【第十章】再び交わる世界(4)
「可琳……やっぱりシステム開発部に来ない?」
夕飯を食べていたとき、ママが突然、泣きそうな顔で言った。
私は箸を持つ手を止める。
「言ったでしょ。ハチとは距離をおきたいの」
「洵くん、会社辞めちゃったのよ……」
「え……?」
心臓がどくんと跳ねた。
ママは、「ただでさえ人手が足りなかったのに……お願い!」と拝むように私の顔を覗き込む。
「なんでハチ、辞めちゃったの? 理由は?」
「聞いても教えてもらえなかったの。もちろん引き止めたのよ? 同じ課のメンバーにも訊いてみたんだけど、理由はわからないみたいで……」
ママの話を聞いて、ずしりと胸が重くなる。
β世界でハチに別れを告げてから、もう三ヶ月。
あの日から、ハチとは一度も会っていない。ハチから連絡が来ることもなかった。
――結局ハチも、本当の私のことを知って、私から離れていった人たちと同じだったんだ。
……ううん、ハチは違う。
ハチを遠ざけたのは私だ。
自分から嫌われるようなことを言ったのに、勝手にハチを悪者にして……私は本当に最低だ。
あんなに楽しそうに仕事をしていたハチが、急に会社を辞める理由。そんなの、わかりきっている。
「……もしかしたらハチが辞めちゃったのは、私のせいかも」
吐き出した声は、あまりに弱々しく、情けなかった。
「私、ハチに酷いことを言ってしまったから――」
言いながら、喉の奥が熱くなる。
せっかくハチは、この世界で居場所を見つけて頑張っていたのに。
あの場所に居づらくさせたのは……私だ。
「私が――ハチの居場所を奪ってしまった……」
視界がじわりと滲む。
瞳から溢れた涙が、ぽつりとテーブルに落ちた。
「どうしたの? 可琳」
ママが慌てて私の肩を優しく抱く。
「ハチはせっかく私に会おうとしてくれたのに、もう会わないって、ハチに言ったの。私……一方的に最低な言葉をぶつけて……」
言葉を絞り出すように言った瞬間、胸が苦しくなった。
ママは泣き出してしまった私を抱きしめて、背中をトントンと優しく叩く。小さい頃から私が泣くと、いつもこうして慰めてくれた。
「少し前から様子がおかしかったのは、それが原因なのね」
「いつもそう。私がみんなの幸せを奪ってしまう……どうして私はいつも……大切な人を傷つけてしまうんだろう……」
涙が止まらなかった。
「パパとママだって……私が交通事故に遭わなければ、別れることはなかったのに……ごめんなさい……」
過去の記憶が押し寄せる。
ずっと、私の心の奥底にくすぶっていた罪悪感。
――あの日、私はパパの言いつけを守らなかった。
「ちょっとここで待ってろ」と言ったパパとの約束を無視して、私は駆け出した。
耳をつんざくような、クラクションの音。
次の瞬間、体に衝撃が走る。
「可琳……あなた、そんなふうに思っていたの?」
ママは驚いたように、私を見つめる。
「だって、私が交通事故にあってから、二人は喧嘩ばかりするようになった。ママがパパを責めて……でも、パパは悪くない……悪いのは……私……」
「違うわ」
ママの声が震えていた。
「ママたちが別れたのは、あなたのせいじゃない。ごめんなさい……あなたの前で、みっともない喧嘩を見せてしまって……。あのことがきっかけになったのは事実かもしれない。でも、それだけじゃないの」
「でも、それまでのパパとママは、とても仲が良かったでしょ?」
ママは深くため息をついた。そして、静かに語り始めた。
「私達はもう、とっくにダメになっていたの。あなたに夫婦喧嘩なんて見せたくなかったから、可琳の前では仲が良いふりをしてた。でもね……本当はずっと無理をしていたの。可琳が大きくなったら離婚しようと思ってた。それが少し早まっただけ」
ママは一度言葉を切り、目を伏せる。
「でも今思えば……早くに離婚できてよかったと思ってる。あなたには片親で寂しい思いをさせてしまったけれど、家族のことを大切に思わない人と一緒にいても、みんな不幸になるだけだもの」
「私の……怪我のせいじゃないの?」
「そうよ。これは、私達夫婦の問題。可琳は関係ない。ずっとそんな辛い思いを抱えていたのね。気づかなくてごめんなさい」
ママは再びぎゅっと私を抱きしめる。温かくて、心が和らいでいく。
「初めは二人、愛し合ってたんだよね? それでも、別れちゃうんだ」
「どうにかできないかとたくさん悩んだし、考えた。でも――こればっかりは仕方のないことよ」
ママは少し寂しそうに微笑む。
「でもね、もちろんママはパパを愛してた。だから結婚したし、可琳が生まれた。とっても幸せだった。あの頃の幸せに嘘はない。ただ、その幸せが続かなかっただけ」
ママの話を聞いていたら、あの頃の光景が浮かんだ。
ハチと一緒に、元気に駆け回った日々。
一緒に見た、美しい花火。
あの頃は毎日が楽しくて、幸せだった。
私たちの幸せも、続かなかっただけ……。
そういうことなのかな。
でも、あの頃の気持ちは本物だった。私も……そして、きっとハチも。
「ママ……私、システム開発部に行ってもいいよ。私のせいでハチがいなくなっちゃったんだし」
「だから、それもあなたのせいじゃないでしょ? 会社を辞めるって決めたのは八幡くんなんだから。なんでも自分のせいにするんじゃありません! そういうところを可琳はなおしていかないと」
ママが少しだけ口調を強めて言った。
私は黙って俯いた。ママの言葉はもっともだ。でも、私が関係していることは事実だし――
「……可琳がシステム開発部に来てくれるのは嬉しいけど――ねぇ、八幡くんと、一度きちんと話した方がいいんじゃない?」
ママの声が優しくなる。
「ママは何度か八幡くんと話したときに、あなたへの想いの強さをとても感じていたの」
私は静かに首を振った。
「ハチにその気があるのなら、私に連絡をくれるはずでしょ? もうハチは、私のことなんか忘れて、新しい人生を歩んでるんだよ」
「あなたはそれでいいの?」
「私から距離を置いたんだもん。これでいいんだよ。ハチの隣にいるべき人は、私じゃない」
自分で言いながら、胸の奥が苦しくなる。心の奥がざわついた。
ママは小さく息をついて、それからハチの話はしなかった。
食事を終え、私は自室に戻ってきた。
小さい頃から、ママたちが離婚したのは、自分のせいだと思っていた。
でも、ママの話をきいて、それは違うとわかった。
――私のせいじゃなかった。
そう思えたのに、なぜだろう。軽くなったはずの心に、今度は違う痛みが生まれた。
パパは離婚してから、一度も私に会いに来てくれない。
それはつまり、パパも、私から離れていったということだ。
私は――パパに愛されていなかった?
胸がきゅっと痛む。
パパと一緒に暮らしていた日々を振り返る。
一緒にごはんを食べたり、お出かけしたりしたけれど、いつも話しかけるのは私の方からで、パパの興味はいつも、テレビやスマホだった。
もし、私から何も話しかけなかったら?
パパは私のことを、気にかけてくれただろうか?
厳しいことを言われたり、嫌な思いをしたことはない。でも、悲しいとき、辛い時、慰めてくれたのはいつもママで、パパは、私と関わろうとしていなかったのだと、気づいてしまった。
パパは、いつからママと私に興味がなくなったんだろう。
……もしかしたら、最初からなかったのかもしれない。
私が大好きな人達は、みんないつの間にか、私から離れていく。
きっとハチも、私への興味がなくなったんだ。だからあれから、なんのリアクションも起こさない。
……そうだよね。
あんなに酷い言葉を投げつけた私のことなんか、気にするはずがない。
こんなに辛い思いをするなら、もう新たに、人との関係を作るのはやめよう。
どうせいつか、離れていってしまうんだ。
だったら初めから、近づかなければいい。
もうこれ以上、苦しい思いはしたくない。
現実世界は、とても冷たくて苦しい。
ハチの世界は、あんなにも優しさで溢れていたのに。
急に、ハチの世界が恋しくなった。ハチのお父さんが作った、どこまでも優しい世界。
「窪くんのラーメン、また食べたいな」
仕事終わりに顔を出すと、ハチと窪くんの温かい声が飛んでくる。
優しい人たち。ハチと並んで歩いた帰り道。二人の間を心地よく吹き抜ける風。満点の星空。
現実はこんなにも苦しいのに、あの世界だけは、私を優しく包みこんでくれた。
――ハチは今でも、あの世界に行っているんだろうか。
私は、古いアルバムをめくるような気持ちで、β世界のログを見る。
もしハチがいなければ、少しだけ、β世界に行ってみようかな。
あの日以来、ハチがログインした形跡はなかった。
ハチは私みたいに、現実逃避なんてしない。
ハチはやっぱり、しっかりと自分の人生を歩んでいるんだ。
「ほんとハチは、かっこいいな……」
関係は終わったと言いながら、私ばかりが、ハチの面影を追って、いつまでたっても忘れることができない。
そんな自分が情けなくて、思わず苦笑いが溢れる。
ログを見ていく手が、ふと止まった。
「……え?」
ログの中に、私の弟――圭の活動履歴がある。
おかしい。ハチのお父さんが亡くなった日に設定が更新されてから、ずっと動きがなかったはずなのに。
私は、圭のログを見ていく。
ハチが現実世界で目を覚まして、その後に初めてβ世界にログインした日から、圭は動き始めていた。そして、ハチがログインしているときは、圭も活動している。
――このログから読み取れることは……。
「ハチと圭は、β世界で会っていたの?」
胸の奥がざわめいた。
私は急に圭のことが気になり、圭の今の座標を調べる。
そして次の瞬間には、β世界にログインしていた。




