修学旅行(3)
「亜姫。さっきのお願いは旅行中に言うんじゃないわよ? 旅行が終わるまで我慢しなさいよ?」
麗華が怖い顔で命令するが、亜姫は適当な返事を返してくる。
二人は溜息をついた。これはまた、碌な事にならなそうだ。変な所で突然言い出しても困らぬよう、予め和泉に伝えておこうと決意した。
脱衣所には綺麗なメイクルームが隣接していて、髪や肌に使える沢山の化粧品が並んでいた。
お土産でも買えるそれらを身につけるといつもより甘い香りとしっとりした肌触りに包まれる。亜姫はそれを塗りながら、隣に座る楽しそうな二人をそっと見た。
一見普通の態度を取りつつ、トラウマを刺激しないようそばにいてくれる二人。どんな状況でも日常をもたらそうとしてくれる彼女達には感謝しかない。おかげで今、何かに怯える事なくこうして楽しめている。
こうやって自分さえ気にしなければ、忘れていられるんだ。
こうして普通に過ごしていれば、あれは無かったことに出来るんだ……。
亜姫はそう思い、記憶に無理矢理蓋をした。
「それ、和泉から借りた服?」
亜姫が着ている服を見て、沙世莉が尋ねる。
「うん。旅行用にもう一枚貸してもらってる」
亜姫は嬉しそうに服を握りしめた。
旅行が始まってから、亜姫は今までになくのびのびしている。ビクつく事も無く、ともすれば麗華達もあの事件を忘れてしまいそうなほどに。
しかしこれは、和泉がこうして不在の場所でも守っているおかげなのだ。今はまだ全てが元通りとはいかないが、このまま少しずつ亜姫の日常が戻ればいい。沙世莉達はこの旅でそういう時間を増やしてやりたいと思っていた。
旅行中は男女別の行動範囲が増す為、麗華達は亜姫の周りへ常に注意を向けていた。
亜姫に向く悪意は今も無くならない。現に今も、亜姫へ不穏な視線をよこす者がいる。和泉の服を着ている亜姫が面白くないのだろう。もしかしたら、自慢げに見せつけてるとでも思っているのかもしれない。
本人は気にしていないけれど、無駄な注目を浴びる必要はないだろう。
沙世莉は周囲にも聞こえるよう声を張る。
「それ、和泉が着ろって言ったんでしょ? 相変わらず独占欲の塊……って言いたいとこなんだけど。
実は、私のこれも悠仁の部活シャツ。これ見てよ、背中に名前が入ってるんだよ」
亜姫が背中を見ると、アルファベットで印字された熊澤の名前が見えた。そこで、亜姫はさっきから気になっていた質問を口にする。
「ねぇ、麗華の服ももしかして…………」
「………べ、別にいいでしょ。アキラさんと学校生活なんておくれないんだし、これぐらい、たまには……」
その口ぶりから、麗華がねだって借りてきたのだろうとわかった。
「亜姫? それ以上言ったら、さっきの話を和泉に言うからね?」
「えっ、駄目、それは駄目!」
三人で顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
その様子を見てヒソヒソ言う子達がいることに、亜姫は気づかなかった。
散々楽しんでから外に出ると、和泉達が待ちくたびれていた。
「遅い」と言うヒロが亜姫達に携帯を向けている。
「何してるの?」
「先輩から、沙世莉の様子を撮るよう頼まれてんだよ。つーか沙世莉……それ、柔道部のシャツじゃん。
うわ、後ろに思いっきり名前入ってるし。先輩、和泉に感化されちゃったんじゃねーの?」
にやにやするヒロが沙世莉に怒られ、それを見て亜姫が笑う。するとカシャっとシャッター音。
見ると、和泉が亜姫に向けていた携帯を手元に下ろすところだった。
亜姫が見ていることには気づかず、和泉は手元の携帯を見て僅かに表情をゆるめている。
──あいつの携帯ん中、お前の写真ばっかなのに?
和泉のあれ、もしかして隠し撮り……あんなに撮ってるなんて──
ヒロ達の言葉を思い出し、そっと近づいて携帯を覗き込むと……気配に気づいた和泉が慌てて携帯を隠す。その時、一瞬だけ画面が見えた。
そこにあったのは、明らかに亜姫を写した数々の写真。
「写真、いつから……」
睨むように和泉を見ると、気まずそうな顔。
「つきあいだしてからちょいちょい撮ってるよ。同じクラスになってから、俺達があげた写真もなんだかんだ言いつつ大事にしまい込んでるし。
亜姫のメイド服も、ヒロが撮って和泉に渡したよな?」
「戸塚! バカ、お前……」
和泉が慌てるが、時既に遅し。
亜姫は和泉の隣にすとんと腰かける。そして和泉を見上げ、にこりと笑いかけた。
「私、和泉の写真持ってないなぁ。旅行中、沢山撮ろうね」
「いや……俺、写真は」
「撮ろうね?……執事服の写真も、琴音ちゃんから貰おうかなぁ」
「いや、待っ」
「隠し事、もう無いって言ってたよね?」
「……わかったよ……」
そこは素直に返事した和泉も、携帯の中身を見せろという要求は頑なに拒否した。
そんなくだらないやり取りさえ楽しくてしょうがないのは、やはり旅先で気持ちが浮ついているのだろうか。
そのまま一旦部屋へ戻り、エレベーターが混む前に亜姫達は夕食の場所へと降りる。そして、売店を覗いたりして時間を潰した。
◇
館内をうろつく生徒は沢山いた。
普段見ることのない私服や風呂上がりの姿がもの珍しいのか、あちこちで誰かを見て囁く声が聞こえていた。
そこに亜姫の名があがることに和泉は気づいている。わかってないのは本人だけだ。
着ているシャツを握り、寄り添いながら楽しそうに笑う亜姫を和泉はそっと見下ろした。
自分がよく着ていた黒いTシャツは、亜姫が着るとオーバーサイズのミニワンピのようだ。下にはふわふわしたタオル素材のショートパンツを履いていて、シャツの前だけ軽くインしている。
これは毎日着ている部屋着だ。亜姫の家から帰る時、風呂上がりの亜姫は必ずこの服装で見送りをする。
『彼シャツに包まれているけれど男を知らなそうな女の子』といった風貌が、ピンクがかってしっとりした風呂上がりの肌と合わさり妙に男を煽る。
亜姫に向く視線が多数あるという事実が、和泉を苛立たせていた。
この姿で出てきた時は内心慌てた。寝る時に着替えるもんだと思っていたので、まさか足をあんなに丸出しにして出てくるとは思わなかったから。
風呂上がりのヤバさをもっと自覚しろと怒鳴りそうになった。
幼さと混じり合ってほんのりと滲み出る色気は麗華達の持つ近寄りがたいそれとは異なり、一歩踏み込んだら届きそうでつい手を伸ばしたくなる危うさがある。
本人に自覚がなく無防備に曝け出されたそれは「ご自由にお持ちください」と言わんばかりで危なっかしいことこの上ない。麗華達が睨みをきかせていなければ、あっという間に男に囲まれるだろう。
ただ……この時は和泉も少し浮かれていたのであろうか。
亜姫の家で、しかも親がいる前でしか見たことのないこの姿は、和泉にとってはたまらなく愛しい姿。
「和泉に包まれてるみたい」と安堵と喜びを浮かべてシャツを掴む姿は、和泉にも浮かれた感情を抱かせる。
目に焼き付けたいほど好ましい姿が突然目の前に現れ、気がつけば和泉は叱ることも忘れて携帯を向けていた。
自分しか見たことのない姿を他の男に晒すのは嫌だった。だが「このシャツが一番安心するから旅先でも着ていいか」と請われれば、勿論肯定しかない。
恐らく何を着てても亜姫に向く視線は避けられなかっただろう。そう考えると、自分のシャツを着せたことは逆に正解だと思えた。
勢いで押したシャッターは、亜姫が笑った瞬間を鮮明に写し撮った。着ているシャツを握る癖まではっきりと記録したそれは、焼き付けたかった姿をそのまま切り取っていた。
運良くそれを手に入れたのだから、この服装は見逃そう。そう自分を納得させる。そして亜姫に向く邪な視線を全て遮るように強く抱き寄せた。
人混みに緊張しているのか亜姫は嫌がることもなく、逆に擦り寄るようにくっつきながら売店での買い物を楽しんでいた。
そして夕食も終えた自由時間。あとは寝るだけのこの時間を二人で過ごすべく、二人は散歩に出た。
庭に出ると綺麗にライトアップされていて、散歩を楽しむ人達がちらほら見える。
整備された道をゆっくり歩くだけでなんだか特別な気分になる。二人で景色を楽しみながら進むと、ライトに照らされた大きな木の影にベンチを見つけた。
色の変わるライトに照らされる木が幻想的な雰囲気を醸し出している。二人は椅子に座り、しばらくその景色を眺めていた。
周りには誰もいない。知らない場所でこのようにのんびり過ごす時間は、今の二人には特別過ぎて……時間を忘れて、ただ静かに寄り添いあっていた。
◇
右肩に乗っていた和泉の指先がゆっくりと髪を梳く。亜姫が見上げると、優しく微笑む和泉と目が合った。
「疲れてない? 今日、一度も寝てないだろ?」
「うん。疲れてはいるけど大丈夫」
和泉は亜姫の髪を優しく梳き続けている。
「今日、一度も発作起こさなかったな。怖いこと、なかった? 我慢してない?」
「ん? そんなのなかったよ?」
首を傾げながら即答する亜姫に、和泉は多少の違和感を持った。が、亜姫は笑って
「旅行、楽しいね!」
と明るい声で言い、今日の話や明日の予定を楽しそうに話す。
から元気にも見える様子が気にかかりはしたが、楽しそうな亜姫の姿を見られたのは単純に嬉しい。
発作も起こさず遠出や集団行動が出来たのは、亜姫の心が回復してきている証拠かもしれない。
亜姫がこの様子ならば、この旅行中は楽しむことだけ出来ればいい。
和泉はそう思い、余計なことを考えるのはやめた。




