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【第四章】残酷な世界(2)

 この感情、何から、どこから処理すればいいんだ。

 僕は今、二十五歳にもなって、布団をかぶって泣いている。声を殺して、嗚咽を漏らしながら。


――こっちが現実。これが真実。


 涙が止まらない。

 今までつまらないと思ってきた人生が、とても幸せなものだったんだと、初めて気づいた。

 現実はあまりに非情で、無常で。


 可琳のお母さん――時安璃花子さんが語る両親の話は、僕の記憶とまるで違っていた。いや、僕が意識を失ってからの出来事だから知りようもないのだけれど。


「あなたのご両親は、あなたが事故に遭って間もなく……離婚したの。そして、お母様が家から出ていかれた。そのあと八幡くんが……あ、ごめんなさい、あなたのお父さんのこと、八幡くんって呼んでいたのだけれど。八幡くんが一人で、あなたの身の回りのことをしていたの……」


「そんな! 母さんが僕を置いていくなんて……信じられません。出ていったのは父の方じゃないんですか?」


 僕は思わず声を荒げてしまう。


「洵くんは、お父さんのこと……嫌い?」


 璃花子さんは、視線を揺らしながら、悲しそうに微笑んだ。


「それは……好きか嫌いで言うなら、嫌いです。仕事ばかりで家にほどんどいなかったし。何より、僕と母を置いて家を出ていってしまったし……いや、違うのか……」


 自分で話していて混乱し、言葉がしぼんでいく。


「実際に家を出ていってしまったのはお母様の方よ。でも、八幡くんは、洵くんがお母様のことが大好きだって知ってたから……」


 言葉が耳をすり抜けて、全く頭に入ってこない。僕は感情のやり場を失う。


「母は今、どこで何をしてるんですか? 僕の意識が戻らないから、僕のことを見ていたくなくて出ていってしまったんですか?」


 言い終えた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような痛みが走った。

 璃花子さんは瞳を伏せ、一瞬ためらったあと、僕の目をまっすぐに見つめた。


「――事実を知りたい?」


 彼女の声は静かだったけれど、その言葉には重みがあった。

 僕は息を呑む。


「はい」


 そう答えた僕の声は、少し震えていた。


「そうね、洵くん、ずっと眠っていたとはいえ、もう二十五歳だものね。辛いかもしれないけれど、全てお話します」


 璃花子さんは口元を引き締める。その表情にはどこか覚悟のようなものが感じられた。

 僕はゴクリと生唾を飲み込み、自然と拳に力が入った。


「お母様は……八幡くんの他に好きな人ができて。その人と一緒になるために、八幡くんと別れて家を出たの。どこで暮らしているかは、私は知らないわ」


「え……?」


 頭が真っ白になった。母さんは、浮気をしていたってこと……?

 両親が離婚をする少し前。毎日のように喧嘩をする両親を見るのが嫌だった。母さんを激しく怒鳴りつける父さんの姿が怖かった。


 蓋をしていた記憶。僕はその蓋を外し、記憶を探る。怒号、涙、母のうつむいた姿。それらは全部、父の一方的な攻撃だと思っていた。

 母さんを責めていた言葉は、母さんが浮気をしていたからだと知ると、あのときの印象はまた違ってくる。


 璃花子さんの言葉が、重く、響く。

 僕の脳内に広がるのは、過去の記憶と現実の間にできた亀裂。


「もともと離婚をする話を進めていたあなたのお母様は、あなたの意識がもう戻る可能性がほとんどないとドクターから聞き、あなたを置いて出ていってしまったの」


「そんな……」


 胸の奥から、言葉にならない感情が次々と溢れ出す。


「僕は……僕はこれまで母と暮らしてきました。僕を置いて出ていったのは父で……母は昔と変わらず優しくて……最近は趣味のフラダンスも楽しそうにしていて……」


 あの優しい母さんが僕を置いて家を出ていったなんて、あり得ない……信じられない……。

 璃花子さんは、そんな僕の言葉を否定せずに、ただ悲しそうな微笑みを浮かべて僕の話を聞いていた。


「八幡くんはね、お母さんっ子だった洵くんを思って、せめてこの世界は、大好きなお母様と暮らす世界にしようって」


「――僕が……これまで生きてきた世界って……」


 璃花子さんは、うん、と小さく頷くと、僕の目をまっすぐに見据えた。


「アストラルアークが開発した、コネクテッド・ワールド。通称〈MAHORAまほら〉のβ(べーた)版。簡単に説明すると、現実リアルとリンクしたバーチャルな世界よ。〈MAHORA〉に接続すると、どこにいても、アバターを通して現実リアルの世界と同じように行動ができるの。ただ、あなたの世界は現実とは隔離された、完全に単独の世界だったけれど」


「単独……?」


「そう。当時、開発途中のものを利用したから、今の〈MAHORA〉よりも遥かに範囲も性能も劣るわ。現在リリースされている正式版の〈MAHORA〉にいる人々は、現実に存在する人たち。けれど、あなたの世界の人たちは……ゲームでいうところのNPCノンプレイキャラクター。人工知能によって行動しているの」


 僕は言葉を失った。ただ、彼女の目をじっと見つめることしかできなかった。そしてようやく、震える声で言葉を紡いだ。


「じゃあ、僕がこれまで関わってきた人たちは、みんなAIだったってことですか……」


 喉が乾き、うまく言葉を続けることができない。


「……そうなるわね」


 ハハッと、思わず乾いた笑いが漏れた。それと同時に、胸の奥で何かが砕け散るような感覚がした。

 これまで、どこか深く人と関われない自分が悪いんだと思っていた。けど……そういうことだったのか。

 あの広い世界で――僕は一人きりだったんだ。


「でも……少し変な感じがします」


「どういうこと?」


 璃花子さんは首を傾げた。


「たとえば母さんとか、親友の窪とは、本当に心が通じているって思えました。あれもAIだっていうんですか?」


「現実であなたと深い関係にあった何名かの人は、八幡くんが本人から了承を得てパーソナルデータをもらっていたの。NPCよりもデータが精密な分、とても精度は高いわ。完全に、とは言えないけれど、限りなく本人に近い形で言動や行動が再現される」


「それでも……AIには変わりないんですね……」


「――その通りよ」


 その瞬間、冷たい汗が脇から伝い落ちるのを感じた。僕の心の中には、ずっと抱えていた疑問が浮かび上がる。勇気を振り絞り、僕は問いかけた。


「こちらの世界で……可琳と会うことはできますか?」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも薄々分かっていた答えを確かめることの怖さに気づく。

 璃花子さんはきゅっと目を瞑り、眉を少し寄せる。そして、静かに首を振った。


「可琳に関しては少し状況が特殊で……」


 彼女の声は、微かな緊張を含んだまま、一本の細い糸をたどるように慎重だった。


「可琳のデータは、私が子どもの頃のものを利用したの。そしてアバターの姿・形は開発時の試作データだったわ。時安可琳という女の子は――あなたの世界にしか存在しない」


 心臓が一瞬止まったように感じた。冷たさが全身を巡り、呼吸すら忘れてしまった。


「時安可琳は――現実リアルには存在しない?」


 言葉が喉に詰まりそうになる。それでも無理やり絞り出すように問いかけた。

 拳をぎゅっと握ると、涙が止めどなく溢れてくる。


 ――ハチ!


 耳の奥で可琳の声が響く。

 目を閉じれば、彼女の笑顔がすぐそこに浮かぶ。

 はしゃぐ姿、優しく微笑む顔。「ハチ」と呼ぶあの明るい声が、僕の心に鳴り響く。


 嘘だ。

 嘘だ、嘘だ。


 可琳が現実に存在しないなんて、信じられない。

 だって僕は――。


 可琳の手に触れた。その手は柔らかく、命を感じさせる温もりだった。

 抱きしめたときの彼女の感触は、今でも鮮明に覚えている。


「僕が触れた可琳は、生きていた……確かに、そこにいたんです……」


 心の奥から湧き上がった思いが、意識する間もなく言葉となって零れ落ちた。

 幾度も重ねた可琳の唇はとても柔らかくて……とても、温かった――。


 璃花子さんは、黙って僕を見つめるだけだった。その表情が何を意味するのかわからない。ただ、否定しない沈黙が、かえって僕を押し潰していく。

 とめどなく流れる涙が、枕を濡らしていく。


「こんなの……ひどいよ……」


 声が掠れて、震えていた。

 目を閉じても、脳裏に浮かぶのは可琳の笑顔。それが現実には存在しないとわかっても、心の中で消えることはない。

 璃花子さんは、爪が手のひらに食い込むほど硬く握りしめていた僕の手に、そっと自分の手を重ねた。


「あなたにとって、辛い話ばかりでごめんなさい――」


 璃花子さんの顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。目には涙が滲み、言葉が詰まりそうになっているのがわかる。

 他人である僕に寄り添ってくれる、璃花子さんの優しさが、その手から伝わってくる。


「父さんに……会うことはできますか?」


 胸の中に渦巻く怒りと疑問が、溢れ出しそうになっていた。

 どうしてこんな世界を作ったんだ。

 どうして真実を捻じ曲げたんだ。

 どうして可琳のデータを作ったんだ。

 どうして――父さんはこの場にいないんだ。


「八幡くんは――」


 璃花子さんの口元が震え、言葉が止まる。

 一度深く息を吸い込むと、彼女はためらいがちに続けた。


「――亡くなったわ。あなたが事故に遭ってから2ヶ月後。末期の癌で」


 一瞬、世界から音が消え、代わりに自分の心臓の鼓動だけが耳を打ち続けていた。


「でも、これだけは信じて。八幡くんは誰よりも、あなたのことを心配して、愛していた。命が尽きるその時まで、あなたの幸せを願っていたの」


 目の前が滲んでいく。


――愛していた? あの父さんが、僕を……?


 璃花子さんが僕の表情を読み取るように、続けた。


「洵くんのために世界を作ることが、八幡くんにとって最後の希望だったの。意識が戻らなかったとしても、自分がいなくなった後も、あなたがずっと幸せに生きていけるようにって」


   *


 僕にとって都合のいい展開しか起きない世界。

 父さんが、死ぬ前に僕にくれた世界。

 優しい母さんも、親友も、そして恋人もいる完璧な世界。

 眠っていただけの現実こちらの世界には、みんな存在しない。


 父さんは、僕が目覚めることを想定していなかったんだろう。だから僕にだけ、どこまでも優しい世界を作った。

 でもそれがあだとなってしまった。

 僕は、目覚めてしまったから。


 現実がこんなに苦しいなんて。

 どこまでも優しい夢のようなあの世界で、ずっと可琳と一緒に笑っていたかった。

 ずっと、あの甘い夢の中で眠っていたかった。


   *


 リハビリが始まった。

 初めて車椅子に乗った日、医師や看護師たちは、これからどんどん良くなると笑顔で励ましてくれた。

 体は生きる方向に進んでいるのに、心は死んだように沈んでいく。軽くなる体に反比例して、心は重さを増していった。


 リハビリを終え病室に戻ると、あの幸せだった日々を反芻はんすうする。


「今日は月が綺麗ですよ」


 元気がない僕に、看護師さんがそう教えてくれた。

 僕は窓からぼんやりと夜空を眺める。

 雲一つない夜空に浮かぶ満月は、ただ静かに輝いているだけで、どこか味気なかった。

 

「ハチ! 見て、月が綺麗!」


 可琳と一緒にご飯を食べたあと、外に出ると、空には満月が浮かんでいた。

 月なんて気にしたことがなかったけれど、可琳と一緒に見上げる夜空は、いつも以上に美しかった。


「満月でも、さすがここでは星がこんなにたくさん見えるんだな」


「東京ではやっぱり、星は見えない?」


「全然見えないよ。東京は夜も明るいから」


 僕の言葉に可琳は柔らかく微笑むと、そっと囁いた。


「じゃあ、帰ってきてよかったね」


 僕は、可琳の暖かい笑顔を思い出す。

 病室から見る月は、東京で見た月と同じくらい、どこか冷たく、味気なく見えた。可琳がいないだけで、世界は輝きを失う。いつだって僕の世界を明るく灯すのは、可琳の笑顔だった。でも、今はもう、その笑顔に触れることさえできない。


 あの幸せだった時間はもう戻らない――。


 それを知るたび、心が軋むように痛んだ。

 リハビリを重ねるたび、身体に力が戻ってくるのを実感する。

 でもそれとは反対に、現実を生きる僕の心は、どんどん弱くなっていった。


 璃花子さんは時々、僕の病室に来ては父さんの話をしてくれた。

 正直僕は、父さんの話なんて聞きたくなかった。父さんが母さんを怒鳴りつけている姿が、どうしても頭から離れなかったからだ。


 けれど、璃花子さんの話を聞くうちに、父さんへの思いが少しずつ変わっていった。

 母さんの浮気が発覚した頃、父さんは体調不良で病院へ行った。精密検査を受けた結果、末期の癌で余命があと僅かであることがわかったそうだ。


 僕には想像もつかない。自分の命がまもなく尽きるとわかった人間がどれだけの恐怖にさいなまれるのかなんて。

 そんな状況で、父さんは母さんの裏切りを知った。

 父さんが母さんに向かって投げつけていたあの酷い言葉や態度――それは、単なる怒りではなく、絶望から来ていたのだ。


 あのときの僕は、ただ耳を塞いでいることしかできなかった。

 その後、僕が森で怪我をし意識を失ったとき、父さんは自分を責め、意気消沈してしまったそうだ。


 無反応覚醒症候群、いわゆる植物状態だった僕に、父さんはドクターの協力を得て脳波の記録をとり続けた。そして、眠っている僕に微弱ながらも意識があることが判明した瞬間、父さんはそこに一つの希望を見出みいだした。


 余命を宣告されていた父さんは、母さんに自分が癌であることを告げずに離婚を決めた。そして、母さんと別れたあと、残りの時間のすべてを、僕のために使うことを決意した。


 開発中だった〈MAHORA〉β版を僕専用に改良して――僕の意識を、その世界に繋いだ。

 父さんは末期癌の痛みに耐えながら、治療を拒否し、痛み止めだけを飲み続けた。

 璃花子さんが何度治療を勧めても、父さんはその言葉を聞き入れなかった。


「洵の世界が完成するまでは、絶対に死ねない」


 そう言って、身体が動かなくなるその瞬間まで、取り憑かれたように僕の世界を作り続けた。

 あの、どこまでも僕にだけ優しい世界を。


『八幡くんは誰よりも、あなたのことを心配して、愛していた。命が尽きるその時まで、あなたの幸せを願っていたの』


 あの時の璃花子さんの言葉が、胸に重く響いた。

 父さんが僕に残してくれた、どこまでも優しい世界。

 その裏にあった、父さんの命を削るほどの愛。


――僕は、父さんがもうこの世にいない今になって、ようやくその愛を知った。


   *


 今日も璃花子さんは病室に顔を出してくれた。

 近々退院が決まり、諸々の手続きや住居等の準備を手伝ってくれている。

 〈MAHORA〉のアカウント取得の手続きが終わり、いつでもログインできる状態になったけれど、僕はまだ〈MAHORA〉を使う気持ちにはなれなかった。


 そんな僕を気遣うように、璃花子さんは〈MAHORA〉の良さを教えてくれた。


「今でこそ〈MAHORA〉は、世界中の人々が当たり前に使うシステムになったけれど、もともとは身体が不自由な人が社会参加できるようにと開発されたものだったの。実用化される前に、八幡くんが亡くなってしまったのはとても残念だったけれど……」


 そう言って璃花子さんは寂しそうに笑った。


「こうして八幡くんが作ったシステムは、今、世界でたくさんの人を幸せにしている。私はそんな八幡くんにずっと憧れてたの。洵くんのお父さんは、とても凄い人なのよ」


 璃花子さんは、ことあるごとに父さんを褒めてくる。もしかして彼女は、父さんに好意を抱いていたのだろうかと思うこともあるけれど、恋愛というよりは尊敬なのだと思う。


「父さんは、僕に興味がないんだと思ってました。たしかに凄い人なのかもしれないけど、父親としてはどうなんでしょう」


「確かに、洵くんは寂しい思いをしたわよね」


 璃花子さんは、僕の言葉を否定せずに受け止めてくれる。そんな璃花子さんの優しさが心に沁みる。


「でもね、洵くんの意識がもう戻らないと知った八幡くんは、自分のせいでこうなったって、とても、とても後悔していたのよ」


「……後悔?」


 璃花子さんは小さく頷く。


「洵くんが事故に遭った時、虫かごがそばに落ちていたんですって。それを見た八幡くん、そういえば最近虫取りに行っていなかったって悔やんでね」


 父さんがそんなことを思ってくれたなんて……。

 家族みんなで、虫取りに行った日のことを思い出した。あの優しくて、温かかった時間を。

 璃花子さんのおかげで、父さんへのわだかまりが少しずつ溶けてゆくのを感じていた。


 入院中、病室のテレビでニュースやバラエティ番組を観ていると、〈MAHORA〉が今や生活に欠かせないシステムであることがよくわかる。そんな画期的なシステムを、父さんがリーダーとなって開発していたと知ると、心のどこかで誇らしくも思えた。


 父さんが自分に残された僅かな時間を、全て僕のために使ってくれたことも今では感謝している。だけどそれでも、心の奥でくすぶる疑問が消えない。


――ならばどうして、僕の世界に会いにきてくれなかったんだろう。


 そう考えた瞬間、ふいに記憶の中で何かが弾けた。

 目の奥に鋭い痛みが走り、脳裏に浮かんだのは、ずっと心の奥底に閉じ込めていた過去の記憶。

 強制的に再生するその記憶に、僕は愕然がくぜんとする。


 あれは、初めて父さんと母さんが大声で喧嘩した日だった。

 何かが割れる大きな音が響き、僕は慌ててリビングに駆け込んだ。

 怒声とともに振り上げられた父さんの手が、ガラスの花瓶をテーブルから弾き飛ばした。

 その破片が床に散らばり、僕のそばまで飛んでくる。その破片が、まるで僕の心にも刺さったみたいに、胸が痛くなった。

 母さんの声も怒りを帯び、父さんに向かって泣き叫んでいた。


 その時の父さんの顔は――僕が悪さをして怒られたときと全然違う。今まで見たこともないほど恐ろしい表情だった。

 僕の体は恐怖に震えながらも、無意識に動いていた。


「やめて!」


 泣き叫びながら父さんの体にしがみつき、力の限りその大きな体を押しのけた。


「お母さんをいじめないで! お父さんなんか大嫌いだ! この家から出ていけ!」


 拳を握りしめ、全力で父さんの胸を叩き続ける。手が痛くても、息が苦しくてもやめられなかった。僕は、大好きな母さんを守っているつもりだった。

 泣き叫びながら叩く僕を、父さんはただじっと見つめていた。

 眉間に刻まれた深い皺、見開かれた目、噛みしめられた唇。そこに混じる感情は一つではなかった。怒りとも、悲しみともつかない、言葉にできない苦々しい感情が入り乱れ、父さんの顔を歪めていた。


 僕には、何もわからなかった。

 父さんがあの時、何を思っていたのか。

 僕が発した言葉や拳が、父さんにどんな痛みを与えたのか。


 僕の世界の母さんはとても優しかった。

 男を作って出ていくことなんて一度もなかった。いつだって笑顔で僕を励まし、美味しいご飯をたくさん作ってくれた。


 東京に行くときも。

 東京から戻るときも。

 何があっても僕を応援し、僕の意志をすべて受け入れてくれた。

 父さんはどんな思いで、そんな母さんを作ったんだろう――


 父さんは、僕が永遠に目覚めることがないのなら、せめて幸せで楽しい世界で生きてほしいと、この世界を作ってくれたんだ。

 僕に都合よくカスタマイズされた世界。そこでは、どんな失敗をしても、誰かが優しく助け、受け入れてくれる。


 辛いことも、悲しいこともない。

 ただ、僕にとってひたすら優しく、不都合のない毎日が続いていた。

 けれど、父さんが作ってくれた世界は、あくまでも「閉じた世界」。自由なようでいて、本当の自由ではなかった。

 他人とぶつかることもなければ、自分の力で何かを掴み取ることもない。ただ、用意された幸せの中に漂うだけだった。


 目覚めたくなかった、と思っていた僕の気持ちは、父さんを知ることで少しずつ変わってきた。

 現実世界に可琳はいない。

 それでも、ここには本当の出会いと未来がある。β世界では手に入らなかったものが、ここにはきっとあるはずだ。


 可琳がいないことは、どうしても僕には受け入れがたくて、長い間もがいていた。

 僕の胸の中に、可琳がいた部分だけがぽっかりと空いている。この穴は何をしても決して埋まらない。

 けれど、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。

 夢から覚めた僕は、これからこの現実で生きていかなくちゃいけない。


 現実の世界では、僕にだけ都合のいい展開なんておきない。

 皆一人一人本物の人間で、誰もが必死に生きて、互いにぶつかり合いながら、未来に向かって進んでいる。

 その先にあるのは、どこまでも続く広い世界。


 今までみたいに甘くはないだろうけど、その分、自分の力で切り開いていける。

 僕は自由なんだ。

 これからは僕自身が、僕の世界みらいを作っていくんだ。


 僕はもっと父さんのことが知りたくなった。

 父さんが作った〈MAHORA〉は、世界の人々を幸せにし、生活を豊かで多様にした。

 僕も、父さんみたいに、人を幸せにする仕事がしたい。


 β世界では、焦ってアストラルアークに就職を決めた僕だけど、それはただ流されていただけだった。

 でも、現実の僕は違う。

 父さんが生涯をかけて作り上げた〈MAHORA〉の開発に、自分の意思で携わりたいと思った。父さんの意志を受け継ぎながら、自分の力で誰かを幸せにできる未来を作りたい。


 退院が決まるころ、僕のこれからの生き方も決まった。

 璃花子さんが、サーバー代がかかるから僕がいたβ世界は閉鎖してもいいのでは、と提案してくれたとき、僕の心には様々な思いが渦巻いた。


 確かに、現実の僕が生きるには、それが合理的だ。でも、僕にとってあの世界は、ただの仮想現実じゃない。もう一つの故郷であり、あの世界には、父さんが遺してくれた愛情と、僕が大切にしている可琳との思い出が詰まっている。


 幸い、父さんが残してくれた遺産は充分だった。サーバーの維持費くらいなら、しばらくは問題なく払える。

 あの世界を守ることは、僕にとって、父さんや可琳と繋がっている証でもある。だから、僕はその提案を断った。


 この現実で生きていくとしても、β世界が、僕にとって大切な場所であることに変わりはない。

 そして、その記憶があるからこそ、僕はこれからの未来を、自分の手で切り開いていけるんだ。

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