【第十二章】あなたが灯す世界(1)
「……え?」
ハチからのメッセージを読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。
何事もなかったかのように、クリスマスに誘われている。
まるで、ずっと友達だったみたいに、ごくごく普通に。
――あんな別れ方をしたのに。
――あんな酷い言葉を投げつけたのに。
……って、待って待って待って!!
既読つけちゃった!
やばい、どうしよう!
なんて返信すればいい!?
心臓が暴れるみたいに鳴り出して、何も考えられない。
指が勝手に動いて――
ポン!
『了解!』
スタンプ……押しちゃった……。
スタンプを送ったら、張り詰めていたものがほんの少し緩んで、気持ちが落ち着いてきた。やっとまともに呼吸ができるようになる。
私はひざ掛けを外した。
さっきまで心も体も冷え切っていたのに、今は息苦しいほど熱くて、頬も耳も火照っている。
心臓が痛いくらい激しく脈打ち、血液が全身を駆け巡る。
「一体どういうこと?」
声に出してみても、答えはわからない。
しかも、〈MAHORA〉ではなく、現実世界で会おうって……?
〈MAHORA〉なら、私は普通に歩ける。ハチと並んで歩ける。
それなのに、どうして現実世界で?
私、車椅子だよ? ……本当に大丈夫?
そう聞き返したかったのに、咄嗟に押したスタンプが、すでに会話を終わらせた形になっていた。
今さら追加でメッセージを送る勇気もなくて、ただ時間だけが過ぎていく。返事をするタイミングをすっかり失っていた。
……そもそも、ハチ。
クリスマスに会う、ってどういう意味か、わかってる?
ほんの少し前まで、私は自分の世界を閉ざしていた。
私の周りにいる人達全てを否定して遠ざけて、殻の奥に閉じこもっていたはずなのに――
たった数行のハチの言葉で、この世界が急に色を取り戻した。
沈んでいた景色が、明るくなっていく。
ぼやけていた輪郭が、はっきりしていく。
……なんて単純なんだろう。
私の世界はきっと、ハチが創っているんだ。
*
そして、クリスマス当日。
私はまだ半信半疑で、準備を終えた今も、鏡の前で放心している。
服選びに時間がかかりすぎて、一番可愛いと思えた服に袖を通したけれど――
鏡に映る自分は、β世界の「私」とは似ても似つかない。
現実世界では、魔法なんてかからない。
ママ、礼美ちゃん、佐奈ちゃん。
みんなに、ハチと会うと伝えたら、まるで当たり前みたいに「よかったね」「楽しんでおいで」って言ってくれた。
だけど、私だけがまだ、この現実に気持ちが追いついていない。
「……行ってきます」
ぎゅっと手を握りしめながら、そう呟く。
「行ってらっしゃい」
ママの優しい笑顔に送り出され、私は車椅子に乗って家を出た。
外はもう真っ暗で、緊張から深く吐いた息は、白くふわりと夜空へ昇っていった。その先に、ふっくらとした月が、優しく光っている。
これからハチに会うなんて、まだ信じられない。
待ち合わせ場所のクリスマスツリーまでは、車椅子でゆっくり進んでも十分ほど。小さな商店街の一角にある広場で、普段は人通りもまばらだけれど、今日は違う。
クリスマスだからなのか、商店街に入った瞬間から、目に入るのはカップルばかり。
手をつなぎ、肩を寄せ合い、幸せそうに笑い合う人たち。
街灯や木々には、きらきらと瞬くクリスマス仕様のイルミネーション。
光が反射して、街全体がほんのり、金色に染まっている。
華やかな景色に目を奪われながらも、人混みに紛れないよう、私はそっと端の方を進む。
――クリスマスツリーが見えてきた。
ツリーの周りには、思った以上に人が集まっている。
スマホを見ながら誰かを待っている人。写真を撮る人。ツリーを見上げて話す人。
ここから、ハチの姿は確認できない。まだ来てないのかな。
ツリーを遠巻きに眺めながら、私は小さく息をついた。
人混みの中を車椅子で移動するのは、正直怖い。
ハチの姿が見えないまま、人の波に飲まれてしまうのはもっと怖い。
そんなことを考えていたとき――
「来てくれたんだ。可琳、久しぶり」
不意に、後ろから聞き慣れた声がした。
鼓動が、弾けた。
振り返るよりも早く、ハチが私の目の前に回り込む。
そっと膝をつき、私と視線を合わせた。
――目の前に、ハチの笑顔。
時間が止まったみたいに、頭の中が真っ白になる。
言葉を出さなきゃと思うのに、どうしても声が出てこない。
「あ、あ、今日は誘ってくれて……ありがとう」
なんとかひねり出した声は、思った以上に頼りなくて、情けなくなる。
最初はハチの顔を見ていたのに、途中からどうしても恥ずかしくなって、視線を逸らした。
だけど――車椅子のせいで、体ごと向きを変えたり、背を向けたりできない。
ハチの視線が、まっすぐ私を捉えたまま、逃がしてくれない。
「ごめんね。けっこう人がたくさんで、待ち合わせ場所としてまずかったよね」
ハチが申し訳なさそうに言う。
「なんかこう、クリスマスっていうと、やっぱりクリスマスツリーかなって思っちゃって」
早速ハチに気を使わせてしまったことが申し訳なくて、私は慌てて言う。
「あの、〈MAHORA〉でなら、もっと身軽に動けるんだけど……」
「今日は、リアルな可琳と会いたかったから」
「……っ!」
さらっとそんなセリフ、言わないで!
さっきから心臓のドキドキが収まらないのに! まだまともにハチの顔すら見れないのに!
視線を逸らしたまま固まっていると、ハチは無邪気な笑顔で言った。
「早速、ご飯食べに行こうか。可琳が好きなパンケーキのお店、予約してあるんだ。ディナーも美味しいって評判みたいだよ」
「え……あのお店は……」
好き……すごく好き。
でも、あそこは――車椅子では入れない。
だからいつも礼美ちゃんたちと行くときは、〈MAHORA〉にログインしている。
「大丈夫。予約もしてあるし!」
違う! そういうことじゃないんだよハチ!
得意げなハチの笑顔を見ていたら、せっかくのお誘いに水を差すのが申し訳なくて、言葉が出てこない。
なんて言おう……。どう伝えたらいい?
戸惑っていると、ハチがふいに「車椅子、押してもいい?」と私の目を見つめた。
「う……うん」
正直、このあたりは小さな段差も多いから、押してもらえると助かる。そして――ハチが私の後ろに回ったことで、顔が見えなくなって、少しだけほっとした。
まだ、現実世界で普通にハチと話すことに慣れない。しかも、あんな別れ方をしたあとだし。
どうしてハチは、こんなに普通に話せるんだろう。私、嫌われてもおかしくないことをしたのに。
「じゃあ、出発!」
ハチの明るい声とともに、車椅子がゆっくりと動き出す。
ハチに背中を押される感覚が、なんだか不思議だった。
顔が見えない今なら、なんとか話せるかもしれない。
「ねえ、ハチ」
「ん?」
「私、ハチに……きちんと謝らないといけないことがあるの」
「……僕の前から消えたこと?」
ほんの少しの間を置いて、ハチが問う。
「それだけじゃなくて……ずっと、ハチを騙してたことも」
「騙してたの?」
ハチの声は、相変わらず穏やかだ。
「……ううん、違う。故意があったわけじゃない。でも、結果的に騙してたことになるのかなって」
パンケーキのお店は、ここから歩いてすぐのはずなのに、ハチは遠回りをしているようだった。人の少ない、広めの道を選んで、車椅子を押してくれている。
それがありがたくて。でも、同時に苦しくなる。
私はこんなふうに、優しくされる資格なんてないのに。
なんで、何もなかったみたいに、接してくれるの?
その言葉が、喉の奥にずっと引っかかっている。
けれど、なかなか口にすることができない。すると、ハチが静かに言った。
「あの日、僕が可琳に伝えたかったことを話すよ」




