第72話 久美。保険医になる。
日常に戻り始めた朝。
けれど、その裏側では確実に“何か”が動き出している。
久美の転職、正樹を狙う影、そして由香里の学校生活。
静かな一日が、波紋を広げていく――。
朝の日課を終え、シャワーを浴びた由香里は、タオルで髪を拭きながらリビングへ向かった。
「行って来まーす」
玄関から久美の声がして、ほどなくエンジン音が遠ざかる。
達也が以前乗っていたCB400SF――久美はそれに跨り、颯爽と出勤していった。
「久美姉、もう仕事? 早いね」
キッチンで朝食を片付けながら、由香里が少し不思議そうに言う。
「今日から初出勤なのよ。転職したからね」
由香の言葉に、由香里は一瞬だけ箸を止めた。
転職――それは、初耳だった。
「へぇ……」
それ以上は深く聞かず、由香里は朝食を終える。
しばらくして、二階から足音がして、寝起きの正樹がリビングに現れた。
「おはよう。由香里、久しぶりの学校だな。楽しんでおいで」
まだ完全に目が覚めていない顔で、それでもどこか心配そうに言う。
「休学って言っても一ヶ月だよ。それに……もう、あんな事にはならないから」
由香里はそう答え、自分自身に言い聞かせるように小さく頷いた。
もう自分に負けない――そう、心に誓って。
制服に着替え、二階から降りてきた由香里は玄関で靴を履く。
「行って来まーす」
自転車に跨り、朝の風を切りながら学校へ向かった。
その背中を見送りながら、正樹がぽつりと言う。
「……久美の転職先、由香里に伝えなくて良かったのか?」
「久美が“サプライズだから”って言ってたの」
「由香里を守るために転職、か……」
「色々あったからね。ほんと、色々」
由香と正樹の心配をよそに、事態は静かに、だが確実に動き始めていた。
⸻
朝食を終えた正樹は、スーツに身を包み玄関を出る。
「由香ちゃん、行って来ます」
自家用車――インプレッサSTIに乗り込み、会社へ向かう。
外見はノーマルだが、内部のセンサー類や防犯システムは最新鋭。
それでも――。
会社まであと数分という地点で、正樹は違和感を覚えた。
「……?」
バックミラーに映る、やけに距離を詰めてくる一台の車。
次の瞬間、脇道から別の車が割り込むように現れた。
――来た。
だが、衝突は起きなかった。
正樹の視界の外、少し離れた場所で、黒いセダンが進路を塞ぐように急停車する。
運転席から降りたのは、一見すると普通の女性――静香だった。
「ここまでです」
短くそう告げると、静香は相手の動きを完全に封じる。
無線での報告は、すでに終わっていた。
未然に防がれた“誘拐未遂”。
正樹は何も知らないまま、会社へと向かう。
⸻
一方、由香里の学校。
久しぶりの教室、久しぶりの友達。
最初はぎこちなかったが、昼休みには少しずつ空気も戻ってきた。
午後の授業は体育。
「由香里、大丈夫? 無理しないでね」
「うん、大丈夫だよ」
だが、授業の終盤――
ボールが不規則に跳ね、由香里の友達が転倒した。
「痛っ……!」
足を押さえ、立ち上がれない様子を見て、由香里はすぐに駆け寄る。
「保健室行こう。肩貸すから」
由香里は友達を支え、そのまま保健室へ向かった。
扉を開ける。
「失礼しま――」
その瞬間、由香里は固まった。
「……久美姉?」
白衣姿で振り返ったのは、間違いなく久美だった。
「ようこそ、保健室へ。今日からここの保健医よ」
にっと笑う久美に、由香里は呆然とする。
「転職って……これ!?」
「サプライズ成功、ってとこかな」
⸻
その頃――。
「……そうか。正樹が狙われたか」
静香からの報告を受け、達也は静かに目を伏せた。
「しかも、動きが雑だ。相手が焦ってる」
達也は顎に手を当て、思考を巡らせる。
「これから、どう出てくる……」
嵐の前の静けさ。
その予感だけが、確かに胸に残っていた。
第72話は「日常回」に見せかけた布石の回でした。
久美の決断と配置、そして敵側の焦り。
次話から、学校と大人たちの両方で物語が動き出します。




