13 これ以上ボクに出来ることは何も無い
月曜日の朝。制服に着替え二階にある自室からリビングへ降りていくと、小麦粉を焼いたような香ばしい匂いが漂っていた。姉ちゃんがキッチンで何やらしているようだった。
「おはよう。爺ちゃんと母さんはもう出たの?」
母さんはイタリア旅行。爺ちゃんは東京と聞いている。ふたり共、今週一杯、遅い夏休みだそうである。
「今朝早くに出掛けたわよ。今日からしばらく二人っきりね」
朝食は、朝から姉ちゃんが焼いたバターたっぷりのスコーンと、……味噌汁だった。
えっ? と一瞬躊躇ったが、ボソボソとした甘いスコーンと味噌汁の塩気と汁気が、意外にマッチしていた。
「今日、一緒に学校へ行く?」
「いや、ごめん。今日から自転車で通うことにしたんだ」
もともと学校までの距離は大したことない。川沿いの土手道を下流へ向かってただ真っ直ぐ進めば学校に到着する。校門まで少し急な登坂があるが、そこは自転車を押して上がれば問題ない。
「ユウ君、おはよう」
ガレージから自転車を出していると、門に寄りかかるようにして、紗枝が立っていた。
「なに?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「あ、あの、一緒に学校へ行かないかな? ……と思って」
喋り方もいつもの花子風ではなく、幼い頃に戻ったようだった。
「あぁ。ボクは自転車で行くから」
「コウちゃんに、わたしと別れるって言ったの?」
「言ったよ」
「……わたしも昨日コウちゃんと話をしたわ。コウちゃんは別れるべきじゃないって言ってたわよ」
「……」
正義の塊のような康生がそんなことを言うはずがない。それを一番知っているのは、物心つく前から幼馴染として過ごした紗枝のはずなのに……。
「わたしね。ゆくゆくはコウちゃんも誘いたいと思っているの。そしたら、また昔みたいに3人で仲良く「なあ、紗枝はハーレムでも作りたいのか?」出来たらと思……」
――他人の話は最後まできちん聞きなさい――と幼い頃から爺ちゃんに、家法のようによく言われていたことだった。だから今まで他人が話している最中に口を挟むようなことをしたことはなかった。だけどボクはこれ以上は紗枝の話を聞くに堪えなかった。
「ハ、ハーレムなんて……そんな。ただ、わたしは、また3人で……」
「それとこれとは話が別だよ。そもそも、そんな話に康生が乗るはずがないでしょ?」
「だから、そこはユウ君が……」
「いや、ボクは無理だ。ハッキリ言って、今の紗枝は気持ち悪い。話をするのも嫌だよ」
それだけ言うとボクは自転車に跨った。もうこれ以上は付き合い切れなかった。
学校の駐輪場に自転車を停めながら時計を見ると、自宅からは30分程で到着したようだった。少し急げば20分でもいけそうな気がする。
電車通学の場合、自宅から駅まで歩いて10分。電車の中で10分。学校最寄り駅から学校まで10分なので、通学時間に大差はない。
これまで電車で通っていたのは、紗枝に合わせていたからであり、これからはその必要もなくなった。天気にもよるが自転車通学も悪くない。
「おはよう」
「むむ、高梨氏! 拙者を置いてけぼりにして、酷いでござるぞ!」
園田に挨拶すると、早速恨み言を聞かされた。
「ごめんね」
ハハハと笑って誤魔化し、途中自販機で買ったコーラを園田に渡していると、担任が教室へ入って来た。
「おはよう。先週末に入部届を出した者は、各自、各部活からの連絡に従うこと。それから入部届を出していない高梨は明日、火曜日の放課後にボランティア部の部室へ行くこと。説明会があるそうだ。以上」
担任はそれだけ言うと、さっさと教室を出て行った。どうやら入部届を出さなかったのはボクだけだったようである。
四列前に座っていた花子が、驚いたような顔で振り返り、非難するような目でボクを凝視していた。確かに怠惰だったよね。だらしなくて、スイマセン。
その日は滞りなく授業が終わり、何事もなく帰路に着いた。
自転車での通学は思った以上に快適だった。待ち時間もない。慌てる必要もない。川原を吹く風は心地良い。そして紗枝とも夏穂とも遭うことがない。自転車通学は最高だ。
ふと川辺の方を覗くと、先週末に見たモスグリーンのテントはまだあった。少しだけ下流へ移動したようだ。
自宅へ帰り玄関の扉を開けると、カレーの匂いが漂ってきた。黄色いエプロンを着けた姉ちゃんがキッチンで料理をしていた。今朝もそうだが、母さんがいないこともあって、姉ちゃんはやけに張り切っている。
「今日は早いんだね。今晩はカレー?」
北頭学院高等部の生徒会長である姉ちゃんの帰りはいつもボクより遅い。
「今日は大葉と梅肉のいわしフライよ。明日は生徒会で少し遅くなると思うの。だから明日の分も作っておこうと思ってね」
大葉と梅肉のいわしフライは、母さんが作るご飯の中で、ボクが一番好きな料理である。大好物なのだ。随一。最高峰。旬であるこの時期限定のレジェンド級の料理と言っても良い。
だけれどもさ……暴力的なその香りを一度嗅いでしまうと、カレー以外は考えられなくなってしまうんだよね……。
テーブルの上にはすでに大葉と梅肉のいわしフライが並んでいた。
それを眺めながらボクは全力で万歳をする。
「やったー」
ちゃんと感情が込められていただろうか……棒読みになっていなかっただろうか……。せっかく姉ちゃんが気合を入れて作ってくれた料理に文句など言えない。
微粒子となって鼻の粘膜にこびり付いたカレーを気合で無視し、ボクは姉ちゃんと横並びに座って食事を始めた。そして大葉と梅肉のいわしフライを口に運ぶたびに「おいしい?」と訊かれ、「美味い」と答えるのを、何度も繰り返していた時。
突然、玄関のチャイムが鳴った。チャイムはいつだって突然鳴るのだけれど、今回は特別にそう言わせて欲しい。
すぐにインターフォンへと駆け寄った姉ちゃんだったが、振り返ってボクを見た顔は、先程までの満足気な顔とは裏腹に、不味いモノを無理矢理食べさせられたかのように歪んでいた。
「坂下さんのところのおじさんだわ……」
つまりは紗枝のお父さんということである。
「ボクが行くよ」
食事を中断して立ったボクが玄関先へ向うと、そこにはおじさんだけでなく、おばさんと、そして紗枝が立っていた。
おじさんはどうやらかなり怒っているようで、おばさんと紗枝は少し憔悴したような顔をしていた。
「どうかしましたか?」
ボクが首を傾げていると、おじさんは「先生と咲百合ちゃんは居るかな?」と被せるように言ってきた。
先生とは爺ちゃんのことで、咲百合ちゃんとは母さんのことである。
「それが……「祖父と母は外出していて、一週間程戻りません。お話があるのなら、どうぞ上がってください。食事中でしたが」」
ボクが答えようとする前に、後ろから顔を出した姉ちゃんが答えていた。 ――食事中でしたが――という嫌味をちゃんと付け加えるところが姉ちゃんらしい。
「……話づらいことなんでね。ちょっとお邪魔させて貰うよ」
おじさんはズカズカと家に入って来た。その後ろから紗枝とおばさんもついてくる。3人をリビングのソファーに案内すると、姉ちゃんがコーヒーを入れ始めた。
「本当は先生がいらっしゃる時に話した方が良いのだが、緊急でね。とりあえず確認だけさせて貰うよ、悠斗君」
向かい合って座ったおじさんは、ボクを射殺さんばかりに睨みつけながら、身を乗り出した。
「はい」
「単刀直入に言うよ。紗枝が妊娠してたよ……」
「ふぇ?」
ボクは驚いて、つい素っ頓狂な声が出てしまった。
「妊娠6週目だそうだよ」
おじさんはボクを睨みつけているが、紗枝はなぜか期待のこもった様な目でボクを見ていた。
「何とか言ったらどうだい?」
「はあ」
こんな時、どう言えば良いか判らなかった。たぶん、この場合――おめでとうございます――ではないのだろうけど……。ただ、なぜそれをボクに言わなければならないのか??
「――はあ――じゃないだろ。きちんと責任は取ってくれるんだろうね?」
「えっ? ボクがですか?」
すると鬼のような形相になったおじさんはソファーから立ち上がった。
「おい、その態度はないだろ? 紗枝はまだ高校生だぞ。こういう場合、何にせよ、まずは親である私たちに、きちんと謝罪すべきじゃないか?」
えっ、謝罪? まさかだが、紗枝は、お腹の中の子がボクの子供だとでも言ったのだろうか?
「ちょ、ちょっと待って下さい。ボクと紗枝は2学期の初めに別れてますよ」
「別れてないよ」
ここへ来て、初めて紗枝が喋った。
おじさんは一瞬困惑した顔をみせたが、自身を叱咤するように首を降り、もう一度毅然とした。
「……そ、それでも、別れていたとしても、妊娠6週目なんだ。君は自分がやったことの、責任をとるべきだ」
キッチンからコーヒーを持って来た姉ちゃんが、人数分をテーブルに置いて、ボクの横にスッと座った。
「おじさん、紗枝は妊娠6週目で間違えないんですよね?」
こうなった姉ちゃんは止まらない。目が座っている。長年家族として付き合ってきたボクには判る。もうボクが口を挟む余地は無くなった。
「医者がい言うには、そ、そうだが……」
「ならば妊娠したのは7月の中旬ってところかしらね?」
「まっ、そ、そういうことになるだろうね」
おじさんも指折り数えて答える。
「なら悠斗が紗枝を妊娠させるのは不可能じゃないかしら?」
「ん? どういうことだい?」
「だって、悠斗は7月の初めから丸2か月間、日本にいなかったんだもの」
おじさんは――ボクが日本代表U16に選抜されてオーストラリアに遠征していたことを思い出したようだ。それと同時に紗枝を見る。
紗枝は、おじさんの視線に堪えられないかのように、下を向いた。
「それにボクは紗枝とそういった行為はしてませんよ」
「はっ?」
「だから、その、紗枝と肉体関係はありません。何もないです」
まあ紗枝だけではなく、誰とも無いのだけれど……。
「……」
そこから姉ちゃんは、以前ボクが話した事のみならず、独自に調べたであろう遠山やサッカー部のことなど、事の次第をおじさんたちに言い聞かせるように語り始めた。
姉ちゃんの話を聞いて唖然とする紗枝の両親は、言葉を失ったかのように、ボクと姉ちゃんと紗枝の顔を何度となく視線を往復させていた。
「な、なら紗枝のお腹にいる子供の父親は、悠斗君ではないのか……?」
「そうですよ。逆に悠斗は、紗枝の裏切り行為のせいで、傷つけられているくらいです」
「裏切ってなんか……」
紗枝が唸るように反論する。
「紗枝。あんたまだそんなことを言ってるの? あんたはあんた自身のことなんだからお腹の子供の父親が誰かぐらい判っていたでしょ? それなのに、よくもまあ図々しく、ウチに来れたものね! これ以上、ウチの悠斗を傷つけないで!」
「イヤャャャャャャャャーーーーー あんた、何してるのよ!」
紗枝の母親であるおばさんは発狂して、隣に座る紗枝をバシバシ叩き始めた。それをおじさんが必死で止めるという修羅場が繰り広げられる。
「そ、そうなのか。紗枝、何とか言ってくれ」
おじさんの方は、今までの怒りから急転して、逆に冷静になってしまったようだった。
紗枝はただ黙ったまま俯いていた。
「そう言うのはご自宅でやって貰えますか? とにかく悠斗はまったくの無関係なので、そろそろお引き取り下さい」
姉ちゃんは、呆然自失の紗枝一家を追い出すように玄関まで押しやると、これ見よがしにカギをガチャリと掛けた。
「大変なことになったね」
紗枝は、この家で暮らすようになって初めて出来た友達であり、幼い頃からずっと一緒に過ごした幼馴染であり、ほんの少し前までは恋人だった。
「もう悠斗には関係のないことよ。それにしてもやっぱりあの娘はバカね。別れて正解だったわ。それより食事の続きをしましょ」
何となく姉ちゃんのあっけらかんとした態度に救われる。
紗枝はこれから大変だろう。冷たいかもしれないが、これ以上ボクに出来ることは何も無い。