「好意の裏返し」
僕は、彼女のことが好きだったのだと思う。
今でも、本当にそれが恋だったのかはわからない。
ただ、僕にとって彼女は特別だった。
昼休みになると、みんなが教室で騒いでいるのに、彼女だけは図書館へ向かう。
窓際の席。
本を開く。
静かにページをめくる。
その姿は、中学生だった僕には少し大人びて見えた。
同時に、近づきにくいとも思った。
だから気になった。
でも、話しかけられなかった。
どうやって近づけばいいのかわからなかった。
だから僕は、遠くから見ているだけだった。
ある日の昼休み。
僕は彼女のノートに一枚のメモを挟もうとした。
緊張で手が震えた。
汗で紙が指先に吸い付くように引っかかった。
でも、そのまま押し込んだ。
「お前ん家のこと書いてある本らしいぞ。」
本当は話しかける口実が欲しかった。
彼女が振り向いてくれればよかった。
「それ面白いの?」
その一言だけでよかった。
でも当時の僕は、それを素直に言えなかった。
だから、そんな回りくどい方法を選んだ。
彼女はその本を借りてきて、夢中になって読み始めた。授業中も、休み時間も。
僕は少しだけ嬉しかった。
自分がきっかけを作ったのだと思ったから。
けれど、それは長く続かなかった。
彼女は本を読むたびに、どこか遠くへ行ってしまうように見えた。
振り向いてほしくて渡した言葉なのに。
彼女は僕ではなく、その本の向こう側を見始めていた。
その時になって、初めて思った。
まずいことをしたかもしれない、と。
でも謝れなかった。
謝ったら、自分が彼女を気にしていたことまで認めることになる気がした。
だから何も言わなかった。
見ているだけだった。
卒業して、僕たちは別々の高校へ進んだ。
季節だけが過ぎていった。
あの出来事は、少しずつ記憶の奥へ沈んでいった。
それでも時々思い出す。
図書館の夕方の光。
本を読む彼女の横顔。
ノートに挟んだ紙の感触。
数年後。
記憶の彼方にあった『彼女の計画』という作品の名前を耳にした。
内容は知らない。
読んでもいない。
読む勇気がなかった。
ただ、その本が彼女に何かを残したことだけは、なんとなくわかった。
僕は今でも考える。
あの日。
素直に話しかけていたら。
メモなんかじゃなく、
「好きだよ」
と一言だけ言えていたら。
何かは違っていたのだろうか。
もちろん、そんなことはわからない。
僕は彼女の人生を知らない。
彼女も、僕のことなんて覚えていないだろう。
ただの同級生の一人。
それだけだ。
でも、確かなことが一つある。
僕の幼稚な好意は、一枚のメモになった。
そのメモは、誰かの人生を少しだけ動かした。
善意でもなかった。
悪意でもなかった。
ただ、未熟だった。
そして、その未熟さこそが、
誰にも知られないまま残った、
僕の痕跡だった。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
https://ncode.syosetu.com/n9575mm/1/
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/
また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。




