第二章 英雄の娘 第3話 由香里
トイレの個室。
閉ざされた空間に響く、嘲笑と冷水の音。
少女・由香里の心は限界を越え、願いは静かに漏れた――
「誰でもいい、神でも悪魔でも、助けて……」
その瞬間、世界が変わる。
彼女の中に“何か”が降り立ち、すべてが反転する。
第二章・第3話。
少女の絶望が、力の覚醒へと変わる瞬間を描く。
「あんたなんか、何の価値もないんだから。せめて、私たちのストレスのゴミ箱になりなさいよ」
個室のドアを隔てて響く声は、氷のように冷たく、刺すようだった。
「ほら、不細工なアンタにも似合うんじゃない?この汚水シャワー。せめて臭いくらい取れるかもね。ククッ」
笑い声と共に、真田薫がホースをひねった。次の瞬間、個室の天井から激しい水の奔流が降ってきた。泥とカビの匂いが混じった水が、制服に、髪に、肌に染み込み、体の芯まで冷やしていく。
「キャハハハ!ほら、良い女になるにはまず洗浄からって言うしね!」
「ちょっと足りないんじゃない?もう一発いっとこーよ、水本」
水本玲奈はためらいもなくホースを掴み、さらなる水圧をかけた。水流は凶器のように私を襲い、首を締めるように顔面を打ち据えた。
制服はぐっしょりと肌に張り付き、下着まで透けていた。生ぬるい羞恥と、突き刺す冷気が全身を貫く。
ドアの下の隙間から覗く制服の裾を、誰かが靴で何度も踏みつけた。わざとだ。逃げ場などどこにもない。
「ほらほら〜出てきなよー。ずぶ濡れ女〜!写真撮って拡散しようよ〜」
「や、やめて……」
小さな声しか出なかった。喉の奥に鉄の玉が詰まったみたいに、声が震えて届かない。膝ががくがく震えて、立ち上がることすらできなかった。
「うわ、情けない声。マジで哀れすぎ〜」
笑い声が、真綿のように首に絡みつく。視界がにじんで、何が水で何が涙かもうわからなかった。
「あなた達、何をやっているの?」
ヒールの音とともに斉藤先生が現れ
た。が、空気は変わらなかった。
「あっ、斉藤先生。加山由香里さんが個室から出て来ないから、心配してたんです」
新堂紅音は、にこやかに、まるで本気で心配しているかのように演技してみせた。
「新堂さん……。あなたは本当に優しいわね。先生もあなたのような生徒を誇りに思っているわ」
斉藤先生の笑顔は、どこか作り物のようだった。いや、作り物だった。
この学校の教師たちは、皆、新堂さんの言いなりだ。新堂製薬の社長、新堂弦之助の娘である彼女に、逆らえる者など一人もいない。
特に斉藤先生は、新堂社長の愛人だと噂されていて、学年主任の座も新堂社長の力によるものだと言われている。
「斉藤先生、加山さんのことは私たちに任せてください」
「ええ、お願いね」
そうして、斉藤先生は背を向けた。逃げるように。見て見ぬふり。それがこの学校の“正義”だった。
「斉藤先生は私には逆らえないから大丈夫よ。じゃ、真田さん、水本さん、もっと水かけてあげて」
『……誰か、助けて。こんなの、もう……限界だ……誰でもいい、神でも、悪魔でも……』
その瞬間――
ドオオオンッ!!!
トイレ全体が震えたかのような衝撃音が響いた。
「……誰だ?今の音……?」
床が光った。まるで発電所の中にいるかのような、バチバチとした雷鳴のような音が天井から降ってきた。光の柱が、個室を中心に走る。
『……え?』
その光は、ただの幻想ではなかった。目の奥を焼くほどに明るく、全身を貫く熱を伴っていた。そして次の瞬間、低く、確かな声が私の頭に響いた。
「――借りるぜ。お前の身体。目、つぶってろ」
瞬きした時には、私はもう、自分の身体の中にいなかった。意識は後部座席に押し込まれ、別の何かが操縦席に座った。
ドアが爆音と共に吹き飛び、鋼鉄のような右足が個室から突き出された。
「な、何!?」
「うそ……由香里!?」
目の前に立った私――いや、“私を借りた何か”は、一言も発さずに真田薫に近づいた。
真田薫がホースを手放し、逃げようと振り返った瞬間、その首元をひゅっと掴む。
「がっ……ぅ……!」
壁に叩きつけられる。背中がバキッと音を立て、意識を失ったように崩れ落ちた。
「な、何してんのよ!?やめなさ――」
水本玲奈が叫ぶ暇もなく、私の左足が床に落ちた破片を跳ね上げ、目にも止まらぬ速さで水本玲奈の額に突き刺さる。弾かれたように彼女も崩れ落ちた。
「ふぅ……まだ終わってないよな?」
そう呟くように、“私”はゆっくりと新堂紅音の方を振り向いた。
彼女の表情が凍る。だが、“私”はすでに距離を詰めていた。
拳が振るわれる。わずかに外れた拳は、紅音の左耳をかすめて背後のコンクリ壁を穿ち、拳大の穴を開けた。
「……なっ、なにこれ……あんた……誰よ……」
紅音が腰を抜かしてその場に倒れ込む。“私”は、ゆっくりと彼女の胸ぐらを掴み上げ、口元だけで笑った。
「――弱い者いじめってのはな、暇と知能が足りない奴がするもんだ。お前の人生、そんな無駄にしてていいのか?」
その言葉は、声ではなかった。獣のように低く、骨の髄に響くような存在感で、空気を震わせていた。
「な、なによそれ……や、やめてよ……私、あんたみたいな化け物……」
「黙ってろ」
“私”は紅音を床に投げ出すと、荒く息を吐いてから静かにトイレの出口に向かった。
――そして、ふっと力が抜けた瞬間、意識が戻ってきた。
『な、何……今の……誰かが……』
「由香里、大丈夫?!」
保健室から声をかけてきた麻里の顔を見た瞬間、涙がぶわっとあふれた。濡れているのは水のせいじゃない。私はもう、自分の心が決壊していたことに気づいていた。
制服はまだ湿っていて、髪からはしずくが落ち続けている。けれど、心の中で最も濡れていたのは、きっとあの瞬間に私を包んだ“何か”だった。
「……夢じゃ、なかったよね」
呟いた声に、自分でも驚くほどの確信がこもっていた。身体を動かしてみる。痛みはある。腕も、脚も、重たい。でも、あの個室の中で感じた圧倒的な力は、もうどこにもなかった。
「あのあと……真田さんたちは?」
麻里が息を呑んだ。
「病院に運ばれたよ。真田さんは軽い脳震盪。水本さんは額から血を流して失神してたって。新堂さんは……何も言わずに震えてた」
私はその場にうずくまり、胸を押さえた。暴力を振るった実感はない。でも、記憶の奥底にこびりついた熱が、確かに私の手を通して誰かを殴ったことを訴えている。
「ねえ、由香里。……本当に、あれ、あんただったの?」
麻里の問いかけに、私は答えられなかった。怖くて。けれど、違うとも言い切れなかった。
「ごめん……わからない。でも……あの時、誰かが私の中にいた。確かに、“戦ってくれた”」
麻里はしばらく黙っていたけど、優しく肩に手を置いた。
「でも、良かった。あんたが無事で。……ていうか、ちょっとカッコよかったかも」
その言葉に、私はかすかに笑った。自分でも、こんなにすぐ笑えるとは思わなかった。
保健室の天井を見上げながら、私は胸の奥にまだ燻っている“声”を探した。
――借りるぜ。少しの間だけな。目、つぶってろ。
あの声は、怒りでも哀しみでもなかった。ただ、静かで、研ぎ澄まされていて、でも――優しかった。
『……あれは、誰だったんだろう』
頭の中で尋ねてみる。でも返事はない。さっきまで確かにいたはずの存在は、完全に沈黙していた。
「そうだ、担任の小田先生が、後で話を聞きたいって」
麻里が言った。
「でも、私が“あんたは何もしてない”って言っといたから。真田さんたち、勝手に倒れてただけってことにしてある」
私は目を見開いた。
「え……なんで?」
「だって、本当のこと言っても、信じてくれないでしょ。人が吹っ飛ばされたとか、壁に穴が開いたとか。由香里が暴れたなんて、先生が言っても信じないよ」
私は小さく頷いた。
「……ありがとう」
麻里の手が、そっと私の手を包み込んだ。温かくて、現実のものだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第三話では、いじめという現実的な絶望と、“覚醒”という非現実の交錯を描きました。
由香里の中に宿った「何か」は、単なる復讐者ではありません。
彼女の叫びに応えた、意志を持つ存在――。
次回、由香里と達也の物語が再び交わり、
“借りた力”の正体が少しずつ明かされていきます。
どうぞ次話もお楽しみに。
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