06 不思議なもので (売れない作家とご近所の奥さん)
くわり、と佐古 直仁は大きな欠伸をこぼした。
夢見が悪かったのだ。それこそ悪夢といっても過言ではないくらいのものだった。
またもう一つ欠伸をこぼしながら、直仁は机の前に座り、ノートパソコンに電源を入れる。今日は一日何の予定も入っていない。一日中、惰眠を貪っても良いが、昨日は本当に中途半端な所で執筆を止めてしまったのだ。だからせめてもう少しキリの良い場面まで書き切りたかった。とはいえ悪夢を見てしまった手前、こんなにも胸のざわつきが収まらないまま執筆できるかは定かではなかった。
一先ずは一時間は前にいよう。文字を綴れるか、綴れないかはまた別だ。それで調子が乗ればそのまま続ければ良い。けども調子が乗らなければ外に出よう。
猛暑、そして長過ぎる残暑もようやく収まり秋の気配が一気に色濃くなってきていた。お陰で散歩がしやすい時期になってきたが、同時に日がくれるのが早いこと。暑さはどうでも良いが、日が沈むのはもう少し名残惜しそうしてもらっても良いのではないか。
なんて直仁は馬鹿馬鹿しいことを考えつつ、机の上に放り投げた眼鏡をかけ、ノートパソコンの画面を覗き込んだ。
結局のところ、文字は一切綴れなかった。だから直仁は今、一人ふらふらと浜辺を歩いていた。
「……うーん……何も思いつかない」
直仁は人知れず、小さく呟いた。
手あたり次第、思いつくがままに書き綴ったわけだがやはりそろそろと長編を書きたい欲は湧いて出てきた。この前の、はじめましてで始まる話はすでに書き終えたばかりだとは言え、あれはせいぜい中編が良いところ。もっと、もっと長い話を書き綴りたい。
ただしかし、それは主人公や、そこに出てくる登場人物達を長い苦しみの中へと放りこむことになる。そしてその先が救われるものかどうかは、やはり書いて見なければ分からない。ただただ、その苦しみの中でも輝くその生き様を書き綴りたかった。
直仁は人の苦労、困難を主軸とした小説を主に執筆している。どうやって生き抜き、歩み続けてきたのか。救われようと、救われまいと、その主人公が輝く姿を日々書き連ねている。
確実にそのせいで読者は少ないのは自覚をしている。けれども直仁はこれを書き続けたかった。
直仁は小さい頃から引っ込み思案で、むしろかなりの人見知りだった。学生時代なんて教室の片隅で一人きり、貪るように本を読んでいた。
運の良いことに、いじめというものには縁がなかった、と思う。ちょっと仲間外れに似たようなことは何度もあったが、されて当然のことをしてきた自覚は当時からあった。だから別に直仁にとって、それがいじめとは思わなかった。ただ、どうしてこんなことをしているのかが不思議でならなかった。
そこからはさらに本の世界へと入り浸った。
それが直仁の全てだった。
しかしその世界に否定されてしまって今に至っている自分が何とも滑稽に思えてしまった。
人が分からず、文字に入り浸った。文字に否定されたから、人の世界へと飛び込んだ。するとどうだ、文字が向こうから手招いてきたのだ。
今になって思うのだ。
あの時、人見知りの気質だったからと本に入り浸らず、むしろ何故と問いかけてやった方が良かったと。何とも頭のおかしいことを考えていることを直仁は自覚していた。だが、それが必要だったのだと今になっては思う。
人が何を思い、何を考え、何のために行動をしているのか。
直仁は本で得ただけの知識だけで書いていた。それだけでもある程度までは書き綴れた。しかし、それにも限度があった。だから湧き出ていた文字が枯渇してしまい、精神を病み、現状に至ってしまったが、今となっては早々に分かって良かったと心から思っている。
そして辿り着いた場所がこの港町であったことも。
知らなければ知らないほどに、人間というのは恐ろしいと思う。しかし、知れば知るほどに、人間というものはやはり恐ろしいものだとも思う。
感情に振り回され、群れる他ない人間が、孤立した人間に対して行う愚行のなんと恐ろしいことか。
孤立した人間の心情なんて無視し、無理に手を引き仲間に引き込もうとする傲慢さのなんと恐ろしいことか。
まるで神でもなったかのように、俯瞰して周囲を見ようとしている、まさに己の浅はかさのなんと恐ろしいことか。
ああ、恐ろしい。恐ろしい。
しかし、その恐ろしさを直仁は拒むことなく、より理解しようと文字を書き綴り始めることが出来た。
何故、直仁は人の苦労といったものを書き綴るのか。
あれほど興味を示すことが無かった学生時代を過ごしたと言うのに、何故これほどまでに執着していたのか。
正体は羨望だった。
仲間達とわいわいとはしゃぎまわり、時としては馬鹿をして怒られて、また次は何をするかと集まり笑う。しかし時には苦悩に顔を歪め、どうしようもない壁を目の前に諦めて、また別の道へ進もうとする。それはよじ登ろうとする。
直仁はその姿を教室の片隅からずっと見ていた。文字を追う振りをして、ずっと、ずっと。
「またお散歩ですかぁ、先生」
「おや、これはこれは。いやぁ、散歩するにはちょうど良い具合だったもんで」
浜辺に歩いていたはずだったのに、いつの間にか足は勝手に帰路を辿っていたらしい。直仁は目の前から声をかけて来てくれたご近所の奥さんの一人、大里 美波に下手くそな笑みを浮かべた。
美波は直仁のその表情を見て、おや、と言うように肩眉を器用に動かした。
「あら先生。また夜更かしでもしたんです?」
「ばれちゃいましたか」
「そりゃあ、そんな顔なさっているんですもの。分かりますよ」
ころころと美波は笑い、ああ、そうだと何かを思い出した。
「先生、おまんじゅう食べません? 実はたくさんもらっちゃったんですよぉ」
「わぁ、いただきます」
「うふふ。ちょっと取りに来てもらえるとありがたいのだけども」
「ああ、ではこのままお邪魔しちゃいますね。そういえば源二さんは御在宅ですか?」
「どうだったかしら?」
来た道を戻る美波の隣に並んで歩く。財布ぐらいしか入っていないであろう手提げかばんを見る限り、買い物へと出掛けようとしていたところだったはずだ。しかしこうして話しかけているのだから、きっと急ぎのものではないのだろう。
いや、急ぎのものだとしてもこうして話しかけて、同じようなことをするのだろうと直仁は手に取るように分かってしまった。
この港町は不思議な場所だ。
鬱陶しい人付き合いをしなくてはいけないし、一人でいようとしても何故か勝手に人が集まってくる。些細な談笑から始まり、子供達が馬鹿をやったことにまた笑い、呆れ、毎年のように外へ出て行く子供達へ心配かけまいとこの場だけ大人達は憂う姿を見せる。
全く同じというわけではない。だが、あの日の教室の片隅で、羨望を抱いてしまった彼らの中に入り込んでいるような心地になるには十分だった。
二度と手に入らないものだと思っていたのだ。だから、二度と文字を書き綴れないと覚悟していたのだ。それだというのに、まさかこんな場所で、あの日抱いた憧れを叶えることが出来るだなんて、直仁は思いもしなかった。
どうしてだろうか。あれほど行き詰っていたというのに、今こうして歩いている間にも文字が身の内から溢れだそうとしているのは。
ああ、書きたい、書きたい。書き綴りたい。
「す、すみません。その、メモを」
「ほらもう目の前ですから。あ、お茶用意しますねぇ」
「わぁ、ありがたいですぅ」
やんわりと歩きスマホを美波に止められ、直仁はぐっと今この瞬間だけは耐えることにした。
その心情を察してか、美波はまたころころと笑った。
ああ、早く書き綴りたい。
直仁は駆けだしたい衝動に駆られながら、忘れないようにと頭の中で必死にメモを取り続けた。
人間というものが怖くなった。だから作家はここまで逃げてきたのだ。だと言うのに、人間に救われているのだからもう笑うしかない。「あら先生、また夜更かしですか?」ご近所の夫人がそう言って笑いかけてくれた。心がとても温かくなって、作家も不器用ながら笑顔を浮かべて応えた。




