【第十章】再び交わる世界(3)
ハチに自分から別れを告げて、彼を遠ざけたのは私なのに。
まるでハチに振られたみたいに、心がずっと、ハチを求めて泣いていた。
仕事も、友達とのチャットも、努めて明るくしていたけれど、さすがにママには隠しきれず、めちゃくちゃ心配された。食欲も落ちていたし、ほんとは全然大丈夫じゃなかったけれど、ママには「大丈夫だから」と笑顔を見せて、何を訊かれても答えなかった。
そんな日を数日過ごしていたら、礼美ちゃんからメッセージが届いた。
『こないだできたパンケーキ屋さん、めっちゃ美味しいらしいよ! お姉ちゃんも行きたいって言ってたし、三人でどう?』
少し迷った。
正直まだ、そんな気分じゃない。けど――このままじゃ、だめだよね。
私はOKの返事を出した。
ただ、残念ながらそのお店は、入口に段差があったり、店内がとても狭く、車椅子では入れないみたいで、〈MAHORA〉で会うことになった。
このあたりで、こんなにオシャレなお店はあまりなく、お店の前に立った瞬間、私の気分はふっと軽くなった。
「わあ……!」
思わず声が漏れる。
キラキラした店内。可愛い制服を着た店員さん。メニューを開くと、美味しそうなお料理と、色鮮やかなパンケーキがずらりと並んでいる。久しぶりに、心がわくわくした。
〈MAHORA〉がなければ入れなかったお店。
以前は、この高鳴る感情を押し込めて、我慢するしかなかった。
でも今は、入りたいお店に入れる、このありがたさが身に沁みる。
隠しているつもりだったけど、私の元気がないことは、二人に伝わってしまっていたようだった。
「誘ってくれてありがとう」
と私が言うと、二人は嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見たらなんだかほっとして、胸の奥がじんわりと暖かくなった。
三人で会うのは久しぶりだったので、雑談しながら、パンケーキを食べ始めた。
ナイフを入れると、ふわりと湯気が立つ。しっとりふわふわの生地に、アイスがとろりと溶けていく。ストロベリーソースを絡めて、一口頬張ると――。
ふわっ。とろっ。
口の中で、あっという間に溶けてしまった。
優しい甘さと、ストロベリーのほんのりとした酸味が絶妙で、思わず目を細める。
――これが、幸せの味!
「おいしすぎる~」
ほっぺがとろけるという表現は、こういう時に使うのだろう。私だけでなく、二人の顔も、とろけてしまいそうだった。
2枚目のパンケーキを食べ始めたあたりで、佐奈ちゃんがふと訊ねた。
「そういえば可琳、どうしてプロジェクト抜けちゃったの?」
「うん……他の進行中の案件がちょっと立て込んでて……ママにお願いして抜けさせてもらったの」
「そうなんだ。大変そうね」
「今はだいぶ落ち着いてきたかな」
――嘘。
本当はハチのそばにいるのが辛くて、逃げただけなのに。
フォークを持つ手がほんの少し震えた。
佐奈ちゃんは私の嘘に気付いた様子もなく、話を続ける。
「この間、八幡くんとごはん食べたんだけどね……八幡くんも可琳のこと、心配してたよ?」
「え……」
ハチの名前が出た瞬間、思わずフォークを落としそうになった。カチャンと食器がぶつかる音が響く。動揺を隠すように、慌てて言葉を吐き出す。
「そ、そうなんだ。大丈夫って伝えておいて」
必死に平静を装ったけれど、胸の奥がチクリと痛む。
――そうか、ハチは、佐奈ちゃんとランチに行くような仲になったんだ……。
私はもう、ハチとは終わったんだ。
何でもない顔をしようとしているのに、喉の奥が少しだけ苦い。
今度は礼美ちゃんが口を開く。
「八幡くんって、可琳が小さいときから時々お見舞いに行っていた人だよね。元気になってよかったね」
「うん……」
少しの静寂のあと、突然礼美ちゃんが大きな声を出した。
「ああああもう、めんどいからはっきり訊いちゃうね!」
フォークとナイフをテーブルに置き、腕を組む礼美ちゃん。
その勢いに圧倒されて、私も思わずパンケーキを切るのを止め、手を膝に置いて背筋を伸ばした。
「八幡くんのこと、好きなんだよね?」
突然の直球に、言葉が出ない。
どう答えたらいいかわからなくて、目を泳がせてしまう。
何も言わない私に、礼美ちゃんがさらに畳み掛ける。
「可琳にとって八幡くんは、とっても大切な人なんだろうなって思ってたんだよ。何かわけありっぽいから、深くはつっこんで訊かなかったけど。退院して、同じ会社に入ったってお姉ちゃんから聞いたときはびっくりした。でも、なんとなく二人は、いい感じになったんだろうな。よかったって思ったんだよ」
「うん……」
私は相槌を打つだけで精一杯だった。
「で、もう一回訊くね?」
礼美ちゃんが、まっすぐに私を見つめる。
「八幡くんのこと、好きなの?」
私はゆっくりと頷く。
「……好き……だった。でも今はもう……彼とは、関係ない」
静かにそう言ったつもりだったのに、最後の言葉が喉の奥で震えた。
はぁ……と、礼美ちゃんの小さなため息が聞こえる。
「今は好きじゃないってこと?」
……違う。
でももう、終わったこと。
終わらせたのは私だ。
私は何も言えず、視線を落とす。
「まあまあ、礼美」
佐奈ちゃんが、そっと場をなだめるように口を開く。
「きっと二人には、私たちの知らない事情がたくさんあるんだよ。だから可琳、無理に話さなくていいよ」
佐奈ちゃんの温かい言葉が心に響き、私はようやく、小さく息を吸い込み言葉を紡いだ。
「ハチ……八幡くんはね。小さい頃、少しの間だけ遊んだお友達なの。とっても大切なお友達。今はそれだけだよ」
「とりあえず、大切な人ってことでいいわけね」
礼美ちゃんは、まだ納得できていないような顔をしながらも、それ以上は追求しなかった。しょんぼりしている私にそう言うと、再びパンケーキを食べ始める。
「八幡くんには、幸せになってほしい。せっかくこの世界で、生きていけるようになったんだから」
この言葉は嘘じゃない。本当の気持ち。
でも、それならどうして、こんなに胸が痛いんだろう。
二人はそれ以上、ハチの話はしなかった。
私は、パンケーキを口に運びながら、自分に言い聞かせる。
ハチには幸せになってほしい。
今の私は、彼を幸せにできない。
だから、彼のそばから離れた。
――うん。これは、とても正しい選択だ。
そう自分に言い聞かせるように、フォークを強く握る。
ハチは佐奈ちゃんと、時々ランチに行くようになった。
もともとβ世界の私と佐奈ちゃんは似ている。
もしかしたら、いつかハチは、佐奈ちゃんと付き合うのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥に痛みが走った。
心が小さく、ぎゅっと縮こまる。
でも――それでいい。
私が大好きな、綺麗で優しい佐奈ちゃんなら、きっとハチを幸せにしてくれるはずだから。
今日、みんなの前で気持ちを吐き出したら、すっきりした。
やっぱり、私はハチから離れて、正解だった。




