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09 想いは遠く (強面漁師と古書店店長)

 仏壇の前に座り、いつものように手を合わせた。



 妻に先立たれて、もう十年が過ぎた。生きていれば寿命があるというのは仕方がないことだ。いずれ自分もその日が訪れるだろうが、きっとまだまだ先になるだろうと大里 源二(おおざと げんじ)は確信している。

 同世代の奴らに比べて足腰はいまだにしっかりとしているし、今もまだ現役の漁師の一人として息子と沖に漁へ出ている。漁師としての勘も未だに衰えていないくらいだ。

 それでも近頃は節々が痛むし、どうも頭がはっきりとしない。無理やりはっきりとさせようと煙草を吸うが、これもそろそろと控えた方が良さそうだ。

 後どれくらい、時間があるのだろうか。

 なんて思いつつ、いつものように源二はその店に足を踏み入れた。


「あら、またいらっしゃったんですか。源二さん」

「わりぃかよ」

「いえいえ、とんでも無い」


 入った瞬間、いつものようにカウンターに肘をついて売り物の古本を読み漁っている店主の野崎 澄(のざき すみ)が顔をあげた。

 毎度のことで、いつも源二の姿を見るなり困った顔をして、それでも笑顔で迎えてくれる。さらにいつものことなので、すぐに澄は立ち上がりながら源二に問いかけた。


「お茶飲みますよね?」

「おう」


 分かっていながら、澄は律儀に聞いてくる。だから源二も律儀に、けどもぶっきらぼうに答えた。

 時間に余裕があるときだけ、源二はよく古書店に出向く。ただ、源二はいつも古本を買わずに店主である澄とちょっとした世間話をするために。



 いつもの番茶は、舌が焼けてしまいそうなほどに熱い。しかも比較的に大きな湯呑にいつも入れてくれるから、遠慮なく源二はカウンターの前にパイプ椅子を置いて澄ととりとめのない話をすることが出来た。

 とは言っても、源二はそこまで口が回る方ではない。だから話すのは基本的に澄の方で、あの本は素晴らしいものだった。先日、こんな本が売れた。試しに仕入れてみた本が思ったよりもつまらなかった。なんて、ひたすらに本の感想を聞かされているのがいつものことだった。


「ああ、そういえば」


 澄は何かを思い出したように、語っていた本の感想を途中で止めて源二に問いかけてきた。


「最近、先生の小説は読んでいるらしいですね?」

「なんだよ。文句あんのか?」

「ここにこぉんなに本があるのに、買ってくれないんですから文句はでますよ」


 それはそうだろう。なにせここは古書店で、澄は仕事中。源二はただ単に冷やかしに来ているだけのもはた客でも何でもない。しかし、それはそれであるという暴論で源二は澄に言い返した。


「仕方がねぇだろ、先生のが面白いんだからな」

「はいはい。で、最近はどんな小説を読んだんです?」

「最近のはあれだ。女の話」

「いやいや、分かりませんって」

「いっつもはじめましてって言う女が主人公の話だよ。最初は青臭いガキだったのが、大人になっても変わらずにはじめましてって言う話」


 今回、先生から渡された小説はまた随分と長いものだった。いつものが短編。そしてこれが中編ぐらいだと教えてくれた。

 これがなかなかに読み応えのあるもので、ついつい近頃はそればかりを繰り返し読んでしまっていた。


「へぇ。はじめまして、ですかぁ……。それ、面白かったんです?」

「そこそこな」


 妙に含みのある笑みを浮かべる澄に、源二は少しばかりの疑問を抱いた。だが、すぐにそういえば先生もまた、ここによく来ていることを思い出した。

 話の流れで、先生から少しばかりはその小説について聞いているのかもしれない。そう源二は予想しつつ、とくに何も聞かずに茶を飲む。別に聞いていたところで、感想を言い合うような話し相手ではないし、様子から見るにまだ澄は読んでいないのだろう。それに呼んでいたら自分よりも先に勝手に話しだすのだ。とても分かりやすい。


「源二さんって、結構いろいろと読まれてますよね。確か」

「あー……まぁ、昔はな」

「じゃあ今どきの小説は読まれたりします?」

「今どきのかぁ? んなもん知らねぇよ」

「でしょうねぇ」


 源二が知るのは、あの部屋にある本達と、先生が書いた小説ぐらいだ。新しく本を買いたそうとは欠片も思っていないし、興味がわかない。だからとくに新しい今どきのものなんて知ったことではない。


「そういえば昨日、お孫さん来ましたよ」

「ああ? なんでまた」

「先生がいたからですよ」

「あいつ、先生がいたらすぐに飛んでいっちまうからなぁ」


 どうも孫は先生に懐いているらしい。やはり都会から来たからなのだろうが、やはり先生はよくここに来ているようだ。しかし残念なことに、どうもここでは鉢合わせになったことが無い。

 それが良い事なのか、悪い事なのかは源二は判断しきれずにいた。


「お孫さん。先生からよく分からい事を言われたみたいで、それについて文句言っていたんですよ」

「へぇ、どんな」

「都会は何でもある。けど、何でもない」


 まるで謎かけのような言葉だった。

 一体どういう意味で先生は言ったのかと源二は腕を組み、天井を見上げる。そうしてしばらく考えに考えて、納得した。


「……ああ、そういうことか」

「あれ、源二さん分かっちゃったり?」

「お前だって分かってんだろ。戻ってきやがって」


 源二だって外に出たことがある。そして実際に働いて、結局は戻ってきてしまった。澄は高校、大学へと通うために外に出ていたが外で働かずに戻ってきた。

 分かってしまったのだ、外というものがどういう場所なのか。

 外はなんだってあることは間違いない。しかし、それは、何でも手に入れられるほどの何かを持っている奴に限った話だ。

 そもそもとして、こんな寂れた場所に生まれ育った時点で持っているものが大きく違ってくるのだ。そこから外の奴らと同じようになるには、それ相応に力をつけなければならない。そうでなければ、ただ単に何でもない空虚に縋り付いて一生を終えるしかない。

 夢を見て外に行くのは良い。力をつけて空虚ではなく、ちゃんと得たいもの得れるならなんだって良いのだ。それで元気でいてくれるなら、本当になんだって良いのだ。本当に。


「ああ、嫌だ。理解ある大人になっちゃったわぁ」


 澄は一体どんな空虚を見たのか、源二には分からない。今の時代、随分と複雑でたくさんの話が行き交う。だからきっと今の時代の空虚はより大きく、より複雑なものにでもなってしまっているのではないか、とつい想像してしまった。なにせ、あれほど外へ行くことに目を輝かせていた澄が、何もかもを諦めて戻ってきたくらいなのだから。

 源二はこの悪い話を断ち切るように立ち上がった。


「邪魔したな」

「邪魔したと思っているんなら、本を一冊ぐらい買っていってくださいよ」

「増やすと倅がうるせぇんだよ」

「良いじゃないですかぁ。っていうか、先生以外のは何読んでいるんです?」


 源二はゆるり、と視線を外に向けた。


「……あー……忘れた」

「ちょっともう、ど忘れですか?」

「余計な世話だ。また来んぞ」

「はいはい」

 そしてそのまま澄の視線から逃れるように、源二は古書店を後にした。



 読書家だなんだと源二は周囲から言われているが、実を言えばあの家にある本の大半は妻が残したものだ。だが、誰も妻の趣味が読書なんて知りはしない。息子もきっと知りはしないだろう。会話なんてこの性分なもんで、ろくにしてはいなかった。ただ、本を読みふけっている妻の隣にいるために本を読むふりをしていたらいつの間にか読んでいた。

 妻が先立ってから、本はろくに読んでいなかった。けども今はあの作家先生の小説だけは何度も読んでいる。話しかけるきっかけで小説を寄越せと言った手前、読まなければと思い読んでみたら、いつの間にかこうなった。全くもって何が起こるか分かったもんじゃない。

 今は孫が同じ小説を読んでいる。よく分からないという顔をしながらも、何度も、何度も。そりゃあそうなるだろうな、と源二は思う。

 この町にいるなら、あの苦しみは分かるはずがない。

 あの話はとんでもなく苦しい。それこそ、この虚しさや孤独を覆ってしまうほどに。

 帰れば妻が残した本が待っている。

 まだ、もう少しだけ読むには時間がかかりそうだった。だが今読み返している、はじめまして、というまた少し毛色が違う話を読み切ればなんとなしだが、読めそうな気がした。

 妻は源二と出会った時、言ったのだ。

 はじめまして、と。

 この町ではめったに聞くことのない言葉とともに、何故か妙に困ったような顔をして笑っていた。



 何故、写真を撮らなかったのだろうと今になって後悔をしている。いや、あるにはあるが、どの写真も、その笑顔は無かった。全ては源二の記憶の中だけの笑顔だった。

 自分には勿体ないほど良すぎた妻だ。だからこそ、この胸の内の空洞はいつまで立っても埋まることはないだろう。耐えなければいけないのに、どうしたって耐えきれず源二はついつい、古書店へと足を向けることを止めることは出来なかった。理由はただ一つだけだった。

 店長のその、困ったように笑う顔が、妻によく似ているから。

 たったそれを見るために、源二は今日も足を運んだ。本を買わずに居座り、ただ話をして帰るだなんて迷惑極まりないことをしている自覚はありながらも止められなかった。


「……明日も、天気は良さそうだなぁ」


 穏やかな海を眺め、源二は呟く。

 なぁ、お前よ。今だけは許しておくれよ。それで文句は後でしっかりと聞いてやるから。

 けどもきっと妻は、困った顔で笑って仕方がない人ねと言うのだろうなぁ、なんて思いながらゆっくりと帰路へとついた。

老年の漁師は本を読まないのに、足しげよく古本屋に通うのは先立たれた若い頃の妻によく似た店長がいるからだった。「またいらっしゃったんですか」困ったように笑う顔が本当によく似ていたのだ。寂しさ故の事だと思って、どうかこの老人の相手をしておくれと、今日もまた通うのだ。

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