編を最後まで読んでくれてありがとう!!

 お礼に、私が知ってる都市伝説の中から、特に強力な媚薬の作り方を教えちゃうよ!!

 これであなたも、気になるあの人のハートをゲットできること間違いなし!!」



【魔女の媚薬の作り方】

 ヒルガオとシャクナゲの花、ナンテンと月桂樹の葉、カマキリの黒焼きを、それぞれ粉末状にした物を用意する。

 それらをヒルガオ:ナンテン:シャクナゲ:カマキリ=4:3:2:1の割合で混ぜ合わせ、その半分を意中の相手に飲ませる。

 そして、もう半分に月桂樹の葉の粉末を混ぜたものを、相手に飲ませたのと同じ日に自分が飲む。

 すると、その日の晩に相手が自分の家にやってきて、無事に(?)深夜のエッチな展開まで持って行ける。



【女神様の惚れ薬の作り方】

 バニラビーンズと赤いバラの花びらを、それぞれ六つずつ用意する。

 これらを金曜日(愛の女神の加護が最も強まる日)の夜にお湯で煮て、シナモン・スティックを使ってかき混ぜる。

 その際、「サチュロス・ヴォルグ・ギルブ」という呪文が必要になる。

 煮詰まったら、その煮汁だけを取り出して、それらを首筋や手首などセックスアピールを強めたい部分に塗る。

 すると、それだけで異性が寄って来るようになるが、自分で対象を選ぶことはできない。

 また、薬の効果は次の金曜日できれるため、定期的に薬を作っては塗らなければならない。

 惚れ薬というよりは、一種の催淫フェロモン剤。



亜衣

「他にも色々あるけど、今日はここまでかな。

 興味のある人は試してみてもいいけれど……それで、今回の私みたいな目にあっても、作者は責任取れないからね。

 全ては自己責任ってことで、それでも試してみたい人はやってみる?」

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