事件後(3)
部屋から少し離れた柱の影。和泉はそこで立ち止まり、亜姫の顔を覗きこむ。
「このあと、明日の朝まで会えないな。寂しくない? 大丈夫?」
ずっと、そばにいてやりたい。
離れがたい気持ちを隠して、わざと明るく言ってみた。笑っている亜姫からの「大丈夫」を聞けば、少し安心出来る気がしたから。
だが、返ってきたのは全然違う言葉だった。
「……わからない。大丈夫か……自信ない」
亜姫の顔は笑っている。しかし弾けるようないつもの笑顔ではなく、今にも消えてしまいそうな……無理に作った笑顔だった。
和泉は思わず抱きしめた。
「俺がもっと大人だったら……一晩中そばにいて抱きしめてやれるのかな。ごめんな、今の俺じゃお前を連れて帰れない」
「うん、わかってる。そんなの気にしなくて大丈夫」
亜姫は少し俯きながら変わらぬ笑顔で言う。
違う。そんな『大丈夫』を聞きたかったんじゃない。
抑えている感情が暴れ始めた。今日一日の色々な事が体内をグルグル駆け巡る。
なんでもいいから思うまま大声で叫び、喚き散らしたい。
それを抑えて、亜姫の額へ優しく口づけた。
そのままお互いの額をくっつけ鼻を擦り合わせる。
「何かあれば電話していいからな」
「なんもなくてもいいから」
「何時でもいいから」
「一晩中、電話を繋いでても構わないから」
「明日、迎えに行くから」
「学校、休んでもいいから。顔さえ見られればいいから」
和泉が何か言うたびに「うん」と返事して亜姫は笑う。同時に、頬へ涙が伝う。
実際は……笑おうとして、そのたび失敗していた。笑顔が歪むたびにまた笑おうとし、それを繰り返しながら零れる涙を拭きもせず健気に返事を返す。
和泉の胸はこれ以上ないほど締め付けられた。
「泣くなよ……もう泣くな。お前がそんなんじゃ、俺、帰れない」
顔を両手で包みながら亜姫の瞼に口づけを落とす。そのままゆっくりと唇まで移動し、自分のそれを合わせた。
一度唇を離し、目を合わせながら「泣くなってば」とまた唇を優しく啄む。
そして三度目をしようとした時。
「カイ、時間」
自分を呼ぶ声。和泉はそちらへ顔を向けた。
声をかけたのは、迎えに来ていた兄の冬夜だった。
まっすぐ見据えてくる冬夜を無言で見返したあと、和泉は亜姫の頭の上に顔を乗せてそのまま抱きしめる。
「カイ。……親御さんに返してこい」
冬夜の強い視線も言われたことも無視して、和泉は抱きしめる手に力を込めた。
亜姫の頭に顔を付けたまま、冬夜を睨む。
抑えきれなくなってきた感情が激しさを増して暴れている。
それに合わせるように、今日の出来事がめまぐるしく頭の中で切り替わっていった。
顔を歪ませ、涙を堪え、抱きしめた亜姫のシャツを強く握る。
「いやだ。返したくない」
自分の頬に水の流れを感じたが、和泉は知らないフリをした。手の中にあるものを一瞬たりとも離したくなかった。
「カイ。駄目だ」
冬夜が発する低くゆっくりした声は、短い言葉に強い否定の意思を乗せて和泉へ刺さる。
「いやだ。離したくない」
腕の中で、亜姫が静かに泣いている。
これを獲られてたまるかと、いっそう強くシャツを掴む。
「駄目だ。ガキがいつまでもワガママ言ってんじゃねぇ。5分だけって言ったのはお前だろ」
17歳上の兄から正論を突きつけられ、和泉の感情はとうとう爆発した。
「っ! 嫌なもんは嫌なんだよ!!
嫌だよ、こんなに泣いてんのに……このまま置いて帰れっつーのかよ! できねぇよそんなこと……できない………」
話しながら視界が歪む。喉が詰まってうまくしゃべれない、でも必死に言葉を繋いだ。
鼻水をすする。
顔が濡れている。自分の目から水が出てるせいだ。なんだこれ、全然止まらねぇ。
泣いた記憶など、ない。和泉はどうしたらいいかわからなかった。
冬夜を無視して亜姫をギュウギュウと抱きしめる。和泉の全てが亜姫を離したくないと訴えていた。
力を込める体はいつの間にか震えていて、全身が泣き叫んでるようだった。
そこへ、冬夜の静かな声が入ってくる。
「カイ。そばにいて抱きしめてやりたいのはお前だけじゃないんだよ。
……ここからはお前の時間じゃない。早く親御さんに返してやれ」
言い聞かせるように紡がれたその言葉は、声色とは逆に鋭さをもって深く突き刺さった。
親に返せ……その言葉が、亜姫は自分のものではないと知らしめる。
わかってる……亜姫が帰る場所は自分のところじゃない。寄り添う権利を持つのは親だけだ。
「カイ!」
冬夜の声に、これが最後だと理解した。
「……わかった。……わかってる」
袖で顔を拭う。上を向き、鼻水をすすりながら手の平や親指で目の周りを拭い、残った水を目の奥に戻す。
その間に何度か大きく息を吸い、気持ちを切り替えた。
抱きしめていた手を緩め、亜姫の顔は見ず……色んな意味を込めて「ごめんな」と呟き……部屋へ戻ろうと体の向きを変えると。
廊下に立つ冬夜の後ろに、いつの間にか亜姫の母がいた。
「お待たせして……すみません」
口を開けば泣きたくて声が詰まる。ようやく引っ込めた涙がまた溢れそうだ。
それらを食い止める為、これでもかと歯を食いしばった。口が歪み、眉間には深いしわが寄っているとわかる。
情けない顔をしているに違いない。でも、泣くのを堪えるだけで精一杯だった。
「……明日、早めに伺います」
今すぐ掻き抱きたい衝動を抑え、母の方へ亜姫の背を強く押し出した。
「じゃあ……また、明日な」
それだけどうにか告げると、和泉は出口へ向かう。
色んなことが耐えられそうになくて、亜姫の顔は見られなかった。
◇
冬夜を残し、和泉は一人で昇降口に向かう。
仕事を切り上げて来てくれたと分かっている。でもこんな顔、見られたくない。
多忙な親の代わりに自分を育ててくれた兄。そんな彼から諭されたことも、駄々を捏ねただけの自分にも苛々した。
だが冬夜は和泉の態度を気にも止めず、平然として後ろから付いてきた。チラっと見れば、和泉が置いたままだったバッグと上着を手にしている。
その余裕ぶった態度がまた自分との差を見せつけられているようで面白くない。追いつかれるのもなんだか癪で、和泉はますます足を早めた。
だが、気持ちを切り替えきれない和泉は今だ校内に残る亜姫が気になり、次第に足が進まなくなっていく。
すると冬夜はあっさり追い抜いた。そして少し先から和泉を振り返ると馬鹿にするような声を飛ばしてきた。
「本当にガキだな。いつまでも不貞腐れた顔してんじゃねーよ」
「うるせぇな」
小さな声で反抗したが、鼻で笑われた。
何度も言われたガキという言葉に腹が立ってしょうがなかったが、己のガキさ加減には自覚があったのでそれ以上言葉には出来ず、ますます苛ついた。
車に乗り込んだ和泉は助手席に座り、無言で窓の外を見ている。
「どっかでメシ食うか?」
「いらね」
腹なんかすかない。何かを食べる気にはならなかった。
車内はしばらく静かだったが、和泉は窓の外から自分の手の平へ視線を移すと不意に話し出した。
「なぁ冬夜。早く大人になるにはどうしたらいい?
力が欲しい。もっと……力が欲しいよ。
冬夜ぐらい大人だったら、亜姫をあんな目に合わせずにすんだのかな……。
なんで俺、こんなガキなんだろ……好きな女一人、守れない。そばにいてやることすら出来ない……」
自分の手を見つめながら独り言のように呟く和泉は、冬夜に話しかけてはいるが自分自身に問いかけているように見えた。
「俺は、亜姫に何をしてやれる?
何をすればいい?
今の俺に、何が出来る……?」
冬夜は黙って聞いていたが、実際は和泉の様子に言葉を失くしていた。
小さな頃から弟を見てきたが、さっきのように泣くのも感情的になるのも見たことがないからだ。もちろん、こんな姿も初めて見た。
夏の海外で初めてのワガママを聞いた。いつもの無表情でたった一言「今すぐ帰る」と……手伝いを拒否するだけでなく、着いたばかりの空港からそのまま帰ろうとした姿に驚かされたばかりだったが、今日の驚きはそれの比ではない。
全てに興味を示さず無気力だった弟が、強い執着を示すだけではなくこんな事まで言い出す様に衝撃を受ける。と同時に、心が揺さぶられ嬉しさがこみ上げてくる。
弟に頼られたことも初めてだ。それには応えてやりたいと思ってしまう。
冬夜はそんな心を隠して、弟へ語りかけた。
「今までと同じように接してやれば?
ガキだから出来る、今のカイだから出来るって事があるんじゃないの?
少なくとも、昼間そばにいてやることは出来るだろ。それは、仕事をしてる俺には出来ないことだ」
ずっと下を向いていた和泉が、初めて顔を上げた。
「……起きてしまったことを無かったことには出来ないんだよ、カイ。
出来ないことを望むな、キリがない。今出来ることを探していくしかないんだ。
お前があの子にしてやりたいこと、あの子が望むことをすればいいんじゃないの?
ガキはガキらしく、小難しいことは考えずやりたいことをしろよ。
建前とか常識とかすっ飛ばして思ったまま行動できるのは今だけだぞ。
必ずしも大人の方が優れてるわけじゃない。逆に、色んなものに縛られて動けないこともあるからな」
黙って冬夜の話を聞く和泉の顔は真剣で、初めて見るその顔はやたらと頼もしく見えた。
運転の合間に見たその顔に、冬夜は弟の成長を感じる。
ここ最近のカイの変化は、あの子がいるからか……。
そんな二人に起きた今日の出来事を憂いたくなったが、それは顔に出さなかった。代わりに自分ができるアドバイスを送る。
「ただ、覚えておけ。あの子を大事に思ってるのはお前だけじゃない。
あの子はカイだけのものじゃねぇんだよ。
一人だけで突っ走ったら、それはただのワガママだからな。それは絶対、忘れんなよ」
和泉はしばらく冬夜の顔を見つめていたが、ふと我に返ったように呟く。
「ガキはガキなりに、亜姫が望むこと、自分がしたいこと……か。
そうだな………考えるよ。全部、ちゃんと考える。
今日みたいな泣かせ方、もうさせねぇよ……」
足に乗せていた左手を強く握る。それを右手で上から更に強く握りしめ、じっと見つめる。
和泉はそれきり口を噤み、その手を見つめたまま家に着くまで動かなかった。




