12 康生との電話
ふと、そんな思い出に耽っていると、河川敷を飼主と元気に走っていた白い犬が、リードを引き摺りながら猛然とこちらに向かって来るのが見えた。
その後ろからは、ヘトヘトといった感じの女性も追って来ていた。
……が、ボクはその光景を驚愕の目で見ていた。いや見惚れていた。
走って来るその女性の胸が盛大に暴れていたからだ。
真の巨乳というのは揺れるのではなく、左右の胸はバラバラに、ランダムに、慣性を無視して、まさに暴れるのだということを、まざまざと見せつけられていた。
その見晴らしは絶景だった。見るつもりはなくても、つい目が吸い寄せられてしまっていた。
軽快に階段を駆け登って来た犬は、ボクのすぐ横を通り越して、そのまま川原道に出ようとしていた。交通量が多いわけではないが、土手道には車も通る。
ボクは咄嗟にガチャガチャと階段を跳ねるリードを掴んだ。
走っていた犬は急に止められたことを驚きもせず、――何か用?――とばかりに能天気な顔でボクを見上げていた。
白い体に顔だけが茶色。胴長短足でやたらムキムキした犬だった。片方の耳だけが折れているのもファニーというか、 コミカルというか、その可愛らしさに先程までの感傷的な気分も吹き飛んだ。
何を思ったのか犬はピョンと跳んで、座っているボクの膝の上に乗ってきた。
あまりの人懐っこさに、ついついボクはその犬を撫でまわしてしまっていた。犬は荒い息でハッハッと舌を出し、短い尻尾をブンブンと振っていた。とにかく動きが忙しない。
ふと視線を替えると、犬を追い掛けていた巨乳の女性が階段の下からこちらをジッと見ていた。驚いたように立ち尽くしているといった感じだ。長い髪を一つに束ね、印象的な程に白い肌の大人の女性だった。かなり背が高く、母さんや姉ちゃんも女性にしては大きい方だったが、彼女はそれ以上だった。胸部に関しては比べるのも烏滸がましい程の差が……。
「あっ、すいません」
ボクは、勝手に犬に触れていたことを詫びて、犬を抱きかかえたまま階段を降りると、棒立ちになっている女性に犬を差し出した。視線が下に向わぬよう努めつつ。
犬を受け取った女性は、深く頭を下げると「ア…………ス」と掠れたような声で言った。上手く聞き取れなかったが、それがお礼の言葉であることは態度で判った。
「じゃ、これで」
ボクは踵を返して階段を駆け登る。
後ろから「アッ」と声が聞こえて振り返るが、女性はただこちらを見ているだけで、その後に続く言葉はなかった。気のせいだと思い直し、手を振ってそのまま帰路についた。
自宅に戻ってからも、鼻歌を歌ってしまうくらい気分が良かった。思い出すのは河川敷で撫でた犬のことばかりである……と言いながら、走る寄る女性の映像が脳裏に過る。暴れる、暴れている、まさに暴乳……イカン、イカン。
そして翌日、土曜日の休日。
ボクはベッドから出ずに惰眠を貪っていたが、壁の掛け時計を目に入り慌てて跳び起きた。
康生には、あの後すぐ――話がしたい――とLINEを送っていたが、なにせ強豪ラグビー校で寮生活を送っている彼にはスマホを自由に扱える時間が限られていた。
その後――土曜日の10時半にこちらから電話する――という返信が来ていたのだ。
スマホを手に取って画面を開くと、園田から――酷いですぞ――と苦情が届いていた。一応――ごめんね――とだけ返信しておいたが、月曜日にコーラでも買って、ちゃんと謝ろうと思う。
また紗枝からも何十件というLINEと多数の着信履歴が残っていた……。
――ブロックしてしまおうか――
一瞬、そんな気持ちにさせられたが、紗枝は、ボクがこの家で暮らすようになって初めて出来た友達だった。他人との接し方や付き合い方がよく判らなかったボクを、康生と共にずっと支えてくれた恩人でもある。
恋人でなくなったからと言って、即ブロックしてしまうのは、やはり少し気が引けてしまうのだ。
とりあえず、このまま未読で放置することにした。
紗枝が憎いとか、仕返しをしたいなどの気持ちはなかった。ただただ面倒臭いだけである。
紗枝を思い出して溜息を洩らしていたところで、ボクのスマホが鳴った。10時半きっかりだった。
『もしもし。悠斗か? どうした?』
康生と話すのは、久し振り……というわけでもない。ラグビー日本代表U16のオーストラリア遠征、つまり夏休みの間はずっと一緒にいたのだ。
「あー、ごめんね。ちょっと折り入って話しておかなきゃならないことが出来てね……」
『おっ! もしかしてウチへ編入してくる気になったか?』
遠征に随行していた康生の学校関係者からも、転校して来るよう再三誘われたが、ボクはこの家を出る気はない。
「いや……、そうじゃなくて、紗枝のことなんだ」
『ん? 仲良くやってんだろ?』
「それがね、なんか良く判らないんだけど……、夏休みの間に他に恋人が出来たらしくてね」
『……』
電話の向こうで康生が絶句しているのが伝わって来る。
「それで……、あそこまでしてくれた康生には申し訳ないんだけど、紗枝とは別れることにしたよ」
『……なんだよ、それ……』
「紗枝は今、サッカー部のマネージャーをしているらしいんだけど、そこの先輩らしいんだ」
『おっ、おまえ、紗枝のことを傍でちゃんと守ってたのか?』
康生の声に怒気が混じる。
「い、いや、それ言われると、ゴールデンウィークも夏休みもずっとラグビー漬けだったからね。傍どころか日本にすら居なかったから、返す言葉もないんだけど……」
『……いや、すまん。おまえは悪くないな……すまん。とにかく判ったよ。ちょっと紗枝と話してみるよ』
ポリアモリーのことや、すでに遠山と肉体関係があることを康生に言うつもりはなかった。――たんにボクがフラれただけ――という話で済まそうと思っていたが、紗枝と話すと言うのなら、隠していても康生が混乱するだけだろう。
「それがね、紗枝は――別れない――って言ってるんだよね。ボクと恋人のまま、その先輩とも付き合いたいって。そしてそれをボクに認めて欲しいらしいんだ……」
『はっ? なんだ、それ……??」
「うん。よく判らないよね? ボクもあまり理解できない。ただ紗枝には紗枝の考えがあるらしくて……。本当言うと、最近、紗枝にはちょっとウンザリしている」
『……そ、そうか。紗枝、頭大丈夫か? 誰かに唆されてるのか?』
「何かの影響を受けてるんだと思うけど……、はっきりは判らない」
『……とにかく紗枝と話してみるわ』
「うん。……ただボクは出来ればしばらく紗枝とは関わりたくないと思っている」
『……わかった。寄りを戻そうとしたりはしない。ただ話を訊いてみるだけだ』
「忙しいのに悪かったね」
『あー、それと悠斗。やっぱラグビーは続けようぜ。オーストラリアで見たおまえ、やっぱ天才だよ』
幼馴染補正が掛かっているのか、康生の中でのボクの評価は高い。――胸の中にある熱い力――があったとしても、ボクのこの細い体では、強豪校で渡り合っていけるとは思えない。
「あはは。とにかく、そう言うことだから」
『あー判った。気を落とすなよ」
「うん。じゃ、また」
電話が切れ、ホッと一息つく。