第76話 揺さぶりの正体、父が踏み出す距離
静かな悪意は、直接刃を向けない。
噂、視線、評価――日常そのものを使って心を揺らす。
それでも由香里は、自分で引いた“線”を手放さない。
守る側の覚悟が、少しずつ動き出す第76話です。
翌朝。
由香里は目を覚ました瞬間、微かな違和感を覚えた。
(……近い)
昨日まで感じていた“観察”とは違う。
視線でも、気配でもない。
――感情。
誰かの“感情”が、確かにこちらへ向いている。
胸の奥で、“アデュー”がはっきりと反応した。
警告ではない。
だが――無視できない感触。
(……揺さぶり)
その言葉が、自然と浮かんだ。
⸻
登校。
校門をくぐった瞬間、空気が変わる。
ざわめき。
ひそひそと交わされる声。
「……ねえ、聞いた?」
「加山さんってさ……」
由香里の足が、わずかに止まりかける。
(……噂)
誰かが意図的に流したものだと、すぐに分かった。
内容は曖昧。
だが、悪意だけが妙に鮮明だった。
(直接は来ない……代わりに、環境を使う)
久美の言葉が脳裏をよぎる。
――線を引けるか。
由香里は、深く息を吸い、そして歩き出した。
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同時刻。
新堂製薬・地下。
モニターに映る校内の様子を、達也は無言で見つめていた。
「……やり方が変わったな」
『はい。“揺さぶり役”は、本人に直接触れません』
『社会的距離、評価、孤立感を操作します』
「子ども相手に、よくやる」
低い声。
だが昨日より――明らかに、温度が下がっている。
『マスター。介入ラインを越える可能性があります』
達也は、わずかに目を細めた。
「……越えさせるな」
『了解』
「ただし――」
一拍。
「由香里が、自分で引いた線を壊すようなら」
「その時は、俺が出る」
迷いはなかった。
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昼休み。
保健室。
「……噂、広がってるわね」
久美の声は静かだった。
「でも、由香里」
「顔に出てない」
「……気には、なります」
由香里は正直に答える。
「でも」
「信じない人まで、説得しようとは思いません」
久美は、少しだけ微笑んだ。
「正解よ」
「“揺さぶり”はね」
「感情を暴れさせた瞬間、勝ちなの」
由香里は、拳を軽く握る。
「……私、怒ってもいいですか?」
「ええ」
久美は即答した。
「怒るのと、壊すのは違う」
「線を引いたまま怒れる人は、強い」
由香里は、ゆっくり頷いた。
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放課後。
昇降口。
昨日の女性とは違う人物が立っていた。
今度は――男性。
教師でも、生徒でもない。
だが、違和感がない。
「加山由香里さん」
低く、落ち着いた声。
「誤解が生じているようなので」
「少しだけ、訂正を――」
「いりません」
被せるように、由香里は言った。
周囲の視線。
空気が、一瞬固まる。
「私は、私の生活を選んでいます」
「噂も、評価も、あなたの管轄ではありません」
男性の口角が、わずかに上がった。
「……強いですね」
「いいえ」
由香里は、はっきり否定する。
「線を越えられるのが、嫌なだけです」
沈黙。
数秒後、男性は一歩下がった。
「今日は、ここまでにしましょう」
背を向ける、その瞬間。
由香里は確信した。
(……次は、もっと近い)
だが――怖くはなかった。
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その夜。
“牙”隊長の端末に、短いメッセージが届く。
《揺さぶり役、段階上昇》
《心理的接近、許可申請》
“牙”隊長は画面を見つめたまま、低く言った。
「……却下だ」
『理由は?』
一瞬、言葉を選ぶ。
「それ以上は――」
「怪物を起こす事になる。今はまだ早い」
沈黙。
《判断、了解》
画面が暗くなる。
「……戦闘力を試す必要があるかな」
“牙”隊長。
かつて、レオたちを指導した人物。
⸻
加山家。
夕食後。
由香里は、湯気の立つお茶を両手で包んでいた。
「……今日ね」
母・由香の落ち着いた声。
「噂の事?」
「うん」
由香里は小さく笑う。
「でも」
「私は、ちゃんと立ってた」
「そう」
由香は娘の顔を見て、微笑む。
「それでいいのよ」
そして、少しだけ声を低くした。
「由香里」
「たっちゃんは、ギリギリまで出て来ないと思う」
「……うん」
「でもね。ちゃんと見ててくれる」
由香は、はっきり言った。
「あなたはあなたらしくね」
「英雄の娘じゃなくて、英雄でしょ」
由香里は、思わず吹き出す。
「お母さんも、そんな事言うんだ」
「当たり前じゃない。自慢の娘よ」
由香も、少し笑った。
「でもね。助けが欲しい時は言うのよ」
「限界まで抱え込まないで」
「あなたは私の大切な娘」
「他にも、あなたを大切に思っている人がいる事、忘れないで」
由香里は、胸の奥が温かくなるのを感じながら、頷いた。
日常は、まだ守られている。
だが――
“牙”は、確実に近づいていた。
そして次に問われるのは。
由香里が、救い手になるのか。
――試験は、次の段階へ進む。
今回は戦闘のない回ですが、精神的な攻防が本格化します。
由香里の成長と、父・達也の「踏み出す距離」を意識して書きました。
次回から“試験”はさらに段階を上げていきます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。




