1 思い出の川原にて
未だ暑さが残る秋の川原道を、ボク――高梨悠斗は、幼馴染であり昨年のクリスマスイブにひょんな事から恋人になった坂下紗枝といつもの様に手を繋いで学校から帰宅しているところだった。
ラグビーに明け暮れた夏が終わり、漸くこれから紗枝とも恋人らしいことが出来る……なんて考えながら歩いていると、突然、紗枝が立ち止まった。
手を繋いだままだったボクも、当然、引っ張られるように足を止める。
「少し話しがあるんだけど、良いかしら?」
そして紗枝に手を引かれたまま、川原道から河川敷へと続く階段を降り、設置されたばかりのパーゴラの下にあるベンチへと誘われた。
この川原は、幼い頃からボクら幼馴染が毎日のように遊んだ場所だった。近頃は綺麗に整備され、以前のような素朴さは無くなったが、ここにはたくさんの思い出が詰まっていた。
「わたしね、サッカー部の、遠山先輩に、告白されたの」
紗枝は繋いでいた手を離さずにボクと向かい合ったまま、神妙な眼差しで一語一語を噛み締めるように言った。
「……」
中学生の頃から紗枝が何度か告白されていたのは知っていた。そしてそれを断っていた――のも知っている。だから、それだけでは何も判らなかったのもあって、ボクは無言で続きを促す。
「それでね。わたし、遠山先輩と付き合うことにしたのだけれど、認めてくれる?」
「……」
花の蜜を求めて飛んでいる小さなハチの羽音がやけに耳につく。つまりボクは今、フラれているわけか……。
紗枝との付き合いは長い。道向かいに住む幼馴染であり、中学の最後のクリスマスからは恋人として付き合うようになった。そしてこの春、北頭学院高等部へ共に入学した。
「……そうなんだ。わかったよ」
ボクは出来るだけ平素を装った。幼馴染として長年過ごした彼女と、罵り合って別れたりはしたくなかったからだ。
もちろん紗枝と別れることに寂しさを覚えないわけではない。
これから少しずつ愛を育んでいくつもりだった。恋人になったからには紗枝を幸せにしたいと考えていた。冬休みには、どこか二人きりで旅行なんかして、気持ちを深め合いたい。そして――あわよくば――などとエッチなことも想像していた。
だが、仕方ないことだと思う。人の心は――、気持ちは――、変わるのだ。小さな庭から出たボクたちは、もうあの頃のような子供じゃない。紗枝はボクのものじゃないし、ボクも紗枝のものじゃない。紗枝が誰を好きになろうと彼女の自由だし、それを止める権利はボクにない。
「――わかったよ――ではなくて、わたしは、ユウ君が認めてくれるかどうかを訊いているの」
――ん?
ボクは紗枝の要望を気持ちよく受け入れたつもりだった。出来るだけ平素を装い穏やかに対応した。それなのに紗枝は苛立ったように腕を組んで、さも不満といった顔をしていた。
「仕方ないんじゃないかな? 気にしなくていいよ」
ボクは紗枝に笑顔を向ける。
「……ぁん!? そんないい加減な答えじゃなくて、ユウ君とわたしの、これからのことなんだから、もっと真剣に考えて欲しいのだけれど……」
視線を外さず強い目で睨みつける紗枝に、ボクは戸惑う。
「ん?? 紗枝は遠山先輩と付き合うことにしたんじゃないの?」
袂を分かつのだから、ボクと紗枝の――これから――なんてものは何もない。
「そうよ」
紗枝は当然と言わんばかりに頷く。
「なら、ボクには何も言うことはないよ。今までありがとう」
「ん? どういう意味?」
首を傾げた紗枝の目つきが戸惑いに変わる。
「何んていうか……、まあ、お幸せにね」
ボクだって本当はすぐにそう言えた気分ではなかった。が、半分は強がり、半分は幼馴染の誼として、無理に祝福の言葉を贈ったのだが……。
「えっ……、何を言っているの?」
紗枝は、睨むのを忘れてしまったかのように素っ頓狂な声をあげて、目をしばたかせる。
「……だから、その遠山とかいう先輩と――お幸せに――って言ってるんだけど」
話は終わった。すぐにでもこの場を離れたいという衝動に駆られた。
「そ、それは判るけど……。それじゃ他人事みたいじゃない」
「……ん? まあ、そうだね」
幼馴染とは言え、そもそも他人だ。――もう、いいだろ?――とばかりに、ボクはずっと握ったままだった紗枝の手を離した。
これでサヨナラだ。
そのまま立ち去ろうとしたボクだったが、紗枝に掴み掛られた。
「なぜ、そんな冷たい態度なの? わたしたちずっと上手くやってきたじゃない」
一体、何なんだ??
そもそも別れ話をしたのは紗枝だ。それなのになぜ縋って来る? もしかしてボクが素直に別れを受け入れたことが気に入らなかったのか?
「イヤイヤイヤイヤ、別れようと言ったのは紗枝だからね」
ボクは、興奮する紗枝の肩に手を置いて、自分から引き剥がした。
「はぁ? わたしは別れるなんて、一言も言ってないわよ」
ん? ここまでの会話を思い返してみるが、やはり別れを切り出してきたのは紗枝で間違えない。
「えっ? 別れないの?」
「別れるわけないわ! わたしたち、どれだけ長い間付き合ってきたと思っているの!」
恋人としては1年も経っていないが、幼馴染として過ごした日々も含まれているのだろう。
「でも、先輩と付き合うことにしたんだろ?」
「そうよ」
呆れたように溜息混じりで言い放つ紗枝。
「えっと……、つまり……。紗枝は、ボクと恋人のまま、その遠山って先輩と付き合うってこと?」
「やっと理解してくれたわね。だからユウ君が、それを認めてくれるかどうかを訊いているの」
「揶揄ってる?」
「真剣よ」
「ん~、よく判らないんだけど。その遠山とかいう奴と付き合うというのは、恋人としてではなく、友達的な何かなのかな??」
「違うわよ。恋人としてちゃんと交際するつもりよ」
「言っている意味がやっぱりよく判らないのだけれど……」
「そのままの意味よ。もちろんユウ君のことは大好きよ。だけど遠山先輩も好きなの。だから、ユウ君とはこれまで通りで、遠山先輩とも付き合いたいの」
「……」
呆れて言葉が出なかった。それって二股じゃないか。それをボクに許せって言ってるのか?
「ダメかしら?」
「ダメというか、嫌かな」
「どうして?」
「すまん。紗枝の言っていることが全く理解できない」
こっそり浮気するならともかく、どこの世界に恋人が他の人と恋人になることを認めるんだ?
「ふふふ、ユウ君は嫉妬しているのね? でもそれは大丈夫よ。そこは『コンパージョン』して欲しいの。つまりね、ユウ君の愛するわたしが、誰か別の人と仲良くしていることをハッピーなことだって考えて欲しいの。わかる?」
「……」
さっぱりわからん。
「それにさぁ、折角わたしたちが付き合ってることを喜んでくれてるパパやママに、別れるなんて、どう説明するのよ?」
「……」
爺ちゃんや母さんの顔を思い浮かべると少し面倒な気持ちになった。北頭学院高等部入学の直前、両家で集まって庭でBBQをしたことがあった。その時、大人たちは、揶揄い半分二人の将来の話をツマミに楽しく盛り上がっていた。
今の母さんである叔母と紗枝の父親は幼馴染だったらしく、以前から二人の交際を後押しするような声がよくあった。
つまり両家とも、いずれボクたちが結婚することを望んでいた。無論、先程までのボクもそう考えていたのだけれど……。
「ん~、ボクとしては、その遠山って人と付き合うのをやめてくれるのなら、これまで通り付き合っていけるけど……。紗枝がどうしてもその先輩と付き合うのなら、別れるよ」
「ひ、酷いわ。わたしを捨てるの?」
「いやいや、捨てられるのはボクの方だと思うんだけど……。そもそも紗枝は、ボクと遠山先輩、どっちが好きなんだよ?」
「それは当然、ユウ君よ」
「それなら、遠山と付き合うのをやめてくれないか?」
「それは無理よ。だってもう遠山先輩とは付き合ってるみたいなものだから。わたし、今サッカー部のマネージャーなの。――サッカーの試合を応援するカノジョ――というのを昔からやってみたかったのよね」
紗枝は未来へ思いを馳せるように目を輝かせた。
「そ、そうか……。なら、やっぱり別れよう」
「嫌よ。ユウ君が一番って言ったでしょ! どうして理解してくれないの!」
あまりにも自信たっぷりに言われると自分が我儘を言っているのではないかと、少し不安になる。ただ一番ってことは、二番があって、その内、三番も……。
「で、でもさ、遠山って人も、二股は許せないと思うよ」
「それは大丈夫よ。遠山先輩は――カレシがいたって気にしない――って言ってたわ。だからユウ君のことも『メタモア』として尊重してもらうわ。わたしにとっては、ユウ君とコウちゃん、幼馴染の二人が一番大事なの。それは信じて欲しいわ。それに、この前は遠山先輩からコンドームの付け方も習ったわ」
「はっ……?」
コウちゃんとはボクらのもう一人の幼馴染である平野康生のことである。……そんなことより、コンドームってなんだ?
「どうしたの? そんな青い顔をして。一番はユウ君なの。結婚するのも当然ユウ君のつもりよ。だから私たちの関係に、何の問題もないの」
「あ、あのさ、まさかだけど、紗枝は、その遠山とかいう先輩と、……したのか……?」
「した? あー、そうね。彼だって恋人だもの。初めて同士は上手くいかないんだって。だから、わたし、ユウ君の為にエッチの練習をしているの」
フフフと悪びれもなく笑う紗枝。
ボクは思わずその場に嘔吐した。先程、駅前のコンビニで買い食いしたサンドイッチが、綺麗に咲く花壇の花にぶち撒かれた。
「だ、大丈夫?」
慌てたように伸びて来た紗枝の手を、ボクは振り払った。
脳裏に過ったのは男を連れ込んでは、アンアンギャーギャー喚いていたアノ母親の幼い頃の記憶だった。子供の前で痴態を晒しても尚、恥じいる様子もなく、平然としたその姿が、今の紗枝と重なって見えた。
何とか立ち直ったボクは、紗枝からゆっくり後退る。
「ユウ君、待って。判って。お願いだから理解して」
ボクはもう紗枝を見ていたくなかった。傍に居るのも嫌だった。その場で踵を返すと全力で土手を駆け上がった。胸がムカムカして気持ち悪い。
紗枝の声は聴こえていたが、振り返ることなくそのまま駆けた。ジャングルの怪鳥のような紗枝の叫び声が遠のいていく。
気づくとボクは、自室のベッドの上にいた。