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07 なんと幸せか (妻と夫)

 大里 美波(おおざと みなみ)の生まれ育った場所は、この港町よりもずっと人が多く、都会と言うには寂れた、いわゆる地方都市と言われる場所だった。当時は一生そこで暮らし続けるのだろうと思っていたが、まさか自分がこうして小さな港町に嫁いでくるとは欠片も思わなかった。

 本当に人生というのは何が起きるのか全くもって分からない。



 書棚に並べられたいくつもの写真立てのうち、一つを手に取る。ずいぶんと日に焼けて色合わせしまったその写真は、初めて二人で旦那と、当時で言うと彼氏と旅行へと行った時のものだ。

 あの時は本当に大変だったと美波は思い出し、ついつい遠い目をしてしまった。

 なにせ行きの電車でまず大喧嘩をした。原因は駅で買う弁当の種類だった。本当にくだらなすぎる。それから乗り遅れそうになったり、間違えそうになったり、実際に一本乗り継ぎの電車に乗り遅れてまたそこで大喧嘩。もうそこで帰ってやろうかと思ったが、旅館を予約していた手前、帰るという考えはすぐに消し去った。

 それからもうなにかにつけて喧嘩、喧嘩、喧嘩。おかげで、この写真の若い二人は、そろって仏頂面だし、距離ももどかしいくらいに少々遠い。

 そんなに喧嘩していたというのに何故記念に写真を撮ったのかと言うと、二人で初めて旅行をしたからというだけの理由だった。撮ってもらった女将さんは困惑顔をしていたのを今でもはっきりと覚えている。



 それから二人の結婚式の写真。続いて二人と、一人の赤子の写真。七五三の時の写真も飾っている。

 本当はもう一人か二人、子供が欲しいと思った。けども、あいにく子宝には恵まれずにこの歳を迎えてしまった。世の中では高齢出産なんて言葉はあるものの、今更な話だった。そして今となってはそんなことを思ったな、なんて思えるくらいには今に満足している。

 一人息子はあっという間に大きく育ち、つい来年にはこの港町を出て行く。何せこの場所には、高校がないからだ。だから誰もがその歳になれば自然とちゃんとお別れの為にと動き始めている。

 もちろん、ここから通えることには通える。ただし片道、三時間以上。だからここの大人達は外へ行く子供達に精一杯のものを与えるのだ。

 そして、誰一人として戻って来いとは不思議と言わないのだ。むしろ出て行くのが普通だと言わんばかりだ。だから出て行ったまま戻らない子供達もいれば、何故か不思議と戻ってくる子供達もいる。

 ただ、ここに愛着があるのか。いや、あったとしても、外にいかないと出来ないことの方が多いから帰ってこない場合もある、と思いたい。

 息子はどうだろうか。

 外に憧れを持っていることは知っていた。美波が持ってきていた、ここでは見ることのできない小さな雑貨達に強い興味をしめしていたときもあったし、今なんてスマートフォンで何やらよく分からない動画を見ては目を輝かしている。偶然目にしてしまったが、そのどれもが都会の、キラキラとした若者が踊っていたりしているものばかりだった。

 ダンスでも興味が湧いたのだろうか、なんて思っていたがどうもそうではないらしい。都会から来た作家先生から話を聞けば、ただの流行りらしい。ダンスを踊っては動画を投稿して人気になり、心を満たしているのだとか。そしてまんまと息子はそのうちの一人になったらしいが、動画を投稿しようとはしていないようで、少しばかり安心してしまったのは内緒だ。

 ただ動画を投稿しようとはしていないようだが、近頃はどうも義父の部屋へよく居座っているようだった。二人してどんな会話をしているのかついつい気になってしまうが、ここはぐっと抑えて様子を見るだけにとどめていた。



 美波はそんな息子に対して、都会に行ってしまうのだろうという予感はどこかしていた。それでも良いと思っている。そこで誰かと出会って、遠く離れた場所に住むのも良い。何を思ってか、ここに戻ってきても良い。その時はとびっきり美味しいご飯を作るつもりだ。

 一人であろうと、家族が増えようと。この先、一人息子が元気であればなんだって良いと本当に心のそこから思っている。けどもやはり寂しさを覚えてしまうのは仕方のないことだった。

 後もう数カ月、一人息子はこの港町から出ていく。美波は一番新しい写真が入った写真立てを手に取った。

 そこに写っているのは四人。義父と、旦那と、美波と、一人息子。養父はこの写真を遺影にするとか言っていたが、きっとそれはまだまだ先だろうと旦那は困ったように言っていた。しかしなかなかに良い写真だ。やはりプロに撮ってもらうのが一番だが、それにしたって男達三人共、同じように顔を強張らせているのはなかなかに面白いものだった。

 写真立てを元の位置に戻し、また遡る。

 あっという間な人生だと思う。実際は何十年という長い時間を過ごしてきたが、振り返ると本当にあっという間なような気がしてならない。

 これまで辛いこともあったし、これからも辛いことはあるだろう。けども、それが些細なものだと思ってしまうほどに、全ての日々がとても満ち足りているものだったのは間違いなかった。

 もちろんだからと呑気に過ごすつもりはない。ちゃんと逃げないで向き合ってきたからこそ今があるのだ。だからこの先も向き合って、悩んで、時々喧嘩したりして、悲しんで。そして笑って、この先の時間を過ごすつもりでいる。


「おーい……って。ど、どうしたんだ? 何か悩みごとか? 母ちゃん」


 隣の部屋から顔をのぞかせた旦那が、何を思ったのかそんなことを聞いてきた。

 一体どうして悩みごとなんて考えていると思ったのかと思いながら、美波は目の前に並ぶ写真立てへと指を指した。


「悩みごとじゃなくって、ただ、ほら。この写真、懐かしいと思わない?」

「写真……? ああ、写真を見てたのか」


 悩みごとがないということを知った旦那は安心したように大きく息を吐きだした。

 旦那は今も昔も、少しばかり早とちりするところがある。それで何度喧嘩に発展したことか、なんてまた昔に思いを馳せてしまった。


「増えたなぁ」

「まだ増やすわよ」

「そりゃ良いな。次の写真立てを買わねぇと」


 意外にも旦那はこういった物には好意的に受け取ってくれている。そしてふとした時、美波と同じように写真を眺めていたりしていることもちゃんと知っている。

 もしや、さっき何か悩んでいるのではと聞いてきたのは、旦那自身がこれら写真を眺めている時は何か悩んでいるときなのではないか。だなんて、ちょっとばかり思ってしまったが、旦那からはそんな悩みごとは聞いていないし、あったとしても分かりやすく悩んでくれるのできっと違うだろう。

 美波は即座にそう否定した後、ずっと部屋から顔だけをのぞかせたままの旦那に問いかけた。


「それで、何か用があったんじゃないの?」

「あ、そうそう。あれ、どこだったっけと思って」

「あれじゃ分からないわよ。右の棚の方は探したの?」


 旦那は美波に言われるがままに探すため、顔を引っ込めた。そしてすぐに、あった、と大きな声で教えてくれた。

 全く出会った時と何ら変わらないが、あれで伝わるくらいにはとても長い日々を過ごしたのだと実感し、改めて写真を見つめた。

 ああ、なんて幸せな日々を過ごしてきたのだろう。

 当たり前になっているこの日々を噛み締めつつ、美波は旦那がいる部屋へと向かったのだった。

この地に嫁いで来て、もうどれほど経っただろうかと手にとった色あせた家族写真を見て物思いに耽る。今、自分は幸せなのだろうか。「母ちゃん、どうかしたのか?悩み事か?」少年の様な顔をして、奥の部屋からひょこりと顔を覗かせた旦那を愛しく思えるのだから、間違いなく幸せだと確信をした。

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