4 パンク修理とチーズ
そこからしばらく、隣を流れる川を眺めながら黙々とした時間が続いた。
そして今日もまたつい目が行ってしまうのが、川原のモスグリーンのテントである。落ち着きなくちょこまかと場所を移動しているが、一体、何の意味あるのだろう……。
駅のすぐ側にあるキリシマ書店へ行くには、橋を渡ってから土手道に降りた方が近いはずだが、 霧島先輩はそのまま国道を進んだ。さらに商店街入口も通り超え、国道沿いの広い庭がある一軒家へ入っていった。
瓦屋根の日本家屋。自宅はキリシマ書店と聞いていたが、住んでいる場所のは、また別だったのだろう……とこの時はそう思っていた。
「では、100円ショップに行ってきますね」
国道沿いから商店街へ行くには、途中に脇道なく、かなり大回りしなければならなかった。だから自転車で行くつもりだったのだが、霧島先輩に止められた。
「いえ、こちら……です。どうぞ」
霧島先輩が指し示したのはご自宅の玄関だった。
一瞬戸惑いはしたが、よくよく考えてみれば、見知らぬ男が庭で自転車のパンク修理をしていたら、家の人も驚くだろう。ならば挨拶ぐらいはしておいた方が良いのだろうと、素直に霧島先輩の後に続いた。
霧島先輩がスライド式の玄関を開けると、古い感じのタイル敷の和風の土間があった。すぐ目の前に二階へ昇る階段があり、――ワンワン――と犬の声が聞こえた。おそらく先日あったあの陽気なワンちゃんだろう。
誘われるままに玄関へ入ると、霧島先輩は玄関のすぐ脇にある鉄製の防火扉のようなドアを開けた。
「こちらです。えっと……、靴を持って来て……ください」
ボクは頷いて、自分の靴と霧島先輩の靴を両手に持った。すると、「あっ、私のは……結構です」と靴を取られてペコペコ頭を下げられた。
とびらの先が蛍光灯の光で浮かび上がると、そこは秘密基地へと続く隠し通路のような、細長い土間廊下だった。
靴を履き、ひたすら真っ直ぐな通路を歩きながら、ボクは少しドキドキしていた。そして暖簾を潜って出たのは、キリシマ書店のレジ裏だった。
「ひゃー。な、なんだい?」
後ろから突然人が現れて驚いたのか、ボクもよく顔を知っているキリシマ書店のお婆さんが軽い悲鳴を上げた。
「おばあちゃん、大丈夫だから……」
すると霧島先輩は、あたふたしていたお婆さんの肩に手を置いて、耳元でゴニョゴニョ何かを言うと、お婆さんの顔がひょっとこに変化した。
「そっ、そうかい。……孫が世話になったね」
何に驚いているのか、口を尖らせたままのお婆さんがボクに向かって言った。
そしてそのまま書店の中を通り抜け見慣れた商店街に出た。
「何だか、凄い体験をさせて頂いた気がします」
ボクは本当に感動していた。商店街と国道はそこそこ離れている。家一軒で埋まる距離とは考えもしなかった。
「うちは……うなぎの寝床……、すごく細長いん……です」
川原で会った時から思っていたのだけれど、霧島先輩の声はとても小さい。それに言葉の途中に必ず空白がある。ずっとオズオズしている感じだけど、よくズケズケした姉ちゃんと付き合えるものだと思う。
キリシマ書店からその斜向かいにある100円ショップまでは一分と掛からない。
この100円ショップは、その昔、アノ母親の実家があった場所だと聞いている。当然ボクが生まれるよりずっと前の話で、どんな場所だったかは、古びた一枚の写真でしか知らない。
100円ショップではパンク修理セットの他、小さなモンキースパナを買った。空気入れは霧島先輩の自宅にあるとのことだ。
そしてまたキリシマ書店へ戻る。今度はお店の入り口からである。
普段、本を買いに来た時は一切表情を変えない不愛想なお婆さんという印象だったが、今日はなぜか優しい眼差しでボクを見ていた。と言うか、感極まっている様にさえ見える。
「おかえり……。アンタだったんだね~」
声のトーンまで違う。
えっ、何が、アンタだったんだ? とは思ったが、霧島先輩に「どうぞ」と促され『staff only』と書かれたレジ奥の暖簾を潜った。そこは先程通ってきた秘密の隠し通路である。
そして再び鉄製のドアから家の中へ入り玄関から外へ出た。
霧島先輩に、空気入れと水が入ったバケツ、そしてボロ布を用意してもらっている間に、ボクは早速パンク修理に取り掛かった。
まずはナットとリムナットを外し、パンク修理セットに付属していたレバーをつかってタイヤからチューブを引き出した。
そして再び先程外したプランジャーとナットを取り付け、そこに霧島先輩が持ってきた空気入れで空気を入れた。
膨らんだチューブを水の入ったバケツに入れると、一ヵ所だけ空気が漏れている部分を発見できた。
もう一度空気を抜いた濡れたチューブをボロ布で拭いて、傷がある部分をペーパーヤスリで均し、ゴムのりを塗布して、しばらく待ってから修理パッチを貼る。
チューブを再びタイヤの中に戻し、100円のパンク修理セットの中にバブルと虫ゴムも付属していたので、それも新品に取り換えておいた。
100円でこれだけのことが出来るのだから、100円ショップはやっぱり偉大だと思う。
「出来ましたよ」
空気をいれ終えたボクは霧島先輩に――もう大丈夫――と伝えるように笑顔を向ける。
「……ぁん!? ありがとう……ございます」
「それでは、ボクはこれで。明日からもボランティア部、よろしくお願いします」
ボクは自転車に跨って帰ろうとしたが、「待って下さい」と自転車を掴まれた。
「どうぞ、こちらで手を……洗って下さい」
そう言われて手を見れば、確かに真っ黒に汚れていた。
霧島先輩に先導されて再び玄関の方へ引き返すと、今度は階段の上へ案内された。
そして洗面所で手を洗っていると、後ろから川原で会ったあの陽気な犬が飛びついて来た。やたら興奮しているようで、千切れんばかりに尻尾を振っていた。
「す、すみません……。ダメよ、チーズ」
霧島先輩がボクに頭を下げて犬を叱る。チーズとはこの犬の名前のようだ。
チーズは、前脚を地につけてお尻を高く構えると、取り押さえようとする霧島先輩をサッと躱し、ヒットアンドアウェイを繰り返しながら駆け回っていた。昨日の河川敷で見た光景とほぼ同じだ。何となく霧島先輩とチーズの日頃が窺い知れる。
「どうぞ……、こちらへ。お茶を……用意しました」
手を洗い終えると、霧島先輩からリビングへ案内された。ほぼ初対面であり、さすがに図々しいかと思ったが、ボクに纏わりつくチーズが可愛くて、ついそのままリビングへ入った。
リビングにはL字の大きなソファーがあった。そこへ座るよう促されると、霧島先輩はコーヒーとケーキをガラス張りのテーブルの上に置いた。
「今日は、本当にありがとう……ございました」
霧島先輩は直接絨毯の上に座って頭を下げていたのだが、その視界の向う側。リビングの奥にある部屋からチーズとはまた別の犬がピョコンと顔を出した。
犬種はチーズと同じようだが、こちらはどことなく気品があった。白地に茶色い顔をしているのは同じでも、顔の模様の左右の均整がとれていて、口元と目の上の毛が少し長くモハモハした感じだ。また目が大きく両耳が倒れていた。顔つきもチーズより穏やかに見える。
「もう一匹いたんですね」
「はい、ペアー……ます」
相変らず、霧島先輩の声は小さいが、どうやら2匹目のこの犬の名はペアーというらしい。
ペアーはトコトコと歩いてボクの前まで来ると、グッと背伸びするようなポーズをとってから、またスタスタとリビングの奥へ帰っていった。今のは挨拶だったのかもしれない。
ペアーは何だかお疲れの様子だった。チーズもペアーを追い掛けて奥へと引っ込んでいった。
「今、赤ちゃんが……ですよ」
「えっ……」
赤ちゃん? つい霧島先輩のお腹を見る。いや誤解したわけではない。当然わかっている。つまり仔犬がいるということなのだろう。
見たい! めっちゃ見たい! だが出会ったばかりの人の家へ来て、そんなことを言うのはさすがに図々しいだろうか……。
「もうすぐ三ヶ月なんです……見たいですか?」
「是非!」
ボクはつい食い気味で答えてしまっていた。




