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EP_01 空から降った招待状

鼻を突くのは、雨上がりの湿ったカビの匂いと、腐食した鉄骨が吐き出す重い金属臭だ。夕闇が忍び寄りつつある視界のすべてが、灰色に沈んでいた。


 ひび割れたコンクリートの割れ目から力任せに伸びる雑草。半壊した巨大な高架橋の影に、つぎはぎのトタン屋根とダンボールを寄せ集めて作られた不揃いなバラックが、まるで苔のようにへばりついている。


———ここが、俺たちの世界だ。


 かつて『埼玉県』と呼ばれていた場所の廃墟、通称『ドブネズミ街』。2070年の日本において、国家の地図からも配線図からも完全に抹消された「存在しない棄民地帯(スラム)」だった。


「……くそッ、また同期がズレやがった」

 

俺——ワタル(16歳)は、煤で黒く汚れた指先で、小型ジャンクモニターの裏蓋を小さく叩いた。


 手垢と油で塗れたマイナスドライバーの感触が、掌にじっとりと馴染んでいる。パチパチと青白い火花が散り、ノイズ混じりの画面にようやく映像が結像した。


 そこに映し出されていたのは、ここから南に五十キロ離れた『東京特別極集中区メガロ・トウキョウ』のリアルタイム映像だった。


 画面の向こうに広がるのは、俺たちのようなスラムの人間から見れば、息をのむほど眩しい「理想郷」だ。


 頭上を覆うのは、大気汚染など存在しないかのような透き通った人工の青空。白亜の高層ビル群が鏡のように夕日を跳ね返し、ホログラムの広告が色鮮やかな光の粒子となって街を彩っている。路上にはゴミひとつ落ちていない。自動清掃ドローンが滑るように走り、歩道を埋め尽くす人々は何の不快感もなくすれ違っていく。


 男も女も、誰もが毛羽立ちひとつない完璧に仕立てられた服を纏い、身だしなみを整えている。そして何より目を惹くのは、その表情だった。


 誰もが穏やかで、害のない、幸せそうな微笑みを浮かべて歩いている。


 急ぎ足の者も、信号待ちをする者も、誰一人として眉をひそめず、焦る様子も、不機嫌そうな顔すら見せない。


 ———脳内チップ『アーカーシャ』。


 それが、あの街の平和を支える国家の基幹システムだ。表の世界では、すべての人間が生後すぐに脳幹へマイクロチップを埋め込まれる。


 チップから発せられる微弱な電磁波によって、過剰な怒り、抑えきれない欲望、不安や苦痛といった「社会の調和を乱すノイズ」は完璧に抑圧・制御されているのだという。犯罪率はゼロ。仕事のストレスもゼロ。苦痛も争いもない、完璧に守られた無菌の世界。


「……すっげえなぁ。僕たちの住む世界とは大違いだよ。」


 背後から、感心したような声が降ってきた。振り返ると、崩れかけたコンクリートブロックの頂上に、レンが腰掛けていた。


 俺と同い年の16歳。首から下げた古びたゴーグルと、擦り切れた革ジャンがトレードマークの幼馴染だ。手には、どこかの廃ビルから剥ぎ取ってきたらしい銅線の束をぶら下げている。


「あんな綺麗で暖かい街で暮らせたら、毎日お腹いっぱい肉が食えるんだろうな」


 レンは羨ましそうに画面を見つめ、呟いた。


「なんつーか……ガラスで守られた『水槽の金魚』みたいだな。羨ましいけど、遠すぎて別の世界の話みたいだ」


「水槽の金魚、か……」


 俺はその言葉を小さく反芻した。寒さに凍えることもなく、明日の飯を心配する必要もない世界。俺たちの暮らすこの街とは、天と地ほどの差があった。


「ほら、今日の戦利品だ。ゲンじいのところ持ってきゃ、少しはマシな缶詰に化けるだろ」


 レンは軽快にブロックから飛び降りると、手に持っていた銅線の束を俺の作業台へ放り投げた。


「サンキュ。……あ、手、血が出てるぞ」

「え? ああ、ちくしょう、銅線の切り口で引っ掛けたか」


 レンは自分の掌を見て顔を顰めると、ズボンでガシガシと雑に血を拭い取った。


「痛ぇな……後で舐めとくわ。」

 本当は水で洗えたら理想なのだが、この町では貴重品。怪我をしたら舐めるが1番と教わって俺たちは生きてきたし、今でもそうしているのだ。


「ワタルー! レンー! ご飯できたわよーっ!」


 スラムの奥、入り組んだ路地から、風に乗って透き通った声が響いてきた。路地の角から姿を現したのは、アオイだった。俺やレンと同じ16歳。ツギハギだらけのオーバーサイズの作業着を着ているが、そこから伸びる細い首筋や、夕日を浴びて少し茶色く透ける短い髪が、灰色の殺風景な街の中でそこだけ鮮やかに浮かび上がって見えた。


「遅いから迎えに来ちゃった。ゲンじいがお肉冷めるって怒ってるわよ」

 

 アオイは両手を腰に当てて、少し呆れたように首をかしげる。彼女の膝には、スラムの小さな子供たちと遊んでいたときについたのだろう、黄色いタンポポの綿毛と泥がついていた。


「すぐ行くよ。レンが銅線持ってきたから片付けてたんだ」

「おい、俺のせいにすんなって!」


 レンと軽口を叩き合いながら、俺は作業台の工具を急いで片付けた。アオイがふっと安心したように微笑む。こんな灰色の街でも、彼女の笑顔を見ると胸の奥が温かくなる。いつみてもかわいいんだよなぁ。


 三人で立ち並び、バラックの密集地帯を歩く。辿り着いたのは、大型トラックのコンテナを改造した、俺たちの「家」だった。


重い鉄の扉を押して中に入ると、香ばしい蒸気と、焦げた醤油のような匂いが鼻腔をくすぐった。


「遅かったな、ボサッとするな」

 コンテナの奥、低い作業台の前に腰掛けていた老人が、太い眉をひそめてこちらを睨みつけた。ゲンじいだ。御年七十を超える、このスラムの最長老。かつては表の世界で機械技師をしていたらしいが、国家が脳内チップの義務化を進めた際、何かしらの理由で街を弾き出され、このスラムに流れ着いたという。


 深く刻まれた顔のシワ、手垢とオイルが染み付いた頑丈な大きな手。幼い頃に親に捨てられた俺とレンを拾い、生き延びるためのノウハウと機械の弄り方を教えてくれたのはこのゲンじいだった。


「ほら、座れ。今日は闇市でいい野豚の肉が手に入ったからな。さて、食べよう。」


 ゲンじいが、顔も生々しく残るような豚全身の肉から一部を手で荒々しくちぎり、取り分け始めた。肉からは野趣に富んだ香ばしい匂いが立ち上り、空腹の胃袋を猛烈に刺激した。


「「「いただきます」」」


 三人で声を揃え、肉を口に運ぶ。口いっぱいに広がる濃厚な塩気と肉の旨味がワイルドにガツンと口の中に存在感を放つ。


「ふはぁ……美味い! 」


 レンが器にガッつきながら言う。


「そんなに急いで食べるなよ。喉に詰まる。」

注意はするものの、その目元は嬉しそうに和らいでいた。美味しそうに食べるレンを見るゲンジイの表情はどこか楽しそうだ。

 

——


 食後、器を置き、俺たちはコンテナの真ん中に置かれた裸電球の灯りを囲んだ。

 

 外は冷たい風が吹き荒れ、相変わらずカビと湿気臭い街だ。だけど、温かいご飯でお腹を満たし、こうやってゲンじいやレン、アオイと他愛もない会話で笑い合う。俺はこの温かい日常が好きだった。この泥臭くても確かな時間が、ずっと続けばいいと心から思っていた。


 ——その平穏が破られたのは、まさにその時だった。バチッ、と裸電球が激しく明滅し、一瞬で真っ暗闇が訪れた。


「……停電か?」


 レンが身構える。直後、静寂を切り裂いたのは、鼓膜を震わせるような重低音の地鳴りだった。


 ズズズ……ヒュオオオオオッ!


 コンテナの鉄板全体が激しく振動し、卓上のドライバーが跳ね跳ぶ。夜空を切り裂くような巨大な風切り音と、空気を押し潰す巨大なプロペラ音がスラム全体を包み込んだ。


「な、なんだ何が起きたんだ!?」

 

 俺たちは弾かれたように立ち上がり、コンテナの鉄扉を押し開けて外へ飛び出した。月明かりのない暗い夜空を見上げる。灰色の雲を割り、スラムの真上へと舞い降りてきたのは——漆黒の異形だった。


 大型の特務輸送機数機と、それを護衛するように旋回する数十機の攻撃ドローン。瞬間、眩いライトがスラム中を刺すように照らし始めた。


「……一体なんなんだ」


 背後から歩み出てきたゲンじいが、低く押し殺した声で呟く。その顔は見たこともないほど蒼白になり、目尻のシワが引きつっていた。漆黒の機体に刻まれた紋章を、元技師の目が捉えていた。


「あれは……国家保安局の特務機じゃ……!」

 次の瞬間、スラム全体を切り裂くような高周波ノイズが響き渡った。


『——親愛なる、名もなき被国民の皆様。こんばんは』


 旋回する機体から、何やら人影が1つ現れる。そのまま空中に身を投げたものの、空中でぴたりと止まり、マイクをどこからともなく取り出した。


 現れたのは、顔を不気味なピエロの仮面で隠した、仕立ての良いスーツ姿の男だった。合成音で変声された陽気な声が、大音量のスピーカーを通して響き渡る。


『我が日本政府は本日……日頃この陰影の地で慎ましく暮らしていらっしゃる皆様へ、素晴らしい朗報を携えてやってまいりました! ただいまより、国家公認の自立支援事業——【特別社会復帰プログラム】を開催いたします。』


 仮面の男は大袈裟に両手を広げ、お辞儀をした。仮面に描かれた赤い唇が、歪んだ笑顔に見えて不気味だ。


 仮面の男は続ける。


『見事プログラムを達成された方には、特別に【国民権】を授与いたします! 脳内チップ『アーカーシャ』の無償移植、およびメガロ・トウキョウでの市民権! そう、あなた方は被国民から、約束された理想郷の“人間”へと生まれ変わることができるのです!』


 その言葉が響いた瞬間、スラムに激震が走った。


「こ、国民になれる……!?」

「あの町の……住人になれるのか!?」


 恐怖で強張っていたスラムの人々の表情は、次第に目の前の現実を信じられないような、驚きの表情へと変えていく。


『……挑戦される方は、これより着陸する大型輸送ドローンへ10分以内にお乗り込みください。……なお、現在の暮らしに満足されているという方は、どうぞこのスラムにお残りください。我々は皆様の意思を尊重いたします。』


 ゴゴゴゴ……と音を立てて、巨大な輸送ドローンのハッチが開き、広場に着陸した。暗闇の中で誘導ライトが滑走路のように温かく点滅している。


「おい……乗るぞ! 俺は国民になるんだ!」

「待て、俺が先だ!」


 住人たちが我先にと輸送ドローンへ押し寄せ始めた。


「ワタル、アオイ! 行こう!」


 レンが拳を固く握りしめ、目を輝かせて俺たちの手を引っ張った。


「チャンスなんだ! プログラムだか何だか知らねえけど、これを突破すれば、あの綺麗な街で暮らせるんだぞ!」


「うん……! 私、あの街に行ってみたい!」


 アオイも不安を吹き飛ばすように、パッと表情を華やがせた。ジャンクモニターの画面越しに見つめるだけだった理想郷。寒さもひもじさもない世界。俺の胸の奥でも、抑えきれない高鳴りが湧き上がっていた。


「ゲンじい! 急ごう、早く乗り込まなきゃ!」


 俺が振り返ると——ゲンじいは動かず、腕を組んだまま冷ややかな目で輸送機を見つめていた。


「やめとおけ。……お前たち、正気を保て」


 ゲンじいの低く重い声が、俺たちの興奮を冷やすように響いた。


「え……? なんでだよゲンじい! 国民になれるんだぞ!?」


 レンが理解できないというように声を荒げる。


「政府がタダでこのスラムの者に救済など差し出すものか。裏があるに決まっておる……! これは罠じゃ。乗ってはならん」

「でも……! でもさ、ゲンじい!」


 俺は思わずゲンじいに一歩踏み出した。


「ここにいたって、俺たちは一生『存在しないゴミ』のままだ! いつか凍え死ぬか、飢え死にするのを待つだけじゃないか! たとえ罠だとしても……俺は一度でいいから、あの綺麗な街で『人間』として生きてみたいんだ!」


「……」

ゲンじいは言葉を返さなかった代わりに、顔の深い掘りの奥からじとっと睨め付ける威圧感と共に、返す言葉を選ぶような表情でこちらを見つめ返していた。空気が重くなる。


「私だってそうだよ!」

重い空気を切り裂くように、アオイも必死に言葉を重ねる。


「いつもスラムの子供たちに聞かれても、何も答えてあげられなかった……! あそこへ行けば、何か変わるかもしれないじゃない!」


「頼むよゲンじい、一緒に来ようぜ!」

レンがゲンじいの大きな手を掴んだ。


「ゲンじいの腕があれば、どんなプログラムだって突破できる! みんなで国民になろうよ!」


 俺たち三人の必死の眼差しを見た後に、ゲンじいはゆっくり目を閉じた。やがて、深く息を吐き出すと、強く握られていたレンの手をそっと優しく解いた。


「……わしは、もう七十じゃ」


先程の重く刺すような空気と変わり、ゲンじいは寂しげにも穏やかな目で俺たちを見つめた。


「先も見えている老いぼれが、今さら新天地で何をする。わしはこの住み慣れたドブ底で、骨を埋めるのがお似合いよ」


「そんなこと言うなよ! ゲンじいも一緒じゃなきゃだめだ!」

思わず口に出た。ゲンじいは俺が小さい時から今までずっと面倒を見てくれた恩人だ。だからこそゲンじいと離れて生活をすることは考えられないし、離れたくないんだ。


「愚か者」


ゲンじいは俺の言葉を遮り、その固く頑丈な掌で、俺の肩を強く叩いた。


「お前たちには未来がある。それがどんな道であろうと、踏み出す権利はお前たちだけのものじゃ。……お前たちの熱意、引き止める権利はわしにはない」


ゲンじいは目尻に深くシワを寄せ、続けた。


「気をつけるんじゃぞ。何があっても自分の頭で考え、這いつくばっても国民になるんじゃ。……お前たちが無事で、国民になれることを、ここで祈っとる」


—— 『後3分で、締め切りとなります。』

 仮面の男の声が、響き渡る。


「ゲンじい……っ」

アオイがポロポロと涙をこぼし、ゲンじいに抱きついた。ゲンじいはその頭をポンポンと優しく撫でる。


「……絶対、国民になって迎えに来るからな! 待っててくれよ!」

レンが溢れ出そうな涙を拭い、叫んだ。


「……行ってきます、ゲンじい」

俺は固く握り拳を作り、ゲンじいに深く頭を下げた。


俺たち三人はいっぱいの希望と、切ない別れの痛みを胸に抱き、誘導ライトに照らされた輸送ドローンのハッチへ足を踏み入れ、乗り込んだ。


『受付終了。』


 重い鉄のハッチが閉じ、輸送ドローンは重低音を響かせて夜空へと舞い上がった。窓の外、遠ざかっていく『ドブネズミ街』の小さな明かりが見える。


 その小さな灯りが灯る広場の真ん中で、一人ポツンと佇み、じっと夜空を見上げているゲンじいの影がどんどん小さくなっていった。


——国民になれるかもしれない。


 そんな未来への期待と不安を胸に、俺たちは初めて、自分の故郷を後にした。だが、この時の俺たちはまだ知る由もなかった。夢にまで見た理想郷への切符。その先に待っていた「プログラム」の絶望的な正体を。

初投稿です。ここまで読んでくれて本当にありがとうございます^_^

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