29 背中に張り手 (嘆く作家と古書店店長)
今日も今日とて、気分転換にと佐古 直仁は、通い慣れた古本屋へと足を運ぶ。
日夜、作家として執筆をこなしてはいるものの、頭につくのは未だに売れないの言葉だ。
一応、書籍になっているものがあるが売れているという話は聞かない。こんな状態で作家と名乗って良いものかと考えてしまうがしかし、どうしたって溢れ出てくる文字は止まらない。だから今はとにかく書き続けているのみなのだが、さすがにペースは近頃落ちてきた。
だから少しの休憩と気分転換も兼ねて、どうせ暇であろう古書店の店長の元へと向かっていたのだった。
びゅう、と横を通り過ぎる凍えるほどの北風に身を震わせる直仁は目の前に見えてきた古書店へと足早に駆け寄り、ガラス戸を開けた。
「こんにちはぁ」
ガラス戸を開けた瞬間、古本特有の匂いと温まった空気が直仁を包み込もうとしてくれる。とても心地の良い場所に辿り着けた、と思ったがしかし、そこで何故か腕組をし、仁王立ちをしていたこの店の店長、野崎 澄のただならぬ表情を見て、タイミングを完全に間違えたと悟った。
「あ、ちょうど良い所に」
「僕、用事を思い出したので帰りますねぇ」
「逃がすと思います?」
直仁はすぐさま来た道を戻ろうとしたが遅く、澄にがしりと肩を捕まれ逃亡を阻止されてしまった。来年は反射神経を鍛えるため、運動を心がけようと心に決めた。
「えぇ……なんですか? 一体」
「ちょっとお願いがあるんですよ」
「はぁ、お願いというのは?」
「まぁまぁ、とりあえず中に入って」
普段から多くの本を持ち上げたりしている澄の筋力というのはそれなりに強く、半ば引きずられるように直仁は店内へと入らせられた。そしてそのままカウンター前にいつも置かれている鉄パイプの椅子に座らせられ、澄はいつものようにカウンター奥の椅子にどかりと座った。
「……えぇっと、お願い、というのは」
「私の背中、叩いてくれません?」
澄からのお願いに、直仁はすぐに思考を回した。
今この人は何を言ったか。いや、きっとそう、別の意味が含まれているはずだ。例えば、そう。
「背中がかゆいんですか。それなら孫の手がありますよね」
「違います」
「まさか虫?」
「潰させると思うんです?」
「ですよね」
虫なんていたらむしろ叩いてはいけない。悲惨なことになること間違いなしだ。
どうやら本当に、言葉の通りのお願いらしい。無駄な抵抗になるだろうが、直仁は少しでも抵抗の姿勢を見せるためにひとまずは理由を聞くことにした。
「それで、何故か聞いても?」
「……ちょっと気合を」
「気合って。僕よりもうってつけの人が他にいるでしょうに」
「頼みました。断られました」
おかしい。そんな愉快なことがあったならば、すぐさまにこんな小さな港町中に広がるというのに一切聞かないだなんて。ということは頼まれた人は口をつぐんでいるということだ。一人か、複数人か。
いや、今は関係のないことだと直仁はすぐさまに姿勢を正し、少しばかり前のめりになりながら澄に笑顔を向けた。
「理由によってはその願い、叶えてさしあげますよ?」
「ネタにしようとしてますよね」
「当然でしょう? ほらほら」
本当にネタにするかは話を聞いてみなければ分からないが、こんなことを願われるだなんて無いことだ。しかも女性が、男性に。
そしてこの隙に穏便に澄の気持ちを落ち着かせ、どうにかその願いを取り下げさせなければならなかった。
「……ほらぁ……、ここって辺鄙で小さな港町じゃないですか。人もだんだんと減っていますし」
「そうですね」
「それで、いや。その、どうしたって恋愛ってなると、どうしても相手が限られるわけですよ」
「まぁ、人が少ないわけですからね」
「……いいかげんに、ちゃんと決着をつけないといけないなと、思って」
「どうしてその考えに至ったんですか?」
どうやら好ましく思っている相手が今、この町にいるらしい。
なんとなく直仁はその相手を察しながらも澄の言葉を待つ。澄は何度か口を迷うように開閉させ、落ち着かない様子で視線をせわしなく動かし、机の上に置かれている両手を組むように握りしめた。
「……いつまでも、立ち止まってられない、と思ったんです」
一音、一音。澄はゆっくりと、喉から言葉を紡いだ。
澄の視線は落ちたまま。けどもその言葉は確かに前へと進もうとする決意がにじみ出ていた。
直仁は澄の姿と言葉の全てに、美しさを見て、眩し気に目を細めた。
「……良いですねぇ。いやぁ、素晴らしい。良い話を聞けました。ってことで僕は早速執筆に」
「逃がすと思ってるんですか」
これは止められない。ならば即座に退散するのが一番の方法だと思い、直仁はすぐさまに立ち上がろうとした。だがそれよりも早く、澄が直仁の細い腕を両手で力いっぱいに掴み、阻止した。
腕は全く動かせない。何たることか。男として全くもって情けない現実に直仁は押しつぶされそうになりつつ、いやしかし、と直仁は澄へと慌てて口を開いた。
「良いですか、僕は男。貴方は女性。女性を叩くなんてあって良いはずがないでしょう?」
「背中ですよ。背中」
「それでもです」
「聞きましたよね?」
澄の両手により力が籠められる。これ、もしかして痕がつくんじゃなかろうかと思うほどの痛みを感じてしまうくらいだった。
どうやら澄はとても筋力がある女性らしい。勇ましい女性、とても素晴らしい。
「何変なことを考えてるんですか」
「いえ、ちょっと。良いネタが……」
「ああ、はいはい。で、良いんですか。あることないこと、言いふらしても」
いつものように軽く澄は流しつつ、笑顔で恐ろしいことを言ってのけた。
何せこの小さな港町。皆、面白い話が大好きで、プライベートなんてものはほぼないと言えるほどに噂はすぐに広まる。
とはいえ、本当にまずいものは広まらないのでとても良識のある人達ばかりなのが本当に素晴らしいとしか言いようがない。変に都会にいた時よりも、こっちの方が過ごしやすいくらいだった。
と、直仁の思考が少しずれかけていた時、ぽつりと澄は一言落とした。
「……結末、知りたくないってことです?」
全ての話は結末があってこそ。
とはいえ、小説として話が終わっても、物語としては続くものばかりだ。だから作家である直仁は、その後に続くであろう物語を、読者がいかに想像を膨らましてくれるかが大事な一つの要素だと考えていた。
そのために、やはり区切りとして結末はちゃんと知っておかねばならないのだ。
「ぜひ知りたいです」
「なら、やってくれますよね」
「仕方がありませんねぇ」
そんな条件を出されてしまえば直仁は頷くしかない。参ったというように両手を上げてみせれば、澄は満面の笑顔を浮かべた。
そして二人して立ち上がり、澄はすぐさま直仁に背中を見せる。
「あ、左手でいきますので。ええ、はい。それでお願いします」
直仁が叩きやすいよう、澄はすぐに直仁の左手側に背中を向けてくれた。
「いきますよ」
そして直仁は左手を上げ、気持ちちょっと加減をしつつ、背中のど真ん中に振り下ろした。が、すぐに澄が頭だけを直仁に向け、声を荒げた。
「軽すぎる! もう一回!」
「えぇ?! もう一回?!」
なんと勇ましいことか。覚悟が決まった女性とはこういうものなのか。それとも澄がそういう人物なのか。ついつい、また思考がどこかへと飛んでいきそうになり、直仁は慌ててまた左手を上げた。
「分かりました。良いですか、絶対、絶対に教えてくださいよ! 良い話を書いて差し上げますから!」
そう言って、直仁はもう一度、今度はしっかりと力を込めて左手を澄の背中へ振り下ろした。
「はぁ?女性を叩けと?」「背中を叩けって言ったのよ」「何故!」「気合を入れる為よ」「ああ、はいはい。全くどういう風の吹き回しなんだか。後で結果を教えてくださいね」「ネタにならないでしょ」「まさか、良い話を書いて差し上げますよ」背中に軽い張り手をされた。弱すぎると文句を言った。




