15 想いを馳せる (母と息子)
だいぶ肌寒さを感じるようになってきた。
倉本あや子は、いつもと同じ時間に起床し、小さく身震いした。
寒い寒いと思いながら、ちゃんといつものように身支度を整える。その後すぐに仏壇へと手を合わせ、ずいぶんと前に旅立ってしまった夫へ、おはようございますと声をかけた。
今日はまた一段と冷えてきました。風邪には気をつけましょうね。だなんて。
あや子はよいしょと立ち上がり、朝食を作り始める。朝食はいつも通り、ご飯に味噌汁、お魚にちょっとした漬物。塩分には気をつけるように、と言われているから味噌汁は薄めだ。
いい加減に一人分の味噌汁を作るのには慣れてきても良いはずなのに、どうしても出来てしまう量は二人分が良いところ。また昼食か夕食にでも食べてしまおうと決めた。
昼食。残りの味噌汁と漬物。他に食べようかと思ったけども、たまには良いかと思って、そのままあや子は食べ進めていた。
子供達は今、何をしているだろうか。
ふと、箸が止まった。
全員、この港町から出ていってしまった。別にそれはそれで構わないとあや子は心の底から思っている。けれども寂しいと思うのは仕方がない。何せ一人はやはりどうしたって寂しいのだ。とくにこの港町にいると、余計に。
あや子はカレンダーを見上げる。
あのハガキが届いてからどれだけ経ったか。
どこかの写真が印刷されたハガキの隅。そこには一言、そのうち帰る、とだけ。
たったそれだけでも、あや子にはとびきりな贈り物だった。
食器を片付け、緑茶を淹れる。一口飲んで、ほっと息をつき、ハガキを送ってくれた末の息子のことを思った。
末の息子は、なんと言えば良いのか。とても不器用な子だった。よく転び、運動は苦手で、勉強は今ひとつ。比べて泣き虫で、いつも鼻を赤くしていた。
そして、とてもお人好しで優しい自慢の末の息子だ。
末の息子は高校へと進学した後に大学へ行き、そのまま他の兄弟達のように外に出ていった。今、どこにいて何をしているのか。
ハガキに書いてある住所は、ここの住所だけ。だから居場所なんてこれっぽっちも分からないままだった。一体どこにいて、何をしているのか、おかげでさっぱり分からない。
とはいえ、帰ってくると書いてあった。それならば、帰ってきた時にゆっくりと話を聞こうとあや子は決めたが、たった一日ぐらいしかいなかったらどうしようかとすぐに慌ててしまいそうになる。
そうだ、いつ帰ってくるか分からないのだ。だからいつでも帰って来ても良いように、準備をしておかなければならない。
あや子は残りの緑茶を飲みほし、さて、と座布団から腰をあがろうとしたが膝からちょっとばかりの痛みを感じ、もう少し休んでからにしようと思い直した。
末の息子は、他の息子とは違って魚を好んでいた。そしてあや子は、末の息子の好物を作るのを得意としていた。
と言っても、そんなに手が込んだものではない。ただの魚の煮つけだ。それでもこれを出した日、末の息子はご飯を二杯も食べていた。一体どうしてそんなに好きなのか聞けば、美味しいからの一言だけだった。
他の息子達はやはり男児らしく肉が良いとばかり言って、夫にあれやこれと言われていたのを思い出す。
あれやこれと皆好き勝手言っていたが、皆黙って綺麗に食べきっていたからまぁ良いだろう。けども、夫もそうだがもう少しばかり感想を言ってくれると嬉しかったなぁ、と今更ながらに思ってしまった。
今日はどんな魚を売っているかしら。
どんな魚でも煮付けてしまえば良いらしいから、お手頃なものを選んで買おうと決める。末の息子が帰って来るまで毎日が煮付けになるが、それは別に構わない。
ああ、そうだ。ちゃんと今の格好がおかしくないか確かめなければならない。夫がいつ、こっそり見に来るか分からないから毎日の身支度は欠かさないようにしている。けどもそれは子供達が皆、外へと行ってしまった後のこと。だが、よくよく考えれば対して変わっていないことに気づいて、あや子はほっと胸を撫で下ろした。
それから瞬きの間に数日が過ぎていった。
一体いつ帰ってくるのかと思いながら、あや子は今日も変わらずに身支度を整える。そして仏壇に手を合わせて、夫におはようございます、と声をかける。
今日は帰って来るかしら。それとも迷子にでもなっているのかしら。ちょっとお迎えにいってきてくださらない。だなんて。
あや子はよいしょと冷えてきたせいで痛みを感じるようになってきた膝をさすりながら立ち上がり、そして朝食を作り始める。
味噌汁は慣れた二人分の量。昨夜に作った魚の煮つけ。味付けをしていなければ、毎日ご飯を食べに来るようになった猫の家族達にでも与えられるけども、それは難しい。とはいえ、おかげで毎日の献立を考えることはなくなったので、ちょっとばかり楽になったのは良いことだ。
それから付け合わせに青菜のお浸しを作り、漬物と炊いたご飯を用意すれば終わり。
ほら、立派な朝食が出来上がった。
昼食までの時間、あや子はのんびりとテレビを見て、お茶を飲む。
年々と食べられる量が減ってしまっているせいで、中途半端に残ってしまった朝食の残りを昼食に食べるつもりだ。そして夕食はいつも通り魚の煮つけを作れば終わり。
おや、なんて綺麗なお菓子。都会の方のお菓子はずいぶんときらきらとしているし、とても甘そうだ。けども食べるなら餡子がたくさん入ったお饅頭が良い。
どうも洋菓子特有のあの重さがどうしても合わなかったことを思い出す。
土産として持ってきてくれたというのに本当に申し訳ないことをしたけれども、孫が変わりに食べてくれたから良しとしよう。
もう少ししたら、また部屋の掃除をしよう。
お布団はもう干して、いつでも使えるようにしてある。部屋だって毎日掃除をしている。後は何をしておけば良いだろうか。
あや子は少しだけ身体を傾ける。
前よりもどうもうまく考えることができなくなったせいか、こう、ぱっと、しなきゃいけないことと言うのがどうしても思い浮かばない。
ううん、何か他にあっただろうか。
ぼんやりと考えていると、ふと、庭先の方から誰かの声がうっすらと聞こえてきた。
あや子はいつのまにかずいぶんと傾いていた身体を戻し、あらあらいけないと一人で恥ずかしくなりながら、よいしょと立ち上がった。
一体どなたがいらしたのかしら。
あや子は縁側に向かい、そして、そこにいた人物を見て、ゆっくりと久方ぶりに微笑んだ。
「おや、お帰り」
ずいぶんとくたびれた服を着ていた末の息子は、ぐっと何かを耐えるように顔をしかめる。
そして小さく、ただいま、と返してくれた。
愛しい人に先立たれ、我が子達は去っていって幾年月経ったか。一人の老婆は今日も身支度をする。いつでもあの人が様子を見に来ても良いように。それと我が子の一人がそのうち帰ると、手紙を寄越したのだ。出迎えの準備をしていると、老婆の耳に懐かしい声が庭先から聞こえた。「おや、お帰り」




