20 これは今だけ (思春期の息子と父)
目の前に並んでいる今日の晩飯は、戸村 涼太が嫌いなものばかりだった。とくに酢の物なんてどうやったって食べられたものじゃない。
「さっさと食っちまえ」
目の前にいる父の戸村 翔馬がグラスにビールを注ぎながら言う。隣に座っている妹からはじっとりとした視線を向けられる。これはお前のせいだな、と言わんばかりに。
別にこれと言って何かをしたわけではない。いや、したけどもしていない。
思い当たる節はあった。ただ、ちょっといろいろとうまくできなくて、今日もただいまとは言わなかったり、受験勉強がうまく進まなくって、ついつい晩飯を食べ始めるのが遅かったり、とかそのあたりだ。後はずっと部屋に閉じ籠もって受験勉強をひたすらにやっているだけ。だから理由はそれぐらいしか思い浮かばなかった。
悪気があったわけではない。本当に、ちょっと機嫌が悪かっただけなのだ。
と言ったところでただの言い訳になるのを涼太はしっかりと自覚しながら、まだまだ大量にある酢の物をちょっとだけ箸ですくい取った。
小さい頃から勉強が好きだった。もちろん今も好きだ。
とくに数学は得意科目で、いつもほぼ満点だった。ただ代わりに文系方面は少しだけ苦手意識はあるけども。それでも平均で見たらずいぶんと良いものだった。
だから受験勉強なんて苦しいものにはならないとばかりに考えていたが、とても甘ったるい考えをしていたのだと今になってようやく知ってしまった。
同じ勉強だっていうのに、どうしても最近は頭が回らなければ手も動かなくなってきてしまっていた。
何度も何度も繰り返してきた公式だから分かるはずなのに、どうしてか答えにたどり着かなくなって、それが余計に涼太の機嫌を悪くさせていた。
あんなにも、好きなはずだったのに。
胃がきゅっとなるのは、この大嫌いな酢の物のせいだと思い込んだ。
目の前にいる翔馬が、涼太の様子を見てがははと大口を開けて笑った。
「母ちゃんの機嫌損ねたら面倒なの、知ってんだろ」
「うるさいな」
「はいはい」
何がそんなに面白いのか。
隣で食べていた妹はもう全部食べきって、食器を台所へと持っていってしまい、残されているのは自分の分の食卓と、翔馬のビールだけ。ただしくは発泡酒らしいが、ビールと何が違うのか涼太はよく分かっていない。そもそもとしてまだ飲めないし、興味がわかなかった。
「にしても本当にそれ、嫌いなんだなぁ」
「すっぱいだけじゃん」
「ま、俺もガキの時嫌いだったけどな」
ということは、大人になればこの酢の物も食べられるようになるということだろう。涼太は憎々しげに小鉢の酢の物を睨みつけ、一息にほとんど飲み込むように食べきった。
「おっとなぁ」
翔馬の茶化すような言葉を涼太は苛立ちを覚えながら無視を決め込んだ。そして茶碗に残っているご飯に手を付けた。
何故か笑いをこぼす翔馬は、まるで涼太の真似でもするかのようにグラスに入ったビールを飲み干した。ビールは苦いらしいが、何故か大人達はそれをよく飲んでいる。
大人だから、なのだろうか。だから、すっぱいものを食べられて、苦いはずのものを飲み干せるのだろうか。
大人になれば。大人に、なってしまえば。
「外へ行きたいなら行ってこい」
いつの間にか箸を止めていた涼太に、翔馬は脈絡なくそんなことを突然告げてきた。
涼太が慌てて顔を上げれば、翔馬はすでに空のグラスとアルミ缶を手に持って立ち上がり、背を向けていた。
残された涼太は慌てて残りの晩飯をかき込んだ。
晩飯を食べ終えた涼太はそそくさと部屋に戻り、中途半端に進めていたテキストの文面を見つめ、ペンを手に取った。
涼太は外へ行きたい。
叶うかどうかは分からないけれども、挑戦したい夢がある。こんな小さくて何も無い港町では叶いっこない夢だ。けども、この場所だからよく見えたものだった。
あの日、あの夜。偶然に見た一筋の光の細い糸。
あの光の先を追いたくなった。だから涼太は一心不乱に勉強している。勉強することしか出来ないからだ。
進路のことを明確に考え始めたのは中学二年生の時。その時に、都会の高校へ行きたいと言った時、両親は理由なんて聞かなかった。むしろ、何が必要なんだと二人して顔を見合わせて首を傾げていた。
止められると、馬鹿なことを考えるなと言われるかと思っていたのに、まさかそんな反応をしてくるだなんて思わなかった。
確かに勉強は人よりも得意で、数学が一番得意なのは本当のことだ。けども別にそれはわざわざ都会へ行かなくたって出来ることだ。
今なんてネットを使えばいろんな勉強が出来る環境になっているのだから、行く必要はないはずだ。あったとしてもより良い環境で勉強が出来るということぐらい。いや、重要なのかもしれないけども。
それでも涼太は夢のために外へと行く。夢を追うために、掴むために。ここへは戻らないという覚悟を持って。
この思いはあの日見た、夜空の流星のように消えず、空に浮かぶ不動の星のように、揺らがずに頑なに煌々と瞬いている。
この夢は生半可に叶えられるものではないと、まだ子供ながらに涼太は理解していた。だから勉強して、勉強して、少しでも叶えやすい場所へと確実にいけるように今できることをずっとしている。
はずなのに、うまく勉強が進まかった。ようよう一頁分のテキストが終わったところで涼太はペンを置き、両手で目元を覆い、歯を食いしばった。
嫌いだ。本当に大嫌いだ。父も、母も。何もかも全部。
だってとくに二人は、外へ行き、戻ってこようとしていない涼太に何も言わず、変わらず、この先もこの場にいるように接してくるのだから。
けども父も、きっと母も分かっている。妹は分からないけども。
「……嫌いだ」
涼太は小さく吐き捨て、強く胸に刻みこんだ。
嫌いだ。家族も、この場所も。だから出ていく。そして夢を叶える。
後悔なんてない。寂しくなんてない。苦しくなんてない。なにせ嫌いだから。
だからまず、夢の第一歩として都会の高校へ受験し、合格を目指さなければいけない。
涼太は何度も深呼吸を繰り返し、両手を下ろす。
机の上にある汚れたテキストと黒く染まってきたノートを見下ろして、涼太はペンを強く握り、勉強を再開した。
「ほら、母ちゃんの機嫌損ねるから」親父は呆れたように笑った。親父はこっちの悩みなんて全く分かっていないのだ。おかわりのビールを取りに立ち上がった親父は「外へ行きたいなら行ってこい」と、言葉を残して台所に行った。これだから親父もお袋も嫌いだ。知らないふりばかりするから。




