第75話 牙の役割、越えてはならない線
日常の中に忍び寄る「観察」。
守られることを学びながら、由香里は自分の線を引き始めます。
これは力の物語ではなく、選ぶ意志の物語です。
朝。
目覚ましの音で、由香里は目を覚ました。
夢は見ていない。だが、胸の奥が妙にざわついている。
(……今日も、普通に)
カーテンを開ける。
晴れた空。変わらない朝。
それだけで、少し安心した。
⸻
登校中。
昨日と同じ道。
昨日と同じ時間。
だが――空気が違う。
(……いる)
視線ではない。
気配でもない。
“意識されている”感覚。
“アデュー”が、微かに反応する。
警告ではない。だが、沈黙でもない。
(……観察)
その言葉が、自然と浮かんだ。
由香里は歩調を乱さない。
スマホを見るふりも、振り返りもしない。
――守られることを、覚える時期だ。
父の言葉を、胸の中で繰り返す。
⸻
同時刻。
新堂製薬・地下。
「動きは?」
達也の声に、オペレーターが即答する。
「三名。入れ替わりで接近しています」
「全員、武装なし。役割は完全に分業されています」
『マスター。“牙”は接触役、観測役、判断役に分かれています』
『今回は“接触役”が前に出ています』
達也は、無言でモニターを見つめる。
「……見せる気だな」
『はい。恐怖を与えるのではなく、“選ぶ側に立つ資格”を測っています』
「ふざけた話だ」
声は低いが、怒りは抑えられていた。
「だが――」
達也は静かに言葉を切る。
「由香里が決めることだ」
⸻
学校。
昼休み。
由香里は、久美のいる保健室を訪れていた。
「……今日も、いる」
「ええ」
久美は即答する。
「昨日より近い?」
「うん。でも……」
由香里は少し考え、言葉を選んだ。
「怖くはない」
「嫌、かな」
久美は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「それで十分よ」
「え?」
「恐怖で動く人は、支配される」
「嫌だと感じて、距離を取れる人は――選べる」
久美は、由香里をまっすぐ見る。
「覚えておきなさい」
「“牙”は、力を持つ者を探してるんじゃない」
「……じゃあ、何を?」
「線を引ける人間よ」
由香里は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
⸻
放課後。
校門を出た瞬間。
「由香里さん」
昨日とは、違う声。
振り返ると――
若い女性が立っていた。
年は二十代前半。
服装は地味で、学生にも社会人にも見える。
「昨日の人とは、関係ありません」
女性は、先にそう言った。
「少しだけ、お話しできませんか?」
周囲には、人がいる。
久美の位置。
防犯カメラ。
すべて、把握できる距離。
(……逃げ道はある)
だが。
由香里は、首を横に振った。
「できません」
即答だった。
女性は、少しだけ驚いたように瞬きをする。
「理由は?」
「理由を説明する必要がないからです」
はっきりとした声。
「私は、今の生活で十分です」
「これ以上、踏み込まれるのは嫌です」
沈黙。
数秒後、女性は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
柔らかな笑み。
「ありがとう。参考になりました」
女性は、それ以上何も言わず、背を向けた。
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その夜。
海外施設。
短い報告が、静かに並ぶ。
《接触:拒否》
《判断:迅速》
《恐怖反応:低》
数秒後、新たな文字。
《評価、更新》
《対象:自立性あり》
《“牙”による直接誘導、非推奨》
さらに、別の命令。
《次段階》
《“揺さぶり役”を投入》
画面が暗転する。
⸻
加山家。
由香里は、布団の中で天井を見つめていた。
(……ちゃんと、断れた)
それだけで、少し誇らしい。
「……おとうさん」
小さく呟く。
その瞬間、通信が繋がった。
「聞いてたぞ」
達也の声。
「よくやった」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……私、少しだけ」
「守られるの、上手くなった?」
「ああ」
達也は、迷いなく答えた。
「そしてな」
一拍。
「守る側になる準備も、始まってる」
由香里は、静かに目を閉じた。
日常は、まだ続いている。
だが――
“牙”は役割を変え、次の一手を打とうとしていた。
線を越えさせないための、試験は続く。
――それでも、由香里は前を向いていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は戦いではなく「拒否する強さ」がテーマでした。
次回、揺さぶりはより巧妙になります。お楽しみに。




