10月
その日。いつもの日常を終えた和泉は、ヒロ達と近くの広場にいた。
「もう、ヤるの無理」
前置きもなく、唐突に和泉が言う。
二人が驚いて和泉を見ると。
彼は珍しく、携帯も出さずにただ前を眺めていた。
「なんだよ、いきなり。ヤりすぎたのか?」
「今度こそ枯れちゃった? それともとうとう飽きたとか?」
二人が冗談めかして聞くと、和泉は違うと否定する。
そして迷ったような素振りを見せ、しばらく何かを言い淀んでいたが……やがて覚悟を決めたように呟いた。
「俺……なんか、変」
「「は?」
ヒロ達は顔を見合わせ、再度和泉を見た。
「なぁ。ちょっと……聞いてもいい?」
和泉はそこで初めて横を向き、まっすぐ二人を見た。
こんな和泉を見たのは初めてだ。彼らは黙って頷いた。
「萎えるようになったって、前に話しただろ? あれから、どの女を前にしてもそうなった。代わりに別の子が頭ん中チラつくようになって……」
和泉は今までの話を二人にする。
「さっき……部屋に入った途端、またあの子が浮かんで。女に触れられた瞬間、強烈な嫌悪感で吐きそうになった」
それでも、どうにか事は済ませた。
「だけど終わった瞬間、俺は何をしてんだって思って……」
そこまで言うと和泉は口を閉じた。話し終えたと言うより、自分の事がわからなくて困ってるように見える。
しばらく考えた後、和泉はまた口を開く。
「今まで何かを気にしたり考えたりなんてしたこと無かったのに……何がなんだかわかんねぇんだよ。けど、あの子が俺の名前を呼んだり笑ったりして、そうするとなんだか変な気分になって……。
ヒロみたいにヤりたいなんて思わねぇし、あの行為に興味や楽しさ感じたこともねーし。
今はもう、行為そのものが無理。出来ない。女も無理、もう絶対ムリ。触られるって想像しただけでマジで吐く。もう、絶対デキねぇ。なのに、あの子を思い浮かべるとそんな気分は消えて……。
なぁ、やっぱり俺、どう考えてもおかしいよな? なんで急にこんな……マジで意味わかんねぇ……俺、一体どーなってんだよ」
こんなに喋る和泉にも、心情を吐き出してくることにも、その内容にも驚きすぎて、二人はただ黙って和泉を見つめていた。
逆に和泉は止まらなくなったのか、二人の反応を気にすることなくブツブツ呟き続ける。
「女が嫌すぎてまさか男に? って線も考えたけど、ぜんっぜん違ったし。大体、ヤるのも女も考えただけで吐きそうだっつーのにあの子だけ何度も頭に浮かぶとか……これ、おかしくね……?」
「「えっ?」
「なんなんだよ、これ……」
困り果てた顔でデカい体を丸めた和泉は、いつもより小さく見えた。
ヒロと戸塚はそうっと目を合わせる。笑いがこみ上げてくるが、ここは我慢しなければ。
「その理由に思い当たることはねーの?」
「ない」
「本当にわかんないの?」
「わかんない」
「色々、ちゃんと考えたのか?」
「1ヶ月ぐらいずっと考え続けてんだよ、でも全くわかんない」
溜息をつく和泉にヒロが問う。
「その子とヤりたいんじゃねーの? 妄想で抱いたりしてんだろ?」
「違う」
和泉は即答した。しかし、そんな自分に驚いて動揺している。
何がなんだか分からないと固まる和泉に、ヒロは畳み掛けた。
「違わねーよ。その子とだけシたいと思うようになったんだろ?」
和泉は少しの間黙っていたが、今度はハッキリした意思をもって答えた。
「違う」
「何が違うんだよ」
「……………笑うんだ」
そう言ったあと、和泉はしばし無言になり……頭の中を探るようにしながら話し出した。
「あの子を抱きたいわけじゃない。現実のあの子にそんなことは思わない。
気づけばあの子のことを考えてる。その顔は全部笑ってる。時々見かけるあの子も、いつも笑ってる。
その顔を見ると『あぁ、今日も笑ってる』って思って……それで……でも、それだけで……」
そこまで言うと、和泉は再び考えこんだ。
そこへ戸塚が優しく問いかけた。
「もし、その子と何か出来るとしたら。和泉はどうしたい?」
和泉は無言で一点を見つめていたが、しばらくして呟くように言った。
「俺に……笑ってほしい」
それを聞いた二人はとうとう笑い出した。
「お前、そこまで言ってて本当にわかんねーのかよ?」
「わかんねぇよ……だから聞いてんだろ」
怒ったように言う和泉に、ヒロは言った。
「好きなんだろ、その子のこと」
「………………………………は?」
和泉は何を言われたか理解できない様子。
「だから! 好きなんだよ、その子のことが」
「……………………………誰が?」
「お前が!」
「俺が………………? あの子を? 好き…………?」
和泉は見るからに混乱している。
「おいおいおい、なんだよその反応。今までに好きな女の一人や二人、いただろ? 本当に気づかなかったのか?」
無言のまま俯き、固まる和泉。
「まさか……いなかった?」
「………女をイイと思ったことなんか一度もねーし。むしろ嫌悪感しか、ねぇ」
面白くなさそうに、渋々といった様子で吐き捨てる和泉の声は小さい。
「ちょっと待って。えっ、もしかして和泉、恋したことないの? 誰かを好きになるの、まさか……初めて、だったり……?」
「………悪いかよ…………」
ブスッと不貞腐れた和泉を見て、二人は爆笑した。
「お前、マジ!? この年で初恋!?」
「ウソだろ!? あんなにヤりまくりなのに!?」
「めちゃくちゃ惚れ込んでるじゃねーか! もっと早く気づけよ!」
「こんなに乱れた男が今更初めての恋だって!」
二人はしばらく笑いっぱなしだった。
反対に、和泉は居心地悪く佇んでいた。
恋なんて考えたこともない。
誰かを好きになんてなった事が無い。
女どころかそもそも誰かに……と言うより、何かに興味を持ったことがない。
なのに、突然そんなことを言われても。わかるわけがない。
ひたすら笑い転げる二人になんだか苛々したが、なぜイラつくのかすら経験のない和泉にはわからない。
どうしようもないので、不貞腐れたまま『俺が、あの子を好き』という言葉を反芻してみた。
あの子を思い浮かべる。
好き。
すると、驚くほどピタッと二つが結びついた。
あぁ、なんだ。俺はあの子の事が好きだったのか……。
胸の中のモヤモヤが一気に晴れた。
あの子の笑顔が浮かぶ。
頭の中であの子が自分に笑いかけてくる。
それらを「嬉しい」と感じて、和泉はフッと頬を緩めた。
「あ! 笑った!」
「和泉、お前笑えるじゃん!」
「笑ってねーよ。面白くもねーのに」
和泉は一瞬見せた顔を引っ込め、いつものつまらなそうな顔に戻る。
「バカだな。笑うのは面白い時だけじゃねーよ。嬉しいとか楽しいとか、笑う理由なんて色々あんだろ。今、何を考えてたんだよ?」
「……言いたくない」
ふいっと顔を背ける和泉。すると、ヒロがからかうように笑った。
「どうせあの子のこと考えてたんだろ? バレバレだから白状しろ」
「っ!? なんで……っ?」
「全部、顔に出てる」
「えっ?」
「お前、そんなに色んな顔が出来るんだな。俺、今の方が好きだわ」
「俺も。怒ったり不貞腐れたり凹んだり……恋愛初心者とかさ、意外とガキっぽい」
戸塚も面白そうに笑っている。
「うるせぇな。自分がどーなってんだか、俺もわかんねぇんだって……」
頭を抱えながら和泉は呻く。
「でも、なんかスッキリしたかも。……ありがと」
それを聞き、ヒロ達はまた笑った。
「で? なに考えてた?」
「あの子が俺に笑いかけてくれるとこ……」
和泉が小さな声で白状する。
「あぁ、嬉しかったんだ? なるほど、想像して喜んじゃったワケね」
にやりと笑うヒロ達。
その感情を確かに感じていた和泉は反論出来ず、返事の代わりに二人を睨みつけた。
「なぁ。その子が誰か、わかってんの?」
ヒロの問いに和泉は首を振る。
「何度か遠目に見かけただけ。一度だけ目の前ですれ違ったけど、一瞬だったから顔がなんとなくわかるぐらい……」
「可愛いよ」
戸塚の言葉に和泉が怪訝そうな顔をした。
「は? 誰のこと……? わからないだろ? 俺だって知らねーのに」
すると戸塚がニヤリと笑う。
「知ってる」
「……………………………は?」
「すごく可愛いよ。俺、間近で見たことある」
「………誰の、話………………?」
「あの子だろ? 化粧してなくて目がクリッとしてたれ目がち。幼い雰囲気、細身で長身の可愛い子。
前髪は眉ラインで揃えてて、長さは胸ぐらいの黒髪ストレート。いつ見ても笑ってて、やたら楽しそうな女の子」
すると、和泉が飛び出しそうな勢いで身を乗り出した。なぜ知っているのかと驚愕の表情で固まっている。
その様子を面白そうに眺めながら、戸塚は言った。
「和泉、自覚ないの? かなり前から、いつもその子のことを探してたよ」
和泉の目が更に見開いた。
そう、ヒロと戸塚は知っていた。
和泉が──「黒髪で笑顔の女」と口にしたあの日よりも──かなり前から、時々何かを見ていたことを。
人の出入りがある時や移動中、密かに誰かを探していることを。
そして、視線を止めた先に必ず同じ女の子がいることを。
それは黒髪でいつも笑顔の女の子だった。
和泉が何も言わないので二人も聞かなかった。けれど、何かあるとは思っていた。
まさか、こんな形で知ることになるとは思っていなかったが。
しかしこの時、彼らは「その子」の情報を教えなかった。知り合った子が「その子」だと言うことも敢えて言わなかった。
代わりに言った。
「とりあえず、女と関わるのはもうやめろ」
「そもそも、なんであんな生活をしてたの?」
そう問う二人に、和泉はポツポツとこれまでの話をした。
この時初めて、和泉はこれまでの自分を省みた。そして、自分の人生がどれだけ異常で彩りのないものだったのかを知る。
思わず顔を曇らせた彼に、二人は「これから変えていけばいい」と優しく笑いかけた。
生活を変える上で一番の懸念。それは関わりを絶つ事で、異常につきまとわれる日々が戻って来ることだ。
その対策を遅くまで話し込み、彼は女との関わりを完全に絶った。