23 ただの独り言 (男子中学生と黒猫)
昼間から釣りに出かけた父のあの足取りは、ほとんど釣れなかったに違いない。
家へと帰る父を追い越し、目的の場所に向う為に駆ける大里 卓は小さく笑った。
何せ、ずいぶんとゆっくりとした足取りだったのだ。
釣れていたら今頃、魚の鮮度があるうちに足早に家へと帰っているはずだったからだ。けど釣れなくたって、家には漁師が二人いるのだ。魚なんて大量にあるからむしろ釣れないほうが良い。むしろ処理に困る。
今日の夕飯はなんだろうかと思いながら、卓は小さな町の間を駆け抜ける。寒さが強くなってくるにつれて、日も早く落ちるようになってきた。後少ししたら、このあたりは真っ暗になってしまうだろう。
もちろん慣れた場所だし、最悪はスマートフォンのライトがあるから問題はない。けどもやっぱり暗闇の中、一人で歩くのはちょっと気が引ける。
ここがもう少し大きな町であったら、そんな心配は必要ないのかもしれない。いや、場所によってはまだ街灯なんてものはないかもしれない。それなら夜も明るい都会であれば、日が落ちてしまう心配なんてしなくて済むはずだ。
卓は都会に行きたい。それはずっと思っていることだ。今も、間違いなく思っている。けども、卓は最近よく分からなくなってきていた。
どうして、都会に行きたいのか。
この辺鄙な場所にある小さな港町には、わざわざ都会からやってきた小説家の先生がいる。だが先生が言うには、都会は何も無いだとか言っていた。意味が分からなかった。
だってSNSを見れば、都会の眩しい写真や動画がたくさん流れてくるっていうのに。それに友達の一人がその都会の高校へ進学しようと毎日大量の勉強している。さすがにやりすぎじゃないかと思ってしまうけど、それぐらいやらないと厳しいのだと担任が言っていた。
友達は言っていた。叶えたい夢があるんだ、と。恥ずかしげもなく、まっすぐに卓を見つめて言い切った。
何故か卓はそれを目の前にした時、妙に自分が恥ずかしくなってしまった。
先生はけども、都会はなんでもあるとも言っていた。だから、そのなんでもある都会に行きたかった。
父も都会に行っていたのを卓は知っている。何故戻ってきたのかは知らないけども、卓は知りたいとは思わなかった。
先程、横を通り過ぎた父の姿を思い出し、卓はつい、足を止めて来た道を振り返った。
そこには父の姿はもちろんあるはずがない。通り越して、家とは反対方向の道に曲がってきたからだ。
それなのに卓は、いるはずのない父の姿を探すようにじぃっと人影のない薄暗い道路を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……あんなに、ちっさかったっけ」
別に父は特段小さいわけではない。むしろ大柄な方だ。そして、だから余計に父の背中というのは特別に大きいものだと卓は思っていた。そのはずだった。
突然だった。なんというか、以前よりも妙に小さくこじんまりとしているように見えてしまったのだ。大きさは実際変わらないはずなのに、その唐突の変化を卓は受け止めきれずにいた。
分からない。何がどうしてそんな風に見間違えてしまったのか。
冷たい潮風が強く卓の身体にあたってくる。
ああ、そうか。この寒さだ。きっと寒いせいで背中を丸めて歩いていたんだ。
そのはずだ。
ようやく目的の場所へとたどり着き、ライトで周囲を照らせば薄暗い中からにゅっと猫達が姿を見せた。
空き家を住処にしている近所の野良猫だ。その中でも一番に懐いている黒猫が卓の姿を見た途端に足に飛び掛かり、よじ登ってくる。
「待てって!」
卓はポケットの中に突っ込んだビニール袋を取り出し、茶色の渇いた猫用の餌を周囲にばらまいた。どうせ他にも誰かから貰っているはずだろうに、猫達は一斉に飛び掛かって我先にと食べ始める。
黒猫も少し遅れて飛び降り、ようやく餌を食べ始めた。
これは別に卓の日課というわけではない。ただ偶然に見つけて、それ以降に毎日ではないがこうして餌を持ってきては与えているだけ。無責任なことだと言われたらそれまでだけども、とにかくも今の卓には一人になる時間がどうしても欲しかった。
あまりにも小さすぎる港町は、確かに人の影なんて見当たらない方が多い。けども、人の噂なんて一体どこにいたのかと疑ってしまうくらいにすぐに広まってしまう。そのくせに誰も何も言わずに見てくるのだ。
卓はどうしても、その目を向けられるのが嫌になっていた。
分からない。唐突にその目が嫌になった。なんでも知っているような目。そしてどこか、皆して諦めているような目をしていた。
「……諦めてるなら、外に行けばいいじゃねぇか。だよな?」
しゃがんだ卓は足元にいる黒猫に話しかける。黒猫は返事の代わりに尾をゆるく揺らした。
「やっぱり都会だよな。都会に行けばなんでもあるもんな」
わざとらしく卓は声を張ってみた。けども声は虚しく少しばかり強い潮風にさらわれて消えていった。
なにもない。先生が言った言葉が頭の中で過ぎ去った。
分からない。だってここには本当に何も無い。街灯なんてほとんどない。高校もない。ゲームセンターもカラオケもない。だから遊ぶと言ったら校庭で人数の少ないサッカーをしたり、家の中でゲームをするか、釣りをやるか。
父は漁師だ。だっていうのにやることがなくて暇な時間は昼寝をしているか、さっきのように釣りをしにいって時間を潰すかぐらいしかない。
一応は古本屋があるけども、卓は本に興味がないから一度も言ったことがない。祖父はよく行っているけども。
「……都会に行けばさ。都会に、行けば……」
夢を抱く友達を前に卓は恥ずかしくなった。
理由なんて分かっている。
卓はただ、都会に行きたいとは何度もだって口にしてきた。けども、そこで何をするとも、何をしたいかとも、なにもなかった。
ただ行って、SNSの中にいる人達みたいに過ごしてみたいっていうだけの、夢というには紙切れのようなものでしかなかった。
それなら夢を持てば良いと卓は思い、考えた。けども何も思い浮かばなかった。
「……俺、何がしたいんだろ……」
中学三年生。そして来年は高校生になるために受験がある。目指す場所はここから一番近い高校だ。けども片道があまりにも遠すぎるから、皆進学すると同時にこの町から出ていく。
父だって出ていった。そして都会に行って、どこかで母と出会って、戻ってきた。
なにもなかったから戻ってきたのだろうか。それならどうして母は外にいたっていうのに、ここにやってきたのだろうか。
分からない。なにも、どうすれば良いのか。
立てた両膝に頭を抱え込みうずくまる。
これはそう、寒いから。だからこうしてあったまろうと、しているだけ。
卓はきつく両目を強くつぶった。
にゃあん、と猫の鳴き声が耳に入り込み、卓は顔をすぐさま上げた。
「……なんだよ。もう餌はねぇぞ」
目の前にはいつもの黒猫。黒猫は喉を鳴らしながら卓の足に頭突きをするように強めにすり寄って来た。
思わず後ろに転びそうになり、慌てて後ろに手をつきながら黒猫を睨んだ。
「何すんだよ」
黒猫はごろごろごろとそのままもう一度頭をこすりつける。さぁ遊べと言わんばかりに。
「遊ばねぇよ。そろそろ帰らねぇとだし」
じゃなきゃ、母がなんて言うか。いや、何も言わないでにやにやと笑うだけだ。こっちがこれだけ考えているっていうのに、何を面白がっているんだか。
祖父はきっと何も言わないが、無言で何かを言いたげに見てくるだろう。
そして父は。
「……父さんと、ちゃんと話したの、いつだっけ」
ふっと、卓はここに来る途中に見た父の背中を思い出した。
なんとなく父を避けている自覚は持ってはいたし、元から父とはそこまで会話なんてしてこなかった。だからいつも思い出す父の姿は後ろ姿が多かった。
父は、どんな顔をして、どんな目で卓を見ていたのだろうか。
他の大人達と同じように、全部分かったような目で見てくるのだろうか。何もかも、諦めたような目で見てくるのだろうか。
それはそうだ。この町は何も無い。人だってだんだんと少なくなってきている。そのうちに消えてなくなってしまうような、そんな場所だ。だっていうのに、父は戻ってきている。そう、そして、他の大人達だって。
都会はなにもない。
だから戻ってきたのか。何もかもを諦めて、ここに戻って、仕方がなくここにいるっていうのか。
「ふざけんじゃねぇよ。なぁ?」
黒猫はそうだ、と言うように、にゃ、と鳴いた。
「やっぱりお前だってそう思うだろ? そりゃあさ、俺なんてまだガキだし? なんも分かってねぇのに都会に行きたいとか言ってるわけよ。外を知っている大人達からすれば、ああガキだなって感じで見てくるのは分かってんだよ。それでもさ、一回は憧れるじゃん。都会に行って、流行ってる場所行って、食べて、遊んでさ」
卓は目の前にいる黒猫の頭を指先でつつくように撫で回した。
「そんで、終わり」
かぷり、と黒猫が指先に噛みつく。痛みはない、ただの甘噛だった。卓は喉の奥を鳴らすように笑った。
「俺、別に何がしたいとかねぇもん。ただ遊びに行きたいってだけだし。だってのにさぁ、周りの大人達はすっげぇ心配してくるわりに、なにも言わないし。そのくせ、きっと疲れて帰ってくるか、二度と帰ってこねぇんだろうなって勝手に勘違いしてくるんだぜ? ふざけんなよなぁ?」
黒猫の前足がぱしり、と卓の指先を叩く。ほんの少しばかり爪が飛び出していたらしく、痛みを感じたが一瞬だった。
「聞けよ。ここに来る前に父さんがいたんだけど、全く釣れてねぇの。漁師のくせにさ。やっぱり俺がいねぇと駄目ってことだろ?」
そうだろ、と答えない黒猫に卓は問いかけた。黒猫はひたすらに卓の手で遊ぶのに夢中だった。無邪気な姿をもう少し眺めたかったけども、流石に帰らないと本当にまずいからと卓は軽く手を降って立ち上がった。
大人達のあの目が嫌いだ。
ほんの少しの羨望と、哀れみと、諦めが混ざりに混ざった、あの目が。
だからほんの少しだけ逃げたくって、卓は都会という場所に行ってみたいと思うようになった。そしたらあの目を向けられないと思ったから。
けども卓は、すぐにこの町に戻ってくると確信はしていた。
何せここは自分が生まれ育った町だ。いつまでもここにいたって良いじゃないか、と。
ふと見上げた先には明るい月が昇っていた。
月があるということは帰り道は少しばかり明るいということだ。これならば帰り道は怖くない。いや、元から怖くないけども。知っている道だから尚更に。
「じゃ、また明日な」
卓は軽く黒猫に手を降る。黒猫は不満げに尾を大きく地面に叩きつけながら、ずいぶんと大きな声でにゃあ、と鳴いた。
仕方がないから明日はコンビニでネコ缶でも買って許してもらおう。
そう決めた卓は急いで家族が待っている家に向けて駆け出した。
いつもの場所にいつもの猫。待っていましたとばかりにすり寄る可愛い奴。ビニール袋から今日の分のご飯を与え、小さな頭をつついた。「聞けよ、猫。さっき父さんがいたんだけど、全然釣れてねぇの。やっぱ俺がいねぇとだろ?」なぁ、だから町の外に出てもすぐに戻ってきても良いよな。




