【第十三章】君と創る世界(1)
気づけば、そこは見慣れた河原だった。
冷たい夜風が頬を撫で、川のせせらぎが耳に心地よく響く。ふと見上げると、空には無数の星が輝いていた。
目の前に可琳がいる。
僕と目が合うと、可琳はぽつりと呟いた。
「あ、そうか。私たち、最後にログアウトしたの、ここなんだね」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸がぎゅっと痛む。トラウマ級に辛い思い出が甦り、思わず苦笑いしてしまう。
「……そうだったね」
そんな僕を見て、可琳は申し訳なさそうに眉を下げ、そっと視線を落とす。
「あのときは……本当にごめんね、ハチ」
可琳の言葉は優しくて、彼女が心から謝ってくれていることが伝わってくる。
可琳が僕の手を取る。そして、ぎゅっと強く握った。
冬の冷たい空気の中で、彼女の手は不思議なほど温かかった。
その温もりが、さっきまで疼いていた胸の痛みを、少しずつ和らげていく。
「私がここから消えたあと、ハチがこの場でしばらく泣き崩れてたって、圭が教えてくれたの」
「え!? 圭が!?」
思わず声が裏返る。
あまりに予想外すぎて、僕は目を見開いた。
「あのとき、ここに圭がいたの? ……っていうか、えっと可琳さん? どうして今、β世界に来ようと思ったんですか?」
困惑が先に立って、気づけば敬語になってしまっていた。
僕は確か……プロポーズをしていたはずだったんだけど……いや、してたよね?
思わずツッコミを入れたくなる。
でも――可琳の瞳を見た瞬間、胸がすっと冷える。
その瞳には、揺るがない意思が宿っていた。
「大切な話の途中でごめんね。……でも、どうしても、ハチに会わせたい人がいるの」
その声が、妙に胸に響く。
可琳は僕の手をそっと離すと、冷たい夜風を切るように、一歩前へ出た。
「ねぇ! ここにもいるんでしょう? 圭!」
声が夜の闇に突き抜ける。
そして一瞬、静寂が訪れた。
川のせせらぎも、風の音さえも遠のく。
静けさの中に、不意に乾いた足音が落ちた。
胸がきゅっと縮む。
木の陰から、ゆっくりと圭が現れた。
月明かりが柔らかくその輪郭を照らし、足音が静かな夜にそっと染み渡る。
圭はいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、僕たちの前まで歩み寄ってきた。
「二人一緒にこの世界に来たってことは、現実世界でうまくいったんだね。おめでとう」
圭の声は柔らかく、夜空にすっと溶けていく。
僕は戸惑いを隠せないまま、圭に問いかけた。
「圭、……どうして、こんなところに?」
圭は僕を見つめたあと、ゆっくりと可琳へ視線を移す。
僕もつられて可琳を見る。彼女は迷いのない瞳を、まっすぐ圭に向けていた。
「もしかして……あなたの中身は、ハチのお父さんなんじゃない?」
その言葉が放たれた瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
張り詰めた静寂が広がり、時間が止まったかのようだった。
心臓がどくんと跳ねる。
圭の目が、一瞬だけ大きく見開かれる。その瞳に、驚きと戸惑いが浮かんだ。しかしすぐに、それを隠すように、ふわりと優しい笑みが浮かぶ。
僕だけ――理解が追いつかない。
「え? ……え?」
頭の中が真っ白だ。
可琳は何を知っていて、圭は何を隠しているんだ?
胸がざわついて、無意識に拳を握りしめる。
可琳は、圭をまっすぐ見つめたまま、口を開いた。
「ハチのお父さんが亡くなる直前、プログラムをいくつも実行したよね? その時、私のデータは全て消えた。でも――圭のデータは更新されてた」
夜風がひゅうっと、僕たちの間を吹き抜ける。
冷たさが、胸の奥まで染みた。
「この間、圭と話したときにね……違和感があったの。どうして現実世界にいる私のことを、圭が知っていたのかって」
――確かに。
この世界にしか存在しないはずの圭には、知りようがない。
僕はごくりと息を呑んだ。
「――この仮説が正しければ、全部つながる。ハチのお父さんは、自分のパーソナルデータを、圭に上書きしたんじゃないかって。現実世界の私たちに詳しいのも、中身がハチのお父さんだから――そうだよね?」
沈黙が落ちる。
静けさの中で、僕の心臓の音が、やけに大きく響く。
信じられない。でも……信じたい。
胸の奥で心が大きく揺れる。
「本当なの? 圭……」
震える声が、夜の空気に溶ける。
僕は必死に圭を見つめた。
圭は、複雑な光を瞳に宿したまま、僕を見つめ返す。
一瞬だけ、何かを言いかけたように、唇が動く。
そして――ふっと視線を落とし、肩の力を抜くようにして、くしゃりと微笑んだ。
その笑みには、照れくささと……父親が子どもを見守るような、あの懐かしい温かさが滲んでいた。
「……まいったな」
ぽつりと溢れたその声に、胸がふっと締めつけられる。
――父……さん? 本当に父さんなのか!?
圭の表情が、父さんと重なる。
堰を切ったように、感情が溢れ出す。
胸の奥が熱くて、目の奥がじんとする。
震える手で胸を掴むけど、心臓が暴れて言うことをきかない。
息が詰まり、声にならない声が喉でくすぶる。
脳内に、これまでの圭とのやり取りが甦る。
いつだって圭は、僕に優しかった。
AIだから、プログラミングされているから――そう、思っていた。
でも違う。
初めて会ったときの、あの不思議な懐かしさも。
可琳のことを知っていた理由も。
僕の背中を、何度も支えてくれたことも。
全部、理由があったんだ。
全部……父さんだったからだ。
父さんに聞きたいことも、言いたいことも、謝りたいことも、山ほどあるのに、喉が詰まって声にならない。
胸が苦しくて、言葉が感情に押し流されそうだ。
可琳が一歩前に出る。声が、少しだけ震えていた。
「ねぇ……どうして私のデータを消しちゃったの? 私がログインできないようにしたの?」
声を張る可琳。その瞳が潤んでいることに気づき、僕の胸が締め付けられる。
「あの日から、ずっとハチに会えなかったんだよ? 本当に……本当に悲しかったんだから……」
圭は、そんな可琳をまっすぐに見つめ、唇を引き結ぶ。
そして静かに、どこか申し訳なさそうに口を開いた。
「……君が、この世界に依存してしまうのが怖かったんだ。君の未来や可能性を、僕が――奪ってしまうんじゃないかって。それだけは、どうしても避けたかった」
低く、温かい声が、僕たちを包む。
それを聞いた可琳は、俯き、肩を小さく震わせた。
「――なんて、ずっと思ってたけど……。うん。今はきちんと理解してるよ。ありがとう。でも……次にハチのお父さんに会えたら、ちょっとだけ文句を言うんだ! って思ってたんだ」
ふっと笑いながらも、声がわずかに掠れる。
「まさか、本当に言える日が来るなんて、思ってなかったけど……。ふふ、ずるいなぁ、もう……。ハチと会わせてくれて、本当にありがとう」
笑顔と一緒に、可琳の頬を、一筋の涙が伝った。
圭は頷くと、ふっと肩の力を抜き、冗談めかして言う。
「でもまさか、君があのプログラムを突破するとは思ってなかったよ。さすが時安さんの娘さんだ」
「私ね、ずっと思ってたの。ハチのお父さんは、もうハチが目覚めることはないと思って、この世界を作ったんだって。でも、違うよね? 信じてたんだよね。ハチが目覚めることを。だから、ハチが目覚めたあと、この世界に再びログインした日から、圭が活動を始めるように、プログラミングしていた。……そうなんでしょ?」
圭は目を細めると、小さく頷いた。
「洵がこの世界からログアウトして、現実世界で生きていくことになったとき、……きっと、残酷な現実に直面するだろうと思っていた。僕は、洵にたくさんの隠し事をしていたからね」
その声が、わずかに掠れる。
「時安さんにお願いはしていたけれど……きっと悩んで、苦しんで、心がくじけてしまうこともあるだろうって。そのときは……洵がここへ戻ってくるだろうと思ったんだ。もしそうなったら……現実世界でしっかり生きていけるよう、今度こそ、父親として、洵の力になりたかった」
その言葉が胸に深く染み込み、熱いものが込み上げてきた。視界が滲む。頭は理解しているのに、心が追いつかない。
「本当に……父さん……なんだね」
心の奥から絞り出すように、僕は言葉にする。
「ずっと父さんは、信じてくれていたんだね。僕が目覚めることを――」
そう呟くと、圭はそっと近づき、優しく僕の頭に手を置いた。
忘れかけていた、優しい温もり。
僕が小さかった頃、頭を撫でてくれた父さんの記憶と重なって、胸が張り裂けそうになる。
「ああ。もちろんだ」
圭は目を細めて、どこまでも優しく微笑んだ。
その笑顔は、確かに――父さんだった。
圭の言葉と表情には、父親としての後悔と、深い愛が滲んでいる。
これまで胸の奥に、重しのようにずっとあった父さんへのわだかまりが、すっと溶けていく。
可琳は何度も、僕に伝えようとしてくれていた。
父さんが僕を、愛していたことを。
今やっとその言葉を、心の底から信じられる。
圭は笑みを浮かべたまま、目に涙を滲ませた。
「洵、目が覚めて本当によかった。そして現実世界でも、こうして可琳ちゃんに出会えて……本当に、よかった」
胸が苦しい。
でも、今こそ――今こそ僕は、父さんに伝えなくちゃいけないんだ。
「父さん……っ」
喉がひりついて、うまく声が出ない。
僕はぎゅっと拳を握りしめ、息を吸う。
「……あのとき、「出ていけ」なんて……酷いことを言ってしまってごめん。父さんは僕に……こんな素敵な世界をくれたのに。――ずっと……あの日のことを謝りたかったんだ……ごめんなさい、父さん」
涙が頬をつたう中、声は途中で途切れた。
圭は、顔をくしゃりとゆがめる。
「いや……違うんだ。父さんが悪いんだ。まだ小さい洵に、辛い思いをさせて……こんなに傷ついていることに、気づいてやれなかった。洵が怪我をしたのは、僕たちのせいだ。本当に……本当にすまないと思っている」
圭の瞳から、ぽたりと涙が落ちた。
「父さん……この世界を作ってくれて、ありがとう。可琳をこの世界に連れてきてくれて……本当にありがとう。僕は父さんが作ったこの世界と、可琳に救われたんだ。目が覚めたあとも、圭に……いや、父さんに助けてもらった。……感謝してる」
圭は肩を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼした。
僕はそっと、圭を抱きしめる。
――あたたかい。
父さんよりも小さな背中だけれど、懐かしい父さんの温もりがする。
心が、ほどけていく。
「よかった……」
可琳が、嬉しそうに微笑んだ。
僕は少し照れくさくなって、流れていた涙をそっと拭った。
「これからも、たまに二人で遊びに来るよ。父さん」
けれど――
その言葉を聞いた圭は、寂しそうに微笑んだ。
「いや……それはできない」
「え……?」
「もうすぐ、この世界は終了する。すべてのデータは消去されるんだ」




