3 姉ちゃん
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けたたましく何度も鳴るチャイムの音に体がビクリとした。
一瞬、――まだ紗枝がいるのか――とうんざりした気持ちになったが、窓から差し込む光はなく、すっかり日が暮れてしまっていることに気がついた。
いつの間にか、ボクは眠ってしまっていたようだった。
慌てて玄関へ行くと、チェーンに阻まれ薄く開いたドアの向う側から母さんが怖い顔で睨みつけていた。
「ごめん……」
この時は、普段しないドアチェーンまで掛けてしまっていたことを、すっかり忘れていた。
慌ててチェーンを外し、母さんを迎え入れると、「何でチェーンなんてしてるの! 紗枝ちゃんとえっちーことでもしてたんじゃないでしょうね?」と怒鳴られてしまい、何とも言えない苦い気分にさせられた。
それから爺ちゃんと姉ちゃんが帰宅して、家族4人で食卓を囲んだ。普段通りの何ら変わらぬ家族の団欒を過ごしたつもりだったが、食後すぐに姉ちゃんが部屋へ入って来た。
「少し様子が変だったけど、大丈夫?」
姉ちゃんは、ベッドに寄り掛っているボクの隣に座ると、その慎ましい胸にボクの顔を押し付けるように、また包み込むように抱きしめた。
柔らかでひんやりとした感触が心地良い。
姉ちゃん――高梨公美。2歳上であり、現在、同じ北頭学院高等部に通う3年生。同校の生徒会長でもある。父の妹である今の母さんの娘であり、正確には従姉だったが、幼い頃から一緒に暮らしていたというのもあって、今となっては違和感なく姉であった。
いつもなら、その姉ちゃんの抱擁などウザいだけであり、すぐ振り払ってしまっているのだが、今日だけはそのまましばらく姉ちゃんの心音を聞いた。
「あら、今日の 悠斗はイイ子ね」
ニチャっとした姉ちゃんの笑顔はイラっとするが、お陰で少し楽になった。
「ありがとう」
「……ぁん!? まあ、ホントに素直じゃない。どうしたの?」
ボクは姉ちゃんに言ってしまって良いものかと――迷った。姉ちゃんに知られれば大事になりそうな気がした。おそらくすぐに爺ちゃんや母さんの耳にも入ってしまうだろう。騒動は望むところではない。出来れば穏便に済ませたかった。
ただ幾ら考えても、一人で的確な答えを導き出せるとは思えなかった。おそらく紗枝は明日も同じことを言ってくるに違いなかったからだ。
「実はね――――」
そして結局、今日の出来事を姉ちゃんに話した。
語りながら自分でも驚くほどの紗枝への拒絶感を覚えているのに気が付いた。
すべてを話し終えた後、姉ちゃんは嫌悪を隠しきれないといった様子で顔を歪ませた。
「ごめん。ボクもまだ上手く整理できていないんだよ」
「いいのよ。つまりあのバカ女から別れ話を切りだされたと思ったら、堂々と二股宣言されて、それを 悠斗に認めろと、あのクソ女が言ったのね……。ちょっと母さんに言ってくるわね」
昔から姉ちゃんはなぜか紗枝を嫌っていた。
――どこが――というわけではないらしく、――なんとなく――なのだそうだ。ボクにも交際をやめるように言ったことがあった。さらに母さんにまで紗枝の悪口を言っていたが、ボクと紗枝が仲が良かったこともあって、あまり相手にされていなかった。それどころか「アンタのブラコンの方がヤバいわよ」と嗜められていた。
「待って……、まだ爺ちゃんと母さんには言わないでくれるかな」
「家族ぐるみで付き合ってるんだから、情報は共有しておいた方が良いと思うんだけど」
一度立ち上がった姉ちゃんだったが、目を細めてジッとボクを見つめた後、先程よりさらに密着して座った。そしてパジャマのポケットからスマホを取り出すと、眉間に皺を寄せてポチポチと弄り始めた。
「それで……。あのバカ女が言った聞きなれない言葉というのは『コンバージョン』と『メタモア』だっけ?」
どうやら姉ちゃんは、紗枝が言った妙な言葉について調べているようだった。
「うん。言い間違えているんじゃなかったら、『コンバージョン』じゃなくて、『コンパージョン』だったんじゃないかと思う」
「フム……」
しばらくスマホを睨みつけるようにしていた姉ちゃんだったが、フゥと大きく息を吐いた。
「おそらくだけど、バカ女が感化されたのは、たぶんコレね」
とボクにスマホを手渡して来た。
『ポリアモリー』―――― 簡単に言うと、互いに同意の上で多重交際をすることのようだ。読み進めると、紗枝が言った『コンパージョン』や『メタモア』などの聞きなれない言葉も出てきた。また嫉妬などの問題点についても書かれてあるが、とにかく知性と理性が大事とのことらしい。
「……」
「しかし、これ……。あのバカ女が出来る芸当かしらね」
紗枝は少しキツイ顔立ちから、黙っていれば知性的にも見えなくはないが、どちらかと言えば感性で動いてしまう方だ。言ってしまえば短絡的だ。また短気であり理性的とも言い難い。今回のこともしっかりと考えて起こした行動ではなく、衝動的なものなのだろうと予想がつく。
「おそらくだけど、これ……、誰かに都合良く吹き込まれたんでしょうね。ホント、バカだわ」
姉ちゃんはヤレヤレとばかりに首を振る。
「まあ、たぶん、そうだろうね。おそらくだけど、その遠山とかいう先輩かな?」
「あー、アイツね……。それで、悠斗はもちろん別れるんでしょう?」
姉ちゃんは遠山のことを知っているようだった。
「……ん~、まだ、ちょっと迷ってるかな」
まずは康生に事の次第を報告してから結論を出したいという気持ちもあった。
「何を言っているの! 堂々と浮気宣言した女なんて、きっぱり別れなさい!」
「つまりさ、このポリアモリーって、ボクも他にカノジョをつくってもOKってことだよね?」
姉ちゃんの顔があまりにも神妙だったので、つい軽口を叩いた。
「悠斗! バカなこと言わないの!」
叱られた。
「じょ、冗談だよ」
「悠斗、よく聞いて! あのバカ女は悠斗と遠山という二人の性的パートナーを持ってしまったわけでしょ? もしその遠山が性病を持っていたら、悠斗にも伝染るということなのよ。仮に遠山が病気を持っていなくても、遠山にもバカ女以外の性的パートナーがいるってわけでしょ。そのパートナーが病気を持っているかもしれないし、そのパートナーのパートナーが病気を持っているかもしれない。当然、こういう考え方をする人は――性病検査をきちんとしてる――なんて言うかもしれないわ。けれど、悠斗はバカ女のパートナーのパートナーのパートナーのパートナーのパートナーのパートナーのパートナーのパートナー……。もはやどこの誰とも判らない人ね。そんな人が信じられるの? その中の誰か一人でも性病を持っていたら、巡り巡って悠斗も罹患してしまう惧れがあるのよ。わかる? 性病を甘くみてはいけないわ」
めっちゃ叱られた。
「うん、バカなこと言った。ごめん……」
「判れば良いのよ。ただ明日すぐに性病の検査に行きなさい。HIV、梅毒、クラミジア、淋病、マイコプラズマ、ウレアプラズマ、ヘルペス、トリコモナス、カンジダ、HPV。フルコンプで予約しておくわ。そしてバカ女とはきっぱり別れてきなさい」
姉ちゃんが性病に詳し過ぎて、逆に心配になる……。
「えっ……と、まだ紗枝とはそういう関係じゃないけど……」
自分でそう言った後、胸がキリリと痛んだ。無意識に――まだ――などと言ってしまったことに、 現実を受け止めきれていない自分に気がついたからだ。
もし今日のことが、紗枝の気まぐれで……、或いは気の迷いで……。明日、紗枝が――遠山と付き合うこと――を撤回したとしたら、ボクはこれまで通り紗枝と付き合っていくことが出来るだろうか? アノ母親と重ねてしまった紗枝を受け入れることが出来るだろうか?
たぶん、無理だ。
「あら、そうだったの! なら良かったわ。さっさとあんなバカ女のことは忘れて、新しい恋を見つけなさい。お姉ちゃんが恋人になってあげても良いわよ」
姉ちゃんは満面の笑みだったが、それは絶対にない。




