19 そういう気分 (母と息子)
正直、この日を待ちわびていた。
実を言えば来ないかもしれないと思っていたから、本当はそこまで期待はしていなかった。けども、ようやくこの日がやって来たのだ。
戸村 愛美は内心ガッツポーズを決め、隠しきれない笑みを浮かべた。
「ちょっと。帰ってきたならただいまくらい言いなさいな」
息子の戸村 涼太は愛美を横目に見て、ただいまの代わりに舌打ちを返してきた。
つい先程のやり取りだった。たったこれだけだが、愛美は全てを理解した。
つまり、息子の思春期特有の反抗期がようやく来たのだ。今日はなんて素晴らしい日になるだろうか。とはいってももう、時間は夕方を過ぎている。もう今日は残り少ない。
それなら明日、思い切り喜ぶことにしようと決めて愛美は夕飯の支度を始めることにした。
記念すべき日。だからって何一つ変わることはない。むしろ茶化して面白がるのも、対抗して怒るのだって良くないのだとご近所さんから話を聞いた。
とにかく受け入れるべし。
何せあの小さな頃のイヤイヤ期を乗り越え、何度もちっちゃな反抗期らしい反抗期を乗り越えてきただから、今更慌てることはない。
ああ、楽しい。
愛美はついつい鼻歌交じりに味噌汁に入れる大根を短冊切にしていく。今日はいつものように白ご飯に味噌汁。それから魚の甘酢あんかけに、ご近所さんからもらった煮物だ。
この煮物がまた絶品なのだが、どうしてか同じ味にならないのが不思議だ。もう一度作り方を教わりに行こうかしら、なんて考えながら料理を進めていく。
そう、それで、反抗期だ。
涼太は今、中学三年生。受験勉強の疲れもあるだろうし、何よりも強いプレッシャーを感じているはずだ。何せ目指している高校は都会の、それも偏差値が相当高い高校だからだ。
そもそもとして高校なんてものがない、この小さな港町にいる時点で進学したら皆、外へと出ていく。だが、涼太はより遠くの学校へ行こうとしている。
塾があれば行かせてあげていたが、残念ながらこの町にそんなものはない。今はオンラインの塾があることも知っているが、息子は必要ないと言って、一人で黙々と受験勉強に励んでいる。
学校の先生達がたくさん協力してくれているおかげで勉強について困ったことは無いように見えた。いや、隠しているだけかもしれない。
何せ今は反抗期。それも相まって相談が出来ないなんてことになっていないか、ついつい母親として心配し、余計なあれこれをしてしまいそうだった。
部屋の明かりは日をまたぐ直前までついている日もある。
ちゃんと眠れているだろうか。休めているだろうか。思い詰めてはいないだろうか。体調は悪くなっていないだろうか。
わざと余らせたご飯をラップに包んで冷蔵庫に入れておくと、時々消えてなくなっている時がある。夜中にやっぱりお腹が空いて、こっそり食べているらしいが、それは全く構わないことだった。
本当は夜食をちゃんと作ってあげたいところだったが、余計なことだと思って無理して我慢なんてしかねない。しかもあんなにはっきりとついに反抗期を見せたのだから余計に出来なくなった。
どうすれば涼太の応援になるようなことが出来るだろうか。
愛美は今まさに、もっと成長しようとしている涼太の姿を思い浮かべた。
水気をとった魚に片栗粉をまぶして、少なめの油でからっと揚げる。それから薄切りの玉ねぎに、千切りしたピーマンとにんじんを続いて揚げる。その横で手早く甘酢あんを作り、先程揚げた魚をからめ、皿に盛り付ける。最後に野菜で彩れば完成だ。すでに味噌汁は出来ているし、ご飯も炊けた。
さて今日も上手に出来た、と一人満足した愛美は、味噌汁やご飯をそれぞれの茶碗に盛り付け、居間へと運ぶ。
居間にはいつもと変わらずに夫はのんびりとビールを飲みながらテレビを見ていたが、愛美が運び始めたのを見て、息子と娘を呼びに行った。娘はすぐにやってきて一緒に残りを運んでくれる。そして息子といえば、やはり来ない。
勉強の切りが悪いのだろうが、早くこなければ冷めてしまうというのに。
確かに応援はしたいと愛美はちゃんと、心の底から思っている。けども、折角美味しく作ったご飯をないがしろにされるのは、やはり思うところはあった。
反抗期だから仕方がないのかもしれないが、それはそれ。これはこれだ。しかも今日なんて、ちゃんとただいまを言わなかった。些細かもしれないが、涼太がこの家から出ていく残りの日数を考えたら、その一回でさえも大事にしたいというのにだ。
確かに、反抗期が来たことについては嬉しいことだ。まさしく成長している姿をこの目で見られるのだから。
けども、母親だとしても一人の人間である。不愉快なものは不愉快だった。
愛美はいつもの場所に座り、息子がいない中、そそくさと一人で「いただきます」と言って箸を手に取った。
娘と夫が見てくるが、今の愛美には関係のないことだった。
お母さんは怒っているんだぞ。という意味で、明日の夕飯は息子の苦手な物にしようと愛美は強く決心した。
ただ同時に娘も嫌いなものが一緒なので、そこだけは申し訳ないなと愛美は思いつつ、買わなければいけない食材を頭の中でメモをしながら箸を進めた。
うん、やっぱり美味しい。
困ったことにうちの長男は思春期になったようである。反抗期という奴だが、ついに来たと少しばかり嬉しく思うのは変だろうか。「帰ってきたならただいまぐらい言いなさいな」しかし返ってきたのは小さな舌打ちだけ。遠ざかる足音を聞きながら、明日の夕飯は彼の苦手なものにしようと決めた。




