【第十章】再び交わる世界(2)
定食屋さんに入ると、店員さんに「こちらにどうぞ」と案内され、四人がけのテーブルへ向かう。
席につこうとした瞬間、気づけば目の前にハチが座ってしまい、思わず胸がドキリとした。目のやり場に困り、テーブルに視線を落とし、無理やりメニューに集中する。
――あああ、メニューが全然頭に入ってこない!
田中さんお勧めの日替わり定食に決めて、注文を終えると、田中さんが手際よく、おしぼりと箸を配ってくれた。
――大丈夫、落ち着こう、落ち着こう
指が自然と箸袋を手に取り折り始める。こうして何かに集中していると、ほんの少しだけ気が紛れる。
「あの、先日は突然呼び止めてしまってすみませんでした。知り合いに似ていたもので」
ハチが突然話しかけてきて、私は思わず顔を上げる。
視線がぶつかった瞬間、心臓が跳ねる。
「大丈夫です。少し驚いただけなので」
そう答えるのが精一杯だった。
ハチと目を合わせるだけで心臓が飛び出しそうになる。
これ以上目を合わせていたらどうにかなってしまいそうで、すぐに下を向く。
――無理だ! 無理無理無理!
ハチと普通に話すなんて、今の私には絶対無理だ!
どうしてハチの世界では、あんなにすらすら話せたんだろう。
ハチは本当にかっこよくなっていた。
見た目が、というよりも雰囲気が。
どこか凛々しくて、前よりも堂々としている。
表情が引き締まって、目の奥に迷いがない。
頑張って生きている人の顔だ。それに比べて、私は――。
思わず下を向き、箸袋を握りしめる。
佐奈ちゃんが、いつも以上に人見知りを爆発させている私のフォローを必死にしてくれている。ううう、ありがたい。でも、お願い。今は私に話を振らないで……そっとしておいて~……
ハチが他の人と話しているすきに、そっとハチの顔を盗み見る。
ほんの一瞬だけ見えた、あの笑顔。
ああ、ハチの笑顔だ。
ずっと、ずっと大好きだった笑顔。
もう二度と見ることができないと思っていた、あの笑顔が、今、目の前にある。
胸がぎゅっと締め付けられる。
嬉しいのに、苦しい。
目を逸らさなきゃと思うのに、心とは裏腹に、その笑顔に釘付けになってしまう。
ダックスフンドの箸袋が完成して、そっとテーブルの上に置く。
「あ、また折ってるー。可愛いよね」
佐奈ちゃんが気軽に声をかけてくる。
だから佐奈ちゃん~私のことはほっておいて~!
「ついクセで折っちゃうんだよね」
そう言ってまた下を向く。なのに気づけば、みんなで箸袋を折る流れになっていた。
みんなに折り方を教えているうちに、緊張が少し解けてきた。
ハチが途中で困っていたようで、私は迷いつつ、手を伸ばした。
「ここを、こうだよ」
一瞬、ほんの少しだけ、ハチの指先が触れた。
たったこれだけのことで、私の心臓は再び暴れ出す。
「あ、なるほど」
ハチは嬉しそうに微笑んだ。
この心臓の音、ハチに聞こえていませんように。
心臓は相変わらずうるさいけれど、みんなで箸袋を折っているうちに、前より緊張がほぐれて、ハチとも少し話せるようになってきた。
こんなところで、昔ママと遊び倒した折り紙知識が役に立つなんて! ママ、ありがとう。
食事を終える頃には、たわいのない日常会話程度なら、みんなと話せるようになっていた。
もちろん、ほとんど佐奈ちゃんと田中さんが盛り上げてくれたおかげだ。会話が弾む空気の中で、私も自然と楽しめた。
なにより、ハチが会社で充実した日々を送っていることがわかって、嬉しかった。
帰り道。
佐奈ちゃんと田中さんが並んで歩き始めたので、成り行きで私とハチが並ぶことになってしまった。
少し緊張したけれど、佐奈ちゃんも田中さんも、振り向きながら私たちに話を振ってくれる。そのおかげで、食事の時と同じように、楽しく会話することができた。
ふいに――ハチの声が変わった。
「時安さん」
ワントーン低く、そして静かに。
「今日の夜、六時五十分に、β世界の、あの河原で待ってます」
――え?
思わず足が止まりそうになる。
頭が真っ白になった。
――今、なんて?
「意味がわかったら来てください」
ハチは、私の目をまっすぐに見つめていた。
――β世界。
その言葉が、現実世界のハチの口から出るなんて思わなかった。
どうして?
ハチはやっぱり、気づいてるの? 私が――β世界の「可琳」だって。
驚きすぎて、何も言えなかった。
ただ、ハチの顔を見つめることしかできなくて――
するとハチは、ふっと微笑んだ。
「あ! 意味がわからなかったらスルーしてください。忘れてください」
その言い方は、まるで試すような……あるいは、確かめるような響きを含んでいて。
「これから一緒に頑張りましょうね」
軽やかに言い残し、すぐに田中さんたちと話し始めてしまった。
私は何も言えないまま――会社の前でハチたちと挨拶を交わし、ログアウト画面を開く。
指が、迷う。
さっきまでの楽しさが嘘みたいに、心がざわつく。
――私、どうしたらいいの?
答えが出ないまま、私は〈MAHORA〉からログアウトした。
自室に戻ってきた私は、ベッドに横になった。
天井をぼんやり見つめながら、ハチの言葉の意味を考えていた。
――どうしてハチは、あんなことを?
ハチは、私がβ世界での記憶を持っていると仮定して話していた。
私は何も言っていないのに。――もしかしたらママが話した? でも、確信しているわけじゃない。むしろ、私があの場所に来るかどうかで、確かめようとしている。
私は行くべき?
もし行ったら、私はβ世界の可琳だと認めることになる。
その時点でごまかしは効かない。
そしたら、現実世界の私たちの関係はどうなるんだろう。
姿が違うことを、聞かれたりするのかな。
それとも――
ふと、最悪の想像が頭をよぎる。
――『僕を騙してたの? 可琳』
胸がきゅっと締め付けられた。
そんなこと、ハチが言うわけないのに。
――『僕が愛した可琳を返して』
……やめて!
どうしてこんな悲しい妄想をしちゃうの?
ハチはそんなこと、言わない。絶対に。
でも……
結果的に、私はハチを騙していた。
それは事実だ。
ハチが真実を知ったら……?
私の姿は、β世界の可琳とは違う。
現実の私は、あんなに美人じゃない。
ましてや――足に障害もある。
『可琳は、綺麗になったね』
ハチがくれた言葉を、私は素直に喜べなかった。
β世界の私を見て、言った言葉だから。
本当の私は、綺麗なんかじゃない。
見た目だけじゃなく、心だって醜い。
今だって……心のどこかで、「ハチが目覚めなければ、私たちはハチの世界で幸せに過ごせたかもしれない」なんて、そんなことを考えてしまう。
最低だ。
目を閉じた瞬間、涙が頬を伝った。
私はもう、ハチが好きだった可琳になれない。
ハチが好きになった可琳は、もう、どこにもいないんだ。
β世界にも。現実にも。
*
仕事を終えて、ふと、時計を見る。
ハチとの約束の時間はもうすぐだ。
「全てを……終わらせてこよう」
震える指で操作し、β世界へとダイブする。
そして――
私はハチに、さよならを告げた。




