和泉の憂い
放課後、和泉は用事を終えて教室に向かっていた。亜姫はヒロ達に預け、教室で待たせている。
歩きながらも頭の中は亜姫のことばかり。最近の出来事が目まぐるしく浮かんでは消えていく。
何でもなさそうに過ごしているが、和泉も亜姫と同じように苦しんでいた。けれど、それは麗華達も同じはずだ。なにより、亜姫の苦しみはこんなものではない。
和泉は様々な思いを振り払うように首に手を添え、頭をゆっくりと回した。
和泉も眠れぬ夜を過ごしていた。
と言っても、亜姫のような発作を起こすわけではない。それなりに眠れているし、困るようなこともない。もともと睡眠時間が少ない和泉は、眠れない事に辛さは感じない。
問題なのは悪夢を見ることだ。
内容は毎回少しずつ違う。けれど、どの夢もあの日見た光景とそれに至るまでの日々が元になっている。
現実とは異なる内容に、夢だと理解している。なのに毎回どうやっても助けられず、最後は絶望して飛び起きる。
そして、起きた後も。
夢だと分かっているのに──それはあの日のことで過ぎたことだと分かっているのに──「また助けられなかった」と酷い後悔に苛まれる。
その後は亜姫が号泣しながら錯乱するあの姿がリアルな映像で脳内を支配し、翌朝亜姫を見て無事だったと安堵する。
日々その繰り返しで、時々わけもなく大声で喚きたくなった。
──起こってしまったことを無かったことには出来ない。出来ない事を望むな、キリがない。今出来る事を探していくしかない。ガキはガキなりに出来る事を──
あの日冬夜に言われた言葉が、何度も頭の中に響く。
亜姫を守りたかった。あの日が来る前だって、出来る事はしていたつもりだ。
けれど、あれは起きた。
なぜ避けられなかったのか。それをどうしても考えてしまう。
もっと出来る事があったのではないか。考えが足りなかったのではないか。あれが駄目だった、ああすればよかった、それともこうだったらよかったのか……色んな事を考える。
亜姫があんな目に合ったのは自分のせいではないかと、どうしても己を責めてしまう。
自分と付き合わなければ、石橋が亜姫を見つけることはなかった。少なくとも、こんな形で出会うことはなかったのではないか。
そもそも自分があんな生き方をしてきたせいで石橋と絡む未来が出来てしまったのだ。
──自分のせいで亜姫がいつか笑えなくなる──
一番恐れていたことが、これ以上ない最悪の形で訪れた。やはり自分のせいだと和泉は思う。
わかっている。今更そんなことを考えても元には戻らない、いま出来る事をするしかないのだと。
自分のせいだと分かっているのに、どう償っても取り戻せないことばかり。……なのに、亜姫はこんな自分を拠り所に日々を生きている。
あんな目に合わせたのは俺なのに。
亜姫はそれを責めるどころか、この腕の中だけが唯一安心できる場所だと言う。
どうしようもない嬉しさと共にどうしようもなく苦しくなる。自分には、そんな安らかな顔を見せてもらえる資格などないのに。
「お前のせいだ」と詰れよ、と逆に怒鳴りたくなる。自分は亜姫が安心できるような存在ではないのだと。
だが、変わりたいと思ったところで急に変われたり大人になれるわけではない。
どれだけ足掻いても、自分の力で出来る事は相変わらずちっぽけで。
誰も自分を責めないことが逆に辛かった。亜姫でさえ、自身よりもこちらを守ろうとした。
亜姫の親も、罵るどころか、全てを知ったにも関わらずお礼を言い笑いかけてくる。
全てを暴露した時、怒鳴られ罵られ殴り倒してもらえた方がマシだった。今になってそう思う。
どうしようもなく、誰かにそうしてもらいたかった。
冬夜が時々何かを言いたげにこちらを見ていることにも気づいている。きっと、情けない顔をしているのだろう。
眠れていないことにも気づいているはずだ。
もともと兄は口数が少なく、余計な事を言わない。けれど、今のままでは駄目だと目で伝えてくる。なのにその視線の中に心配する気持ちも見えていて……気遣いや甘やかしを表現することなど滅多にない冬夜のそれがまた、和泉には苦しかった。
そんなことを取り留めなく思いながら歩いていると。
「和泉さん」
控えめな声に呼ばれた。どこかで聞いたような声に思わず振り向くと、野口が立っていた。
いつも向けてくる強気な姿が、今日は影もない。自信が無さそうな小さい声は初めて聞くもので、呼ばれた時は彼だとわからなかった。
一瞬だけ目を合わせたあと、野口は気まずそうに視線を逸らす。何かを言いかけては口を噤み、そのままその場に佇んでいた。
和泉は妙に冷静な気持ちで野口を見た。
随分、視線が近くなってきたな……。
急に背が伸び始めた野口をまじまじと見る。
成長と共に、可愛らしかった顔に凛々しさが見え始めた。体の細さは変わらないが骨格がしっかりしつつあり、服の上からでもほどよく筋肉がついているのがわかる。
時々部活中の野口を見かけるが、彼はいつでも真剣で。その眼差しは亜姫にも同じように向けられる。
野口はどこを見ても曇りや淀みがなく、和泉にはいつも眩しく見えた。自分に向けてくる強い態度にすらそれを感じ、それが羨ましくもあった。
悪いモノ、汚いモノは野口には近寄れないんだろうな。
ふとそんなことを思う。
少し前までの、小さな少年には見あたらなかった力強さや逞しさ。それが更に野口を輝かせている。
こいつのそばにいたら、亜姫はあんな目に合わずに済んだだろうか。
再度、目の前の彼を見る。
このまま成長し続ける野口に持ち前の気の強さが備り続けるなら、自分はいつか焦る日がきたりするのだろうか……。
そう考えた時、いつもの気の強さが欠片も見えないことに気がついて、和泉は飛んでいた思考から現実に意識を戻した。
と、野口がこちらを向く視線とぶつかった。その眼差しに、いつもの強さは無いままだ。
未だ言い淀む彼に「付いてこい」と無言の合図をして、ひとけのない場所へ誘導した。
そして、やはり無言のまま「何の用だ」と視線で促すと。
「──亜姫、先輩の……噂が……」
野口は言いにくそうに口ごもる。
和泉は黙っていた。
すると、そんな和泉を見て
「襲われた、って……本当、なのかよ……?」
怒られるのを恐れている子供のような顔つきで、野口は聞く。
真実を知りたくない、そう訴えているようにも見える。
その顔を見ながら和泉は暫く黙っていたが、やがて静かに問いかけた。
「それを聞いて、お前はどうしたいわけ?」
野口は困った様子で俯く。
「よく、わかんねぇ。……けど、俺に、出来る事は……ないか、って…………」
尻すぼみになるその声と共に小さくなっていく野口。
和泉は下を向き、一度視線を外す。
そのまま大きな溜息をついて、今度は強い眼差しで野口を見据えた。
「お前に出来る事は三つ。
後ろから近づかないこと。
亜姫が気づいてから声をかけること。
何があっても体には触れないこと。……特に、左手は……絶対に触るな。
亜姫を笑わせたいのなら。必ず守れ」
野口が目を見開き驚愕の表情を見せ、次いで泣きそうに歪む。
「そ、れは……噂通りって、事……?」
「事実とは違う。けど……何もなかった、ってわけじゃない」
そう言って、和泉は口を噤んだ。
その姿を呆然と見ていた野口の目に、次第に怒りが宿り始めた。
「な、に、して……あんた、いつも一緒にいるくせに……うんざりするぐらい引っ付いてるくせに、何してたんだよっ! そのデカい身体は飾りかよ!?
いつも偉そうな態度をとってるくせに……女ひとり守ることも出来ねぇのかよ!
あんたが……あんたがもっとしっかりしてれば、そんな事にはならなかったんじゃねぇの!? どうして防げなかっ」
ダンッッッ!!!
和泉が近くにあった木へ思い切り腕を叩きつけた。太い幹が揺れ、その衝撃で上からはハラハラと木の葉が落ちてくる。叩きつけた拳を強く握りながら全身を震わせる和泉に、野口がたじろいだ。
そんな野口を、和泉がギリッと歯ぎしりしながら睨みつける。
「……あぁ、そうだよ! いたよ! こうなる危険を感じてずっと守ってた。あの時だって、すぐそばにいたんだ。
あれだけ守ってたのに……なのに…………。
何してたんだなんて……お前なんかに言われなくたって、俺が一番思ってんだよ!!!」
いつもどこか余裕のある和泉が苦悩を隠しもせず荒れる姿に、野口は言葉を失う。
「亜姫、先輩は……?」
「乗り越えようとしてる」
そう言うと和泉は大きく息を吐き、眼差しを緩めた。
「お前は何も言うな。今まで通りに接しろ。
亜姫の前でそんな情けない顔は見せるなよ。
以前と変わらない日常を……お前が見せてやって」
ハッとした顔で、野口は一瞬俯き。顔を上げた時には、いつもの強気な彼に戻っていた。
「……わかった」
そう言った野口を一瞥して、和泉が去りかけた時。
「あんたは? 大丈夫なの?」
和泉は前を向いたまま聞く。
「大丈夫そうに見えねぇ?」
「見えない」
即答され、和泉は苦笑する。そして、野口に向き直ると言った。
「お前に心配されるなんて、情けねぇな」
その顔は苦しそうで。野口は何も言えずただ和泉を見る。その眼差しに、和泉は困ったような笑いを溢した。
「それでも。亜姫は今、俺がいなかったら何も出来ない。大げさに言ってるわけじゃなくて、今は俺が命綱みたいなもんなんだ。倒れるわけにはいかねぇだろ。
お前はお前の仕事をしろ。それで、少しでも亜姫を笑わせてやって。……頼むな」
歩き始めた和泉は少し先で立ち止まり、背中を向けたまま野口に言った。
「誰かに、そうやって思いきり詰られたかった。
………サンキュ」
そして、静かにその場を去った。




