16 変わらない (フリーターと写真家)
都会というものに憧れた結果、家を飛び出した。絶対にやれば出来る。本気にやれば成功出来ると信じて疑わなかった。信じて、信じて、もがき続けて、そして残ったのは何もなかった。
ああ、自分がやってきたことは、ただの虚無だったのだと倉本 瑛輔は、自分の中の何かが音をたてて崩れ去ったのだと知った。
飛び出してどれほどの年数が過ぎ去ったか。
寂れた、小さな港町。年々人は減ってきていると、ここで一人住んでいる母から話は聞いていた。それを聞いて英輔はそうだよなぁ、と思いながら素直に頷けないでいた。
それからどうしても家の中に居づらくなって、英輔は一人、ひっそりと散歩へと出掛けた。
「……変わったなぁ……」
周囲を見渡しながら、英輔は思わず呟いた。
そうそう変わらないとばかり思っていたが、まさかこうも変化があるとは思わなかった。
意外に新しい家があったこと。コンビニが建ったこと。そして、空き家が増え、そこにあったはずの家が無くなり更地になっていたこと。
変わった。本当に変わった。けども想像していた通りの変化で、母が言っていた通りなのだと英輔はようやく実感した。
本当は、少しだけ期待をしていたのだ。何一つ、あの頃から変わっていないと。この小さな港町も、人も、そして母も。
英輔は鼻の奥が痛くなるのを感じた。本当、これはいい加減にこれぐらいは変わって欲しかった。
もう帰ろう。そう決めた英輔は来た道を戻る為に後ろへと振り返り、その先に一人の男ががいることに気付いた。
慌てて英輔は顔を僅かに俯かせて横を通り過ぎようとした。が、それよりも先に、男が声をかけてきた。
「ん? お前、まさか倉本か?」
顔をすぐに伏せたし、長い事ここから離れていたからそうそう気づかれないとばかりに思っていたが、さすがはこの港町。すぐに誰か分かってしまったらしい。
しかしあまりにも親し気に声をかけてくるものだから、英輔はつい顔をあげてまじまじと男の顔を見てしまった。
「よぉ、俺だよ。俺。って、オレオレ詐欺みてぇだな。こりゃあ」
男は、くしゃり、と笑いながら後ろ頭をかく。見知らぬ、と思った。けども、その困ったような笑い方も、仕草もどうしたって見覚えがありすぎた。
「ああ! お前!」
「思い出したか」
目の前の男。染岡 誠は、あの頃と変わらない笑顔を浮かべた。
あの頃。それこそお互い小中学校に通っていた頃のように、何一つ変わらない防波堤に横並びに座り、目の前の海を眺める。
ここからの景色は変わらない、と一瞬思ったけども船の数がどうも少ないように思えた。しかもずいぶんと古くなっている、そんな気がして英輔は僅かに胸を締め付けらた気がした。
「……ずいぶんと変わったなぁ。染岡」
「お互い様だろ? いつ帰ってきたんだよ」
「つい昨日。けど、そんなことよりなんで染岡がここに?」
「いや、ここ俺の地元な? 別に不思議なことじゃねぇだろ」
全く欠片も気づかないふりをしつつ、英輔が言葉を漏らせば誠は軽快に笑った。
本当にお互い、大きく変わった。同じ地元で、同い年で、同級生で。けども、高校に上がると同時に交流はめっきり減った。なにせこの小さな港町には高校なんてものはない。通うならば近くに下宿するのが通例だ。
だから交流なんてある方が珍しいし、連絡先なんて聞かなかったから途絶えるのも仕方のないことだった。
けどもこうして再会出来たのだから喜ぶべきだ。あの頃とはずいぶんと変わってしまった。
お互い大人になった。体つきも全く違うし、それこそ仕事だって。
英輔はうつむきかけた顔を無理矢理に上げた。
「そりゃあ、そうだけど。海外にいるとか」
「おう。写真撮りまくって、ちょっと前に帰ってきたところ」
「さすが。有名写真家は違うな」
「よせよ」
連絡先なんて知らなくても、誠が今何をしているのか、英輔は知っていた。何せ誠は今や有名な写真家の一人にまでなったのだ。名前一つ調べただけでも受賞したという写真や、活動の様子がありありと出てくる。
まさか同級生がそこまで化けるとは思わなかった。何せあの頃は一緒に釣りをして、うっかり海に落ちて、一緒に怒られて。そしてこっそりに船に忍び込んだら拳が飛んできて。そして、それで……。
誇らしい、と思いたかった。のに、英輔は胸の内に湧き上がる衝動に苦しさを覚えた。
「なぁ、聞いたか? 外から作家先生が来たって話」
溢れ出そうになる言葉に耐えていれば、誠がそんなことを言った。
英輔は顔をしかめ、しかしすぐに今朝、母が言っていた話を思い出した。
「ああ、母ちゃんから聞いた。けど、あれ本当だったのかよ」
「本当本当。コンビニ行ったか? あそこにいるぜ」
「あー……まだだったわ。後で行こうかな」
ついでに何か甘い菓子でも買って帰ろうと英輔は考えた。コンビニなら小さい羊羹ぐらい売っているし、何かと便利だ。どうして自分達が小さい頃に無かったのかと、そこは素直に羨ましいと感じた。
「それでさ、聞いたんだけどよ。げんじぃの家に、作家先生が書いた小説があるらしいぞ」
「へぇ……って、げんじぃって今何してんだよ」
「現役漁師。ゲンさんと一緒の船乗って沖に出てる」
「え、ゲンさんもこっちにいるわけ?」
「おう。嫁さんいるし、中三の息子が一人いるな」
「中三かぁ。なら、この町を出るんだな」
「だな」
頑固親父をそのまま絵に描いたような、げんじぃと英輔が呼ぶその人は、この小さな港町では有名な漁師だ。年も年だし、そろそろ引退しているとおもっていたら、まさか息子のゲンさんと共に未だに漁へと出ているとは思わなかった。
ゲンさんもまた、英輔と同様に都会へと出ていったが、まさか結婚してここで暮らしているだなんて予想もしていないかった。しかも息子がいるとは、本当に驚くことばかりだった。
何故、戻ってきたのだろう。
げんじぃがいるからか。それとも、何か深い理由があったから、なのか。それを言うなら、自分は何故、こうして戻ってきてしまったのだろうか。
視界がぐらつきそうになる。
その横で、誠は小さく呟いた。
「変わんねぇよなぁ。ここは」
写真家の目には、何一つ変わっていないようにでも見えているのだろうか。いや、それは無いはずだと思い、英輔はすぐさまに反論してしまった。
「いや、変わったよ。だいぶ」
「……そうかぁ」
英輔の言葉に対し、誠はずいぶんとのんびりに答えた。
間違えた、と英輔はすぐに理解してしまった。
そうだ、まずは聞かなきゃいけなかった。どこが変わらない、と。けど、確かに英輔だって変わらないことに懐かしみを覚えたものはいくつもあったと、思い返す。
変わらない家。変わらない好物の煮魚がある食卓。匂い。光。部屋。
けども、やはり大きく変わってしまっていた。兄達の子供がきっとプレゼントしたのであろう絵や、写真。都会にありそうな雑貨の数々。そして、母のあんな、小さく曲がった背中。
「なぁ、煙草吸っても良いか?」
「……煙草、吸うんだな」
「健康に悪いのは知っているんだけどなぁ」
苦笑を漏らす誠は、英輔の了承を取る前にすでに煙草を口にくわえ、安っぽいプラスチックのライターで火をつけかけていた。
「駄目なら吸わねぇけど」
「別に好きにしろって」
「さんきゅ」
誠は嬉しそうに言うや否や、そそくさと煙草に火をつけてそそくさと吸い始める。
途端、特有の煙草の匂いを強く感じた。そういえば母は煙草の匂いは平気だっただろうか、なんてふと、そんなことを考えてしまった。
「なんつぅか、あれだよ」
「あれって?」
「ここの在り方っていうの? 皆さ、考え方っていうか、生き方が変わんねぇなぁって思ってさ」
誰もが当然のように、外に出て行くことを受け入れる。そして戻ってこないことにさえ不思議には思わない。
確かに少しずつ、ゆっくりとこの小さな港町は衰退の一途を辿っている。ここにいる住人は皆、それをもうすでに受けいれている。そして本当は、この小さな港町の外へと出て行った方がはるかに便利が良い、そのはずなのに皆はずっとここに住み、そして帰ってくる。英輔のように。
「……母ちゃんが、すげぇ嬉しそうにしてたんだよ」
「おう」
するり、と言葉が出てきた。
「高校からずっと、外に出てたんだよ。帰って来たのなんて、父ちゃんの葬儀ぐらいだったし」
「ああ、悪かったな。出席できなくって」
「別に気にすんなよ。すぐに帰れない場所にいたってのは知ってたし」
この小さな港町のおかげで、誠が今どこにいるのかなんて調べなくてもすぐに耳に入った。ただまさか、外国にいるとは思わなかったけども。
「母ちゃんの背、あんなに小さくなってたなんて知らなくってさ」
「まぁ、そうだよなぁ」
「……けど。なんつぅか、変わってなかったんだよ。本当に、それ以外」
自分も歳を重ねた。それと同じで母も歳を重ねてしまっていた。当然のことなのに、どうしても頭は受け入れてくれないのは、母がそれ以外何も変わらなかったからだ。
懐かしむような眼差しを英輔に向けることはなかった。どこにいたとも、何をしていたのかも聞いては来ない。当たり前のように英輔がいようといまいと構わないと言わんばかりにのんびりとテレビを見ながら、そういえばとご近所の話をし始める。
まるで時が止まっているかのような感覚に陥った。同時に英輔は、ずっとここにいたかのような錯覚さえも覚えてしまうくらいだった。
変わらない。誠が言った通り、本当にここは何一つ変わらない。
良いことなのか、悪いことなのか。英輔には判断が出来ない。ただ、何かが胸の内を締め付ける。後悔だろうか。それとも別の何かか。
「本当、俺。何してたんだろうなぁ……」
鼻の奥がつん、と痛くなった。どうしてか英輔は分からない。どうして、今になって帰ろうと思ったのかも。どうして、もっと帰らなかったのだろうと。考えたところで何一つ、答えなんて出なかった。
「まぁ、釣りでもしようや」
お互い、中学生だった時、誠がそう言ってよく誘ってきた。誘うときは決まって、英輔が涙に耐えている時だった。
いくら歳を重ねても、結局はこの泣き虫は変わることはなかったな、と内心自嘲しながら、一つ頷いた。
変わらぬ家。変わらぬ食事。変わってしまった母の小さく曲がった背に、彼は胸を締め付けられた。世の中が嫌になり逃げてしまったというのに、母は帰ってきたと喜んでいた。苦悩する彼の隣にいる昔馴染みは煙草を燻らせ言った。「まぁ、釣りでもしようや」変わらぬ言葉に彼は涙ながらに頷いた。




