文化祭(10)
「亜姫の考えていること、教えて……? 怒ってても許せなくても、それ以外でも。亜姫の口から、今の気持ちを聞きたい」
そう言う和泉には労りの色が見えた。その優しげな眼差しを見ると、自分の頑なな態度が後ろめたくなってくる。
しかし、亜姫にはまだ……自分でもよくわからないわだかまりがあった。
「昨日の、こと……。言われたこととか、色々……まだ、嫌だって思ってて……」
和泉は相槌を打ち、続きを促す。
「和泉が償おうとしてくれてるのはわかる。気をつかってくれてるのも……」
言葉を紡ぎ始めたら、再び色んな感情が込み上げてきた。無償に泣きたくなり、亜姫は和泉に背を向ける。
「自分の態度が悪い、って思う。許すって言わなきゃって……。
けど……言いたくもなくて。だけど、このままじゃ駄目になっちゃう、って……」
亜姫は歪む視界に蓋をするよう両手で覆う。が、すぐにその手を掴まれた。
顔を上げると、いつの間に回り込んだのか和泉がいた。
「ならないよ。許さなくていいって言っただろ? 怒ってていいんだよ、亜姫は」
けれど亜姫は首を振る。
「気まずいもん。一緒にいても、だって、こんな……」
こらえていた涙がポロリと溢れた。
「まだ、嫌なの。だけど……続けてたら、別れるジンクスが当たっちゃうかもって……」
「昨日のリセットじゃ足りなかった……?」
和泉が気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
そんな顔をされると自分が酷く悪いことをしているような気になる。
同時に、悪いのは私じゃないのにと無性に和泉を責めたくもなってしまう。
「……もう、やだ……和泉といると、いつもグチャグチャになっちゃう。わかんなくなっちゃう……。
どうして、こんなに嫌な事ばっかり……全然楽しくない。こんなの、付き合ってるなんて言えない……」
絶対に別れる。
リセットしたはずのそれが亜姫に重くのしかかる。
「同じだな」
優しい声と共に大きな手が亜姫の顔に触れ、上を向かせた。その目には変わらず優しさが見える。
「俺も同じ。でも、昨日先輩に教わった。恋愛はいい事ばっかりじゃないって。相手に望むことが多いほど苦しいこともあるって。けど、それは……それだけ相手を求めてるって事なんだって。
二人とも恋愛初心者だから沢山話せって、先輩に言われたよ」
和泉はクスッと笑った。
「俺なんて、そもそも人として駄目だからさ。本当にわからないことだらけ。
ヒロ達や先輩に、なんでわからないんだ、本当に知らないのか気づかないのかって、事ある毎に言われてる。いつも笑われるか呆れられるかのどっちかで、昨日も散々だった」
和泉は参ったと言わんばかりに苦笑する。でも、と彼は続けた。
「だから、知りたい。亜姫のことは何でも知りたいし、俺のことも知ってほしい。
だから……そのグチャグチャも、そのままでいいから……全部教えて?」
と言われても、自分でもよくわからないのだ。教えろと言われても、何をどう説明したらいいのかわからない。
亜姫がイヤイヤと首を振り、俯くと。
チュ……。
和泉の唇が亜姫の髪に触れ、一瞬で離れた。
突然の出来事に目を瞬かせると、また一粒涙が落ちた。和泉はそれを優しく拭う。
「別れたい……とは、思ってないんだよな?」
不意の問いかけに亜姫は頷く。
「許したら昨日のことは無かったことになっちゃうんじゃないかって……私、沢山の事を考えていたのに、それも全部消えちゃう気がして……それがすごく嫌。
だけど……もういいよ、って思う気持ちもあって。もう償ってくれてる、って思ったり……」
言葉に詰まりながら話す亜姫を、和泉は触れることもせずじっと見つめている。
こんな気持ちの時に触れてほしくないと思っているのに、いつもなら優しく抱きしめてくれる温もりがないのはたまらなく寂しいとも思ってしまう。
けれど、今までのように甘えたくはないという頑なな気持ちがそれに蓋をする。
和泉が自分の気持ちを拾ってくれているとわかっているが、それを素直に受け入れたくないと思ってしまう。
自分の為にしてくれているのに、和泉の希望だけを叶えているようで反発したくなってしまう。
全てが相反する気持ちのせめぎあいで、亜姫は自分がどうしたいのかわからなくなっていた。
「簡単に許すな。もっと怒れよ。そうやって甘やかすな」
言葉は強いのに、落ち着いてゆっくり紡がれた声。思いがけない声色に亜姫は顔を上げた。
「俺、亜姫にいつ嫌われてもおかしくないって……ずっとそれが怖くて仕方なかったのに、いつの間にかお前の気持ちに甘えてた。
亜姫に触れられるのが当たり前になって、お前は俺だけのモノで好きにしていいんだって、すごくワガママで傲慢な考え方になってた。
……そのことに、昨日まで気づかなかった。その結果、こうなってる。
お前が今許したら、俺はまたそれに甘えて反省できなくなる。……だから、ちゃんと怒って」
和泉を傲慢などと思ったことはない。嫌いだと思ったのだって昨日が初めてで、それも別れを決めるようなものではない。
こんな話を聞かされるなんて思いもしなかった。亜姫はますます混乱する。
「無かったことにはならないよ。俺は一生覚えてる。
……こんなに色んな感情に苛まれた事なんかねぇよ。お前をここまで傷つけて……忘れられるわけがない」
和泉は俯き、苦痛を滲ませてそう言った。その表情は苦渋に満ちている。
しかし、それを振り払うかのように軽く頭を揺すり、顔を上げた時にはもうそれは消えていて。
「でも、苦しいのは亜姫のほうだと思うから。だから、俺は敢えて普通に接する。
けど、軽く考えてるわけじゃないから。それだけは誤解しないでほしい」
真摯な表情で和泉は告げた。
──あぁ、そうだ。和泉はこういう人だった。優しい、人──
胸の中のモヤモヤが少しずつ晴れていく。
許すと言って素直に甘えたい。そんな気持ちが亜姫の中に染み出して来た時。
「気まずいと思ってたの?」
唐突な質問。亜姫の頭の中に「?」が広がっていく。
「う、ん……だって、会話は続かないし。和泉、あんまりこっち見ないし。距離だって、今も……」
亜姫は視線で自分達の間を示す。
すると、和泉は納得したように頷く。
「俺……すごく、気は使ってるよ。敢えて触れないようにしてるし。なし崩し的な仲直りとかは嫌だったし、ケジメもつけたかった。お前が嫌がるかなとも思ってたし。
けど、気まずさは感じてない。どっちかというと……楽しい」
は? と言いたげな亜姫を見て、和泉は照れたように笑いをこぼした。
「付き合い始めた頃にに戻ったみたいで……すごく、ドキドキする」
「……は?」
今度こそ、亜姫は声に出した。
私達は、これ以上ないぐらいの大喧嘩を繰り広げていたのではなかったか。今さっきまで、確かにその話をしていたはずだ。
だというのに、彼のこの顔とセリフはなんだ?
亜姫が啞然としていると、和泉はその表情のままクスクス笑う。
「誤解しないで。本当に反省してるんだ。
ただ……亜姫の一つ一つをすごく気にして、反応見ながら触れたり近づく距離を考えたりしてたら、あの頃を思い出してきちゃって。
それに、お前が駄々こねたりむくれたりしてるのが……すごく可愛い。
プイプイそっぽ向いて、なのに時々チラッとこっちの様子伺ってみたり。下唇突き出してむぅ……としてる顔とか、可愛くてたまらない。
しばらくこの状況でもいいかもって思っちゃったぐらい。
……だから、気が済むまで好きなだけ駄々こねてキレていーよ」
話を聞いてるうちに、亜姫の顔には怒りが滲み出し頬が紅潮していった。
「それじゃ、私が怒る意味がないじゃない……!」
和泉は声を上げて笑った。亜姫がますます怒りを増すと、
「繰り返すけど、本当に反省はしてるんだ。ごめん」
と和泉は言う。
「たまにこうやって離れるの、あの頃の気持ち思い出して懐かしくていいかも。
『初心忘れるべからず』って、こういうことを言うのかな?」
いたずら小僧みたいな顔で言う和泉。
先程迄の気持ちなど吹っ飛ばした亜姫は、思い切り睨みつける。
「違うと思う。それは、始めのころの謙虚で真摯な気持ちを忘れてはならないって意味だよ。
和泉に謙虚さなんて、ないじゃない……!」
「お前もなかなか言うね」
和泉は楽しそうに言う。
「好きにしていいって言ったのはそっちでしょう」
亜姫は逆に不貞腐れた。
そんな亜姫を、和泉は愛おしそうにしばし眺めていた。
亜姫はなんとも言えない居心地の悪さに、黙ったままプイっと横を向く。
「なぁ、確認なんだけど」と和泉が言うも、亜姫は素知らぬフリ。だが彼は気にしてないようだ。
「別れる気はない。許したくないし怒ってる。でも気まずいのや距離が開いたりするのはイヤ。
ってことは。お前がどう反応しても、俺は今まで通り接した方がいいってことだよな?」
真顔で亜姫の心情を推察する和泉。
亜姫は羞恥でボッと赤面した。
「っ! そんなこと、言ってないでしょう……っ!!
な、何をしてきても! 嫌な態度、とるからね!」
「反抗的な亜姫なんて最高なんだけど。やだやだ言いながら俺の事好きって漏れてるのとか、本当に可愛い」
そう言ったあと、和泉は少し眉を寄せ……言葉に詰まった。
「こんなにわかりやすく……いつでもお前の気持ちは見えてたのにな。
俺はマイナス要素ばっかだから。お前はどんどん可愛くなってくし、ずっと不安と焦りがあった。
自分のことばっかりで、お前の気持ちを見てなかったんだと思う。本当にごめん」
「そんなに何度も謝らなくていい。もう、充分伝わってるから」
つい慰めるようなことを言ってしまった亜姫に、和泉は嬉しさを滲ませ微笑む。
「うん。でも、償いはちゃんとさせて。とりあえず、ジンクスを完成させてもいい?」
亜姫が返事をする前に、和泉は亜姫の目の前にグッと距離を詰め、腰に腕を絡めて抱き寄せた。椅子に座っていた亜姫の体が持ち上がり、立ったと同時に木の幹へと背中を預けさせられる。
髪が木の幹に触れないように、和泉の手が亜姫の首筋に優しく添えられていた。
昨日のことを気遣ってくれているのだと、伝わってきた。
先ほどまで離れた場所から同じ目線で見ていた和泉が、至近距離から見下ろしてくる。
いつもの光景。大好きな温もり。
複雑な心に反して、亜姫の胸は喜びの音を鳴らした。
「ジンクスのやり直しをできた二人が、中庭の木の下でキスできたら。もっと強い絆で結ばれるんだって」
和泉は少し掠れた声でそう囁き、言い終えたと同時に優しく口づけた。
唇がゆっくりと離れ、それに寂しさを覚えた瞬間。角度を変えた和泉の唇が、また自分のものと重なる。
いつもと同じ、和泉のキス。喜びと同時に安堵して、亜姫は素直に受け入れた。
重なるキスが何度続いたのか……「はい、おしまい」と言っているような大きめのリップ音に、亜姫は我に返る。と同時に、色んな感情を一気に思い出した。
「こんなに沢山、しなきゃいけなかったの……?」
すぐ素直になることなど出来ず、可愛げなく呟いてしまう。
「いや、最初の一回で達成した」
和泉は、亜姫を抱きしめたままその首元に顔を埋めた。
「俺がしたかっただけ。また怒った……? あとちょっと、このままでいい……?」
和泉はそう言いながら、抱きしめる手に力を込める。
強気の合間に垣間見える弱気な姿。それがなんだか可愛くて。
自分にだけ見せる和泉のそんな姿が、たまらなく好きだなと思ってしまう。
──気持ちは同じところにあるんだな。
そう思うと、まだしばらく怒ってていいのだと素直に思えた。
「怒った。だから、もう一回、して……」
亜姫が怒ったように伝えると、顔を埋めた場所からくぐもった笑い声が返ってきた。
そしてそれから。
亜姫は接客を続け、少し強気に他の男を散らそうとする和泉との攻防戦を繰り広げた。
間近で見ることはない和泉の楽しそうな姿と、彼に守られ妙に色っぽく見える瞬間がある亜姫。それを見たがる客が後を立たず、文化祭は大繁盛の末に幕を閉じた。狙い通り、食券を手に入れたのは亜姫のクラスだった。
亜姫もしばらくの間は怒っていたが、日毎にその感情も落ち着きを見せ、月が変わる頃にはすっかりいつもどおりの二人に戻る。
そして、久々に身体を重ねた日。
亜姫は、先日和泉が言ったような「付き合い始めのようなドキドキ」に陥ってしまい、やたらと恥ずかしがる姿に喜びを爆発させた和泉の餌食になってしまった。
息も絶え絶えな亜姫であったが、あまりにも幸せなひとときに「たまには初心に戻るのもいい」と言った和泉に思わず同意したくなったことは秘密である。




