最後の文字
僕が初めてAと出会ったのは、新学期の朝だった。教室に入ると、窓際の席に見知らぬ同級生が座っている。ショートボブの黒髪で、少し憂いを帯びた瞳をした、どこか儚げな印象の少女だった。
「あ、転校生?」
僕が声をかけると、Aはゆっくりと振り返った。その時の彼女の微笑みは、春の朝日に溶けそうなほど柔らかかった。
「転校生?ああ、まあそんなところかな」
曖昧な答えだったが、なぜか初対面なのに、昔から知っている親友のような気安さがあった。
「僕、田中。よろしく」
「私はA。こちらこそ」
ところが、周りの反応が妙だった。
「田中、誰と話してるの?その席、空いてるよ」
隣の佐藤が不思議そうに首をかしげる。
「え?Aちゃんがいるじゃん。ほら、そこに」
僕がAを指差すと、クラス全員が同じ方向を見た。そして全員が困惑した表情を浮かべる。
「何も見えないけど?」
「田中、大丈夫?保健室行く?」
Aは苦笑いを浮かべながら呟いた。
「いつものことだから気にしないで。あなたにだけは見えてるみたいね」
担任の山田先生に出席簿を確認してもらっても、Aという名前はない。クラス写真を撮る時も、Aだけ写らない。まるで僕以外の世界では、彼女は存在していないかのようだった。
「君は一体何者なんだ?」
放課後、屋上で僕はストレートに聞いた。
Aは夕日を見つめながら、風に髪をなびかせて答えた。
「並行世界って知ってる?無数に存在する、少しずつ違う世界のこと」
「漫画で読んだことがある」
「私は―どうやら、その世界と世界の間を漂っている存在らしいの」
Aの説明によると、彼女は一つの世界に長く留まることができない。いくつもの並行世界を渡り歩き、それぞれの世界で短期間だけ、一人の人間とつながりを持つ。
「でも、私を認識できる人は、各世界で必ず一人だけなの。今回はたまたまあなただった」
「なんで一人だけ?」
「理由は分からない。もしかしたら、世界の境界が曖昧な人だけが、私を見ることができるのかもしれない」
その日から、僕とAの奇妙で愛おしい友情が始まった。
駄菓子屋の午後
「今日は駄菓子屋に行かない?」
Aが提案すると、僕たちは放課後の商店街に向かった。小さな駄菓子屋で、Aは目を輝かせながらお菓子を選ぶ。
「うまい棒のコーンポタージュ味って、どの世界でも人気なのよね」
「どの世界でもって、他の世界にも駄菓子屋があるの?」
「もちろん。でも微妙に違うの。ある世界では『うまい棒』じゃなくて『おいしい棒』だったり、味の種類が全然違ったり」
店のおばあちゃんが僕を見て言う。
「一人でそんなにたくさん買って。友達の分?」
僕とAが顔を見合わせて苦笑いする。おばあちゃんにはAが見えていない。
「そうです、友達の分です」
僕が答えると、Aがくすくすと笑った。
「嘘は言ってないものね」
公園のベンチで、二人でお菓子を食べながら他愛もない話をする。
「前の世界では、私は会社員のお姉さんと友達だったの」
「へえ、どんな人?」
「いつもバリバリ仕事してる人だったけど、休日は一緒にカフェ巡りをしたの。コーヒーにすごくこだわりがあって、私もたくさん教わった」
Aの話は具体的で、まるで本当にその世界を体験してきたかのようだった。
「その前は中学生の男の子と友達だった。一緒にゲームをしたり、漫画の話で盛り上がったり。彼の純粋さには心を打たれたわ」
「みんなと楽しく過ごしてるんだね」
「でも結局、みんな私を忘れてしまうの。それが私の宿命みたいなもの」
Aの表情が少し翳る。僕は慌てて言った。
「僕は忘れない。絶対に」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど―」
Aは悲しそうに微笑んだ。
「みんな最初はそう言うのよ」
映画館での一日
ある土曜日、Aが「映画を見に行かない?」と提案した。
「でも僕一人で映画館にいるみたいに見えるよ?」
「大丈夫。私、映画館の隅の席を取るのが得意なの。あなたが独り言を言ってるように見えるだけよ」
映画館では、Aが僕の耳元でこっそりと解説してくれた。
「あの俳優さん、別の世界では全然違う職業だったのよ」
「え、何をしてたの?」
「お花屋さん。すごく綺麗なブーケを作ってた。お客さん一人一人の気持ちを考えて、丁寧に花を選んでたわ」
僕が小声で答えると、前の席のカップルが振り返って変な顔をした。僕は慌てて口を塞ぐ。
映画が終わった後、カフェで感想を語り合った。
「主人公の女の子、最後まで諦めなかったね」
「でも少し無謀すぎたかも。もう少し周りの人を頼ればよかったのに」
Aがココアを飲みながら言う。店員には、僕が一人でココア二杯を注文したように見えているはずだ。
「Aちゃんはいつも冷静だね。僕だったら感情的になっちゃうかも」
「並行世界を渡っていると、自然と色んな視点で物事を見るようになるのかもしれない。たくさんの人生を垣間見てきたから」
体育祭での応援
体育祭の日、Aは観客席で僕を応援してくれた。
「田中くん、頑張って!」
彼女の声援が聞こえるが、他の人には僕が一人で気合を入れているようにしか見えない。
「周りの人が変な目で見てるよ」
「気にしない。私はあなたの友達として、精一杯応援するの」
リレーで僕がアンカーを走る時、Aは立ち上がって手を振っていた。その姿が僕には眩しく見えて、いつも以上の力が出た。
「やったね!一位だよ!」
僕がゴールした時、Aが駆け寄ってくる。ハグしたい気持ちをぐっと堪えた。周りから見れば、僕が空気を抱きしめているように見えてしまう。
「君のおかげだよ。応援してくれてありがとう」
「どういたしまして。すごくかっこよかった。私まで誇らしい気持ちになっちゃった」
その日の夜、屋上で二人きりの打ち上げをした。コンビニで買ったお弁当とジュースで、ささやかな祝勝会。
「今日は楽しかったな」
「私も。こういう学校行事に参加するのって久しぶり」
「前の世界では参加しなかったの?」
「うーん、相手によるの。おじいちゃんの世界では運動会なんてなかったし、小学生の子の時は一緒に参加したけど、私は競技に出られないから見てるだけだった」
星空を見上げながら、Aが続けた。
「でも今日は特別だった。あなたが頑張ってる姿を見てると、私も一緒に走ってる気分になった」
図書館での勉強会
夏休みが近づくある日、図書館で二人は勉強していた。正確には、僕が勉強して、Aがそれを見守っている。
「数学、苦手でしょう?」
「バレバレだね」
「私、前の世界で塾の先生と友達だったから、少し教えられるわよ」
Aが僕の隣に座って、問題集を覗き込む。彼女の髪からシャンプーの匂いがした。
「この問題はね、まず式を整理するの。こことここを移項して―」
彼女の説明は分かりやすくて、今まで理解できなかった問題がすんなりと解けた。
「すごい!Aちゃんって天才?」
「違うわよ。色んな人から色んなことを教わってきただけ。知識は一人で身につけるものじゃないって、その先生に教わったの」
図書館の司書さんが近づいてきた。
「学生さん、一人で独り言が多いですよ。他の利用者の迷惑になりますから」
僕は赤面して謝った。Aは肩を震わせて笑いを堪えている。
「ごめんごめん。気をつけるね」
小声でAが謝ると、僕も小さく頷いた。
夏祭りの夜
夏休み中、僕たちは毎日のように会った。プールに行ったり(Aは見学だけど)、ゲームセンターで遊んだり、ただ公園でぼんやり過ごしたり。
お祭りの日、Aは浴衣を着て現れた。
「どう?似合う?」
「すごく綺麗だよ。でも誰も見えてないのがもったいない」
「あなたに見てもらえればそれで十分」
そんな彼女の言葉に、僕の胸がどきりとした。
「かき氷、食べる?」
お祭りの屋台で僕がAに聞くと、彼女は首を振る。
「私が食べても、まわりには見えないでしょう?変に思われるから、あなたの分だけでいいわ」
でも僕は二つ注文した。
店のおじさんが周りを見ながら僕に言う。
「溶けちゃうから早く持って行ってあげなよ」
「そうですね、そうします」
Aが苦笑いしながら受け取った。
「気を使わなくてもいいのに」
「友達なんだから当たり前でしょ」
夜店を回りながら、Aは色んな話をしてくれた。
「前の世界のお祭りでは、金魚すくいの達人のおじさんと友達だったの。私も少しコツを教わったのよ」
「へえ、やってみる?」
「いいの?」
金魚すくいの前で、Aが僕に指示を出す。
「もっと浅く、そう、その角度で―あっ、逃げちゃった」
「難しいね」
「でも楽しいでしょ?こういう小さな挑戦が、人生を豊かにしてくれるの」
結局僕は金魚を一匹もすくえなかったが、Aと一緒に笑い合えただけで満足だった。
花火が上がる時、Aは僕の隣で静かに呟いた。
「きれいね。どの世界でも、花火は変わらない」
「君と一緒に見る花火は、特別きれいだよ」
「そんなこと言って、お世辞がうまいのね」
でもAの頬が少し赤らんでいるのに、僕は気づいていた。
文化祭の準備
二学期が始まると、文化祭の準備で忙しくなった。
「うちのクラス、何をやるの?」
「演劇だよ。みんなでシナリオを考えてるんだ」
「面白そう。私も参加したいけど、舞台に上がれないから」
それでも、Aは僕の練習に付き合ってくれた。
「もう少し感情を込めて。そのセリフは、主人公の人生をかけた叫びなのよ」
「こう?」
「そうそう、いい感じ!」
他のクラスメイトには、僕が一人で演技の練習をしているように見えていた。
「田中、熱心だね。でも一人でやってると変だよ」
「あ、うん。つい集中しちゃって」
放課後、教室の装飾を作る時も、Aはそばにいてくれた。
「その色使い、素敵ね。きっと素晴らしい文化祭になるわ」
「君がいるから頑張れるよ」
「私はただ見てるだけよ」
「でも、それだけで十分なんだ」
秋の課外活動
課外活動の日、Aは僕と一緒に山を登った。
「疲れない?」
「大丈夫。私、体力には自信があるの。前の世界で登山家の人と友達だったから」
「へえ、どんな山に登ったの?」
「富士山よ。ご来光を見た時は感動して泣いちゃった」
山頂で弁当を食べながら、景色を眺める。
「いい眺めだね」
「本当に。こうして友達と一緒に見ると、景色も格別ね」
僕は改めて思った。Aがいるから、普通の日常が特別になる。彼女がいなかったら、僕の学校生活はこんなにも彩り豊かではなかっただろう。
「Aちゃんと出会えてよかった」
「私も。あなたは特別よ」
「特別?」
「他の人たちも優しかったけど、あなたは―なんというか、私を一人の人間として見てくれる。透明な存在としてじゃなく、ちゃんとした友達として」
異変の始まり
そんな平和な日々に、異変が起き始めたのは十月の半ばだった。
「昨日の宿題、どうだった?」
「まあまあかな。君の方は―」
急にAの声が途切れる。まるでラジオの電波が不安定になったように。
「もう一回言って」
「―だったわ」
肝心な部分が聞こえない。Aも困ったような顔をしている。
「私の声、ちゃんと聞こえてる?」
「時々途切れるかな」
「そう―始まってるのね」
ノートを見返すと、さらに奇妙なことが起きていた。「Aの好きな季節:秋」と書いたはずの文字が、「Aの好きな季節:」で途切れている。まるで重要な情報だけが、世界から削除されているかのように。
「これって―」
「私が次の世界に移る時間が近づいてるの」
Aが静かに頷く。その表情に、諦めにも似た穏やかさがあった。
記憶の消失
日を追うごとに、Aの存在は薄れていった。姿がぼんやりとして、まるで薄い霧のようになる。声も遠くから聞こえるようになり、会話の大部分が僕には届かない。
「―は楽しかった」
放課後の屋上で、Aの声がかすかに聞こえる。
「何が楽しかったって?」
「あなたと過ごした―が」
文章の途中が聞こえない。まるで世界が、僕からAとの記憶を奪おうとしているかのように。
僕は必死に記憶を留めようとした。Aとの思い出を日記に書いたが、翌日見返すと重要な部分だけが空白になっている。写真を撮ろうとしても、Aは写らない。録音しようとしても、僕の声しか記録されない。
「なんで忘れちゃうんだ?僕は忘れたくないのに」
「世界の法則みたいなものかな。並行世界を渡る存在は、一つの世界に痕跡を残してはいけないの」
Aの輪郭がさらに薄くなる。もはや透明人間と呼んでも過言ではない。
最後の文化祭
文化祭の日、僕は舞台で演技をした。本当はAに見てもらうはずだったのに、もう彼女の姿はほとんど見えない。
「―頑張って」
客席からかすかにAの声援が聞こえた気がした。それだけで、僕は最高の演技ができた。
劇が終わった後、僕は急いで屋上に向かった。
「Aちゃん、見てくれた?」
「―素晴らしかった」
風に混じって、彼女の声がかすかに聞こえる。
「ありがとう。君がいてくれたから頑張れた」
「―ごめんね」
「何を謝るんだよ」
でも返事は聞こえなかった。もう、Aはほとんど消えかかっている。
最後の約束
その夜、僕は一人で屋上に立っていた。Aがいるような気がして、でも姿は全く見えない。
「まだいる?」
「―いるわよ」
風に混じって、彼女の声がかすかに聞こえる。
「寂しいよ」
「―も寂しい」
会話すらまともにできない。でも、確かにAはそこにいる。
「せめて一つだけ、お願いがあるの」
「何でも言って」
「私の名前の最後の一文字だけでも、覚えていてくれる?」
僕は必死に記憶しようとした。Aの名前の最後の文字。それは―
「『愛』よ」
Aの声が風に混じって聞こえる。
「『愛』という字だけでも、あなたの心に残してくれる?」
「愛?君の名前は何愛なの?」
でもAはもう答えられなかった。完全に透明になって、声すらかすかにしか聞こえない。
「―ありがとう」
最後の言葉だけは、なぜかはっきりと聞こえた。
「―と友達になれて、本当によかった。私、とても―だった」
「僕も!僕もAちゃんと友達になれてよかった!」
僕は夜空に向かって叫んだ。
そして、Aは完全に消えた。
一人になった朝
次の日、僕は一人で登校した。窓際の席を見ても、もう誰もいない。それどころか、なぜ自分がその席を見つめているのかも分からなくなっていた。
教室で、僕は妙な違和感を覚えた。何かが足りない。大切な何かが欠けている。でも、それが何なのか分からない。
「田中、どうした?ぼんやりしてるけど」
佐藤に声をかけられても、うまく答えられなかった。
「なんでもないよ。ちょっと寝不足で」
でも、胸の奥に妙な感覚が残っている。大切な何かを失ったような、温かくて切ない気持ち。まるで親友を失ったような深い喪失感。
そして、なぜか頭の中に「愛」という文字がこびりついている。
「『愛』って何だろう?」
僕は呟いた。誰の名前の一部なのか、なぜ覚えているのかは思い出せない。
記憶の断片
駄菓子屋の前を通りかかると、なぜか立ち止まってしまう。うまい棒を見ていると、なぜか二本買いたくなる。理由は分からない。
映画館の前でも、なぜか懐かしい気持ちになる。一人で映画を見ているのに、隣に誰かがいるような錯覚を覚える。
図書館で勉強していると、時々振り返ってしまう。誰かに見守られているような気がして。でも、そこには誰もいない。
屋上に上がると、一人なのに誰かと話したくなる。夕日を見ながら、空に向かって話しかけてしまう。
「今日は疲れたな」
風が答えてくれるような気がするが、もちろん何も聞こえない。
秋の終わり
文化祭の写真を見返していると、舞台の上の自分が妙に生き生きしている。まるで大切な人に見守られているかのような表情で。
「あの時、すごく頑張ってたね」
クラスメイトに言われても、なぜあんなに頑張れたのか思い出せない。何かが、いや誰かが僕を支えてくれていたような気がするのに。
体育祭の時も、リレーで走っている自分の写真を見ると、観客席の方を向いて手を振っている。でも、誰に向かって振っていたのか分からない。
冬の始まり
初雪が降った日、僕は屋上に立っていた。雪を見ていると、なぜか温かい気持ちになる。
「きれいだな」
独り言を言いながら、なぜか隣に話しかけている。まるで誰かがそばにいるかのように。
「愛」という文字を手のひらに書いてみる。雪がその文字を消していくが、不思議と心配にならない。この文字だけは、絶対に忘れない気がするから。
春への想い
卒業式が近づいた頃、僕は一年間を振り返っていた。楽しかった記憶がたくさんある。でも、その多くに空白がある。誰かと一緒だった記憶があるのに、その誰かが思い出せない。
「いい一年だったな」
独り言を言いながら、僕は微笑んだ。理由は分からないけれど、確かに素晴らしい一年だった。
桜が咲き始めた日、僕は桜の木の下で空を見上げた。
「また新しい季節が始まるね」
誰に向かって話しているのか分からないが、なぜか話し続けてしまう。
「愛」という文字を見るたび、胸の奥が暖かくなる。理由は分からないけれど、この文字だけは絶対に忘れてはいけない気がした。まるで、大切な何かとの約束みたいに。
でも何の約束だったのかは、もう思い出せない。
ただ一つだけ確かなことがある。僕の心には、説明のつかない温かい記憶が残っている。形のない、でも確かに存在した友情の記憶が。
風が頬を撫でて行く。まるで、誰かが「さようなら」と言っているかのように。




