【第十二章】あなたが灯す世界(3)
コース料理のデザートを食べ終わった頃、スタッフが近づいてきて「そろそろお時間です。屋上へどうぞ」とハチに告げる。
ハチは頷き、私の方を向いて微笑む。
「屋上のテラスはまだプレオープンなんだけど、今日は特別に貸し切ってるんだ」
そう言って、ハチは優しく私の車椅子を押しながら、エレベーターへと向かった。
エレベーターが静かに上昇する。胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。
扉が開いた瞬間、ふわりと夜の風が吹き込んできた。
目の前には、温かな光に包まれたテラス。中央には大きなクリスマスツリーが立ち、金や銀のオーナメントが、瞬くように輝いている。
イルミネーションが柔らかく光り、まるで星空が降り注ぐようだった。
今日は貸し切りだからか、クリスマスツリーの横に、リゾート風の可愛いテーブルとソファがひっそりと置かれている。
テーブルの上にはスパークリングワインが2つ、そして、チーズの盛り合わせ。ワイングラスの中では、細やかな泡がゆっくりと立ち上り、イルミネーションの光が映り込んで、まるで小さな星を閉じ込めたようにきらめいていた。
ハチは私の車椅子をそっと止めると、優しく微笑んだ。
「ここ、座れる?」と声をかけながら、そっと手を差し出す。
私は頷くと、彼の手を借り、ゆっくりとソファーへ身を預けた。
ハチも私の隣に腰を下ろし、そっとクッションを私の背に当ててくれる。
ぽっかりと浮かぶ月が、夜空に優しく光を投げかけている。
遠くから微かにクリスマスソングと人々の話し声が聴こえ、それが心地よいBGMのようだった。
「なんだか、夢を見ているみたい」
私は静かに呟く。
「こうして隣にハチがいて、楽しく話していると、β世界にいるんじゃないかって錯覚しちゃう。でも、これは現実……で、いいんだよね?」
あまりにも幸せで、胸がいっぱいになる。この瞬間が美しすぎて、まるで夢の続きのように感じてしまう。でも、これは夢じゃない。本当にハチが隣にいる。それが嬉しくて、でも……どこか不安になった。
「まぎれもなく、現実だよ」
優しく微笑むハチの言葉が、夜の静寂に溶け込んでいく。
「どうしてハチは、私なんかに、こんなにも優しくしてくれるの?」
ハチはそっと私の目を見つめた。そして穏やかな声で話し始める。
「子どもの頃、両親が喧嘩ばかりしていたとき。寂しくて、心細くて……そんなとき、君の笑顔が僕を救ってくれた。あの頃の僕は、本気で信じていた。可琳が、この世界を作っているんだって」
ハチは少し照れたように笑う。
「同窓会で再会したときも、ずっと灰色だった世界が、君と会ったことで再び輝き出したんだ。僕の世界には君が必要なんだ。だから可琳、僕と――」
ハチは、ポケットから小さな箱を出す。そして、まっすぐに私の前に差し出した。
その瞬間――
ふいに、夜の帳を揺るがす音が響いた。
驚いて顔を上げると、大輪の花火が冬の闇を鮮やかに染め上げる。
赤、青、金色……次々と広がる光の華が、テラスを優しく染め上げる。
カラフルなクリスマスのイルミネーションに負けないくらい、夜空が美しく彩られていた。
ハチの言葉と仕草に胸が高鳴る。でも、その音をかき消すように、夜空に響く花火の音が心臓を震わせた。
あの日、河原でハチと一緒に見た、空いっぱいの花火を思い出して、胸が熱くなった。
ほんの数分の短い花火のあと、再び静寂が訪れた。私とハチは顔を見合わせ、ハチが恥ずかしそうに笑う。
「えっと……その……僕と、結婚してください」
思わず、ふふっと笑みが溢れてしまう。
「やっぱり、うまくいかないな……本当はプロポーズして、可琳の答えを聞いたあと、花火が鳴るって演出を期待してたんだけど」
ハチは照れくさそうに頭を掻いた。その姿に、くすぐったいような愛しさがこみ上げる。
胸がいっぱいになるほど嬉しい。でも、返事をする前に、ハチに伝えたいことがあった。
「ねえハチ。あの世界を作ったのは、私じゃなくて……ハチのお父さんだよ」
笑っていたハチの顔が、一瞬で真剣なものへと変わる。
「うん。今はもう、理解してる」
「そっか、よかった……」
ほっとして息をついてから、私は続ける。
「ハチのお父さんはね、本当にハチのことが大好きで、ハチのために、その命が尽きるまで、ハチの世界を作り続けた。ハチのことを心から愛していた。そのことを、ずっとハチに伝えたかったんだ」
ハチは悔しそうに顔を歪め、その瞳が静かに揺れる。
「……どうして父さんのことが嫌いかって、前に可琳は訊いたよね」
ハチは静かに口を開いた。
「あの頃の僕は、母さんを怒鳴りつける父さんに怒りを覚えて――父さんに酷いことを言ってしまったんだ。『この家から出ていけ!』って……。でも、悪いのは母さんだった。男を作って、僕を置いて家を出ていってしまったのは母さんなのに――僕はずっと、父さんに捨てられたんだと思い込んでた」
ハチは苦しそうに顔を歪める。
「知らなかったとはいえ、僕の言葉は父さんを深く傷つけたんだ。謝りたくても、感謝を伝えたくても、僕の言葉は、二度と父さんには届かない」
ハチの苦しみが言葉の隙間から溢れ、私の胸に静かに広がる。その後悔の深さに、息が詰まりそうになる。
そして、私の脳裏にあの人の面影が浮かぶ。
『僕は洵に嫌われてしまっているからね』
寂しげに笑っていた、あの日のハチのお父さん。
もう会うことができないと言っていた裏に、こんな悲しいすれ違いがあったなんて。
どうして大人は、こんなにも大切なことを、子どもにちゃんと伝えないのだろう。
「そんな理由があったんだね……」
拳を握りしめ震えていたハチの手を、そっと両手で包み込む。
「でもね、親は子どものためだと思って、本当の気持ちを隠すことがあるの。それで私も、ずっとママと気持ちがすれ違ってた。でも最近、きちんと話して、お互いの誤解を解くことができたの」
ハチの手が、わずかに力を緩める。
「ハチも、お父さんと話せたら良かったね……」
そう言いながら、心のどこかに、何か引っかかるものを感じた。
なんだろう?
その正体を探るように考えを巡らせていると、不意に、圭の顔が浮かんだ。
『僕はね、自分の思いが相手に届かない悔しさを知っているから、洵にも君にも、そんな思いをしてほしくないだけなんだ』
その言葉が心に響き、全てが繋がる。
「ハチ!」
私は、涙を浮かべたハチの肩をつかみ、勢いよく揺さぶった。驚いたハチが目を丸くする。
「今からβ世界に行こう!」
「え? 可琳、どうしたの急に――」
「いいから! 確かめたいことがあるの! お願い!」
迷う暇もなく、私はハチの手を取ると、二人同時にβ世界へログインした。




