ep.6 ユウ君の赤ちゃん…… ~side紗枝
休日明けの朝、もう一度だけユウ君ときちんと話し合おうと、いつもの様に高梨家の門の前に立っていた。
昨日はずっと項垂れていた。
あの後、着信があったコウちゃんの番号に何度も掛け直してみたが『……電源が入ってません』という悲しいアナウンスが流れるだけだった。
寝不足の所為か、体が重く体調も芳しくない。
ユウ君どころかコウちゃんまでも失ってしまいそうな状況を何とか打破しなければと、意を決して、今ここに立っている。
ユウ君は丁度玄関から出て来るところだった。なぜかガレージの方に廻って自転車を押して来た。
「ユウ君、おはよう」
わたしは以前と変わらぬ朝の挨拶をする。
「なに?」
けれどユウ君の目はまるで路傍の石を見るかのようだった。幼い頃の感情がないあの目を思い出してしまう程に。一瞬背筋に冷たいものが走るが、ここで気おくれしている場合ではなかった。
「あ、あの、一緒に学校へ行かないかな? ……と思って」
少し動揺してしまって、洗礼されたお嬢様言葉ではなく、家族と話すような喋り方になってしまった。
「あぁ。ボクは自転車で行くから」
「コウちゃんに、わたしと別れるって言ったの?」
「言ったよ」
「……わたしも昨日コウちゃんと話をしたわ。コウちゃんは別れるべきじゃないって言ってたわよ」
嘘をついた。だけど結果的に嘘じゃなくすれば良いだけの話。今はとにかくユウ君を説得しなければならなかった。堅物のコウちゃんを説得するより、ユウ君に認めて貰う方が難易度が低い。
それに……三人でいることを、誰よりも強く望んでいたのはユウ君だった。
ここでわたしは伝家の宝刀を抜くことにした。
「わたしね。ゆくゆくはコウちゃんも誘いたいと思っているの。そしたら、また昔みたいに3人で仲良く「なあ、紗枝はハーレムでも作りたいのか?」出来たらと思……」
いつも黙ってわたしの話を聞くユウ君が、耳障りであるかのように、途中で口を挟んだ。ユウ君に限って、こんなことは初めて……いや、モモがいた時にも一度あった。
ユウ君は少し変わってしまった。そう言えば、2学期に入ってからは、口癖だった――そうだね――を一度も聞いていない気がする。
「ハ、ハーレムなんて……そんな。ただ、わたしは、また3人で……」
「それとこれとは話が別だよ。そもそも、そんな話に康生が乗るはずがないでしょ?」
「だから、そこはユウ君が……」
「いや、ボクは無理だ。ハッキリ言って、今の紗枝は気持ち悪い。話をするのも嫌だよ」
わたしは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けて立ち尽くしていた。気づくと、いつの間にかユウ君の姿は消えていた。
「な、なによ……、なんなのよ」
露骨に避けられていることに憤りを覚えるし、――気持ち悪い――とまで言われてしまったことも傷ついた。正直、もうどうでも良いとすら思ってしまった。
「もういい。そんなにわたしとの別れたいなら、別れてあげようじゃない。どうせ、すぐ縋ってくるんだから。せいぜい後悔するといいわ。ユウ君が泣いて謝って来るまで、絶対許さないんだから」
わたしは一人歩いて駅へと向かった。もう二度とユウ君を迎えにも行かないと決めた。
そして駅構内に入った時のことだった。
下腹部に急激な痛みを感じたわたしは、その場に蹲って動けなくなってしまった。
気が付いた時、わたしは病院のベッドに寝ていた。ベッド脇にはお母さんが座っていて、疲れた目でわたしを見ていた。
「紗枝、大丈夫?」
体は少し重かったが、先程襲って来たような下腹部を圧迫するような痛みはない。
「うん」
「病院の先生が仰っていらしたけど……。あなた妊娠してたのね」
わたしは驚いて目を見開いた。青天の霹靂。寝耳に水。母は何を言っているのだろうとすら思った。
「まさか、気が付いていなかったの? ふう、もうすぐお父さんが来るから、……少し待ちましょうか」
わたしは何も考えることが出来ず。ただ肯定するように恐る恐る首を降る。
それから父が憔悴した顔で病室へ入って来た。「こんな場合、近所の病院より自宅から離れた病院の方が良かったんだがな……」と零す。救急搬送されてしまった為、ここは近所の宮田総合病院である。
「妊娠6週目だそうだ。悠斗君はこの事を知っているのか?」
知っているはずがない。わたしだって、今、知ったばかりなのだから。
「体調がおかしかったり、つわりとかなかったの?」
つわりか……? あー、アレはそうだったのかと思い出す。サッカー部の合宿中、胃がムカムカしたり、嘔吐することがあった。
「とにかく、すぐに悠斗君に電話しなさい」
イライラする父。
「……まだ学校じゃないかな?」
「ちっ、紗枝がこんな状態だというのに、悠斗君は呑気なものだな。それにしても悠斗君は何てことをしてくれたんだ。紗枝はまだ学生だぞ……こんな失敗を……」
どうやら父は、ユウ君の子供と思い込んでいるようだった。実際、ユウ君とはそんなことはしていない。お腹の中の子の父親は間違えなく遠山先輩である。
どうしよう。言わなきゃ……
「で、でも悠斗君と紗枝は結婚するんだし……」
母が父の怒りを宥めようとするが、父はさらに激昂した。
「当たり前だ。娘にこんなことをして、結婚しないで済まされるわけがないだろ。とにかく、赤ちゃんが出来たからには、産むにしろ、堕すにしろ、悠斗君にはきっちり責任を取って貰う」
えっ? 父の言葉を聞いているうちに、暗い心に光が射し込んだような気がした。
「わかりました。高梨さんに電話してみますね」
もし赤ちゃんが産まれたら、わたしはユウ君との関係が元に戻るかもしれないと思えた。ユウ君とだったら、赤ちゃんも育てられそうな気がする。ユウ君はなら「お腹の中の子を殺すなんてかわいそう」と言うかもしれない。「僕たちで育てます」って言ってくれるかもしれない。
「おい、紗枝、おまえ、なに笑ってるんだ?」
「ユウ君の赤ちゃん……」
「そんなことは判ってる。今晩、直接、高梨さんところへ行くぞ」
ユウ君のお母さんと連絡が付かなかったこともあって、その日の夕方、父と母と共にユウ君の家を訪ねた。
父がインターフォンを押すと、間も無くユウ君が玄関先に出て来た。
「どうかしましたか?」
「先生と咲百合ちゃんは居るかな?」
ユウ君のお母さんと幼馴染だった父は、ユウ君のお母さんを咲百合ちゃんと呼ぶ。父は一瞬だけ怖い顔でユウ君を睨み、思い直したように笑顔を作った。目は笑っていない。
「それが……「祖父と母は外出していて、一週間程帰りません。お話があるのなら、どうぞ上がってください。食事中でしたが」」
ユウ君が返答しようとした時、後ろから姉の公美さんが顔を出した。見下すような冷たい眼をした彼女を、わたしは昔から苦手だった。わたしとユウ君が恋人になった時も、まるで敵を見るような眼差しを向けられた。
「……話づらいことなんでね。ちょっとお邪魔させて貰うよ」
靴を脱いで上がっていく父の後を、わたしは母と並んで進んだ。そして父は勝手知ったる他人の家とばかりにソファーにどっかり座り、その対面にユウ君が座るよう促した。
「本当は先生や咲百合ちゃんがいらっしゃる時に話した方が良いのだが、緊急でね。とりあえず確認だけはさせて貰うよ、悠斗君」
「はい」
何のことか判らないと言った顔したユウ君が返事をする。
「単刀直入に言うよ。紗枝が妊娠してたよ……」
「ふぇ?」
「妊娠6週目だそうだよ」
それにはさすがのユウ君も目を見開いて驚いていた。
「何とか言ったらどうだい?」
「はあ」
「――はあ――じゃないだろ。きちんと責任は取ってくれるんだろうね?」
「えっ? ボクがですか?」
「おい、その態度はないだろ? 紗枝はまだ高校生だぞ。こういう場合、何にせよ、まずは親である私たちに、きちんと謝罪すべきじゃないか?」
怒り任せに立ち上がった父は、呆然としていたユウ君を睨みつけるように見下ろしていた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。ボクと紗枝は2学期の初めに別れてますよ」
「別れてないよ」
わたしは咄嗟に言った。
「……そ、それでも、別れていたとしても、妊娠6週目なんだ。君は自分がやったことの、その責任をとるべきだ」
その時、キッチンからコーヒーを持って来た公美さんが、ユウ君の隣に座ると、「どうぞ」と言わんばかりに立っていた父を座らせた。
「おじさん、紗枝は妊娠6週目で間違えないんですよね?」
公美さんがゆっくりと落ち着いた雰囲気で父に確認する。
「医者がい言うには、そ、そうだが……」
「ならば妊娠したのは7月の中旬ってところかしらね?」
「まっ、そ、そういうことになるだろうね」
「なら悠斗が紗枝を妊娠させるのは不可能じゃないかしら?」
「ん? どういうことだい?」
「だって、悠斗は7月の初めから丸2か月間、日本にいなかったんだもの」
確かに春先からずっとユウ君はラグビーばかりで、ゴールデンウィークも夏休みも放っておかれた。
父の――信じられない――というような視線が突き刺さり、わたしは堪え切れずに顔を背けた。
「それにボクは紗枝とそういった行為はしてませんよ」
「はっ?」
「だから、その、紗枝と肉体関係はありません。何もないです」
「……」
そこから公美さんが、わたしが川原でユウ君に提案したポリアモリーことから遠山先輩のことまで、恐怖を覚える程、詳しく調べ尽くしていた。わたし自身ですら知らなかったことまで、さも当事者であるかのように語っていった。
それを聞いて、呆然とする父と母。
「な、なら紗枝のお腹にいる子供の父親は、悠斗君ではないのか……?」
「そうですよ。逆に悠斗は、紗枝の裏切り行為のせいで、傷つけられているくらいです」
公美さんはまるで汚物を見るかのような目をしていた。
「裏切ってなんか……」
「紗枝。あんたまだそんなことを言ってるの? あんたはあんた自身のことなんだからお腹の子供の父親が誰かぐらい判っていたでしょ? それなのに、よくもまあ図々しく、ウチに来れたものね! これ以上、ウチの悠斗を傷つけないで!」
「イヤャャャャャャャャーーーーー あんた、何してるのよ!」
気が狂ったように泣き喚く母がわたしに襲い掛かって来た。そんな母を父が必死で抑えつけていた。
「そ、そうなのか。紗枝、何とか言ってくれ」
「そう言うのはご自宅でやって貰えますか? とにかく悠斗はまったくの無関係なので、そろそろお引き取り下さい」
父は、来た時の勢いがなくただオドオドと、発狂する母を押さえたまま玄関先まで歩いた。
ユウ君がパパになってくれるかもしれない、という一縷の望みも途絶えた。
玄関のドアが閉まり掛けられたカギの音が、まるで全てが終わったかのような、そんな音に聞こえた。