【第十章】再び交わる世界(1)
「可琳、今日、洵くんがうちに面接に来たのよ」
晩ご飯を食べているとき、ママがふと話し始めた。
箸を持つ手が、わずかに止まる。
「そうなんだ……採用するの?」
「うん。うちの部に来てもらおうと思ってる。洵くん、リハビリも頑張って、そのあとはプログラミングの勉強も熱心にしていてね」
「すごいね、ハチ。お父さんみたいになるのかな」
動揺を悟られないように、努めて平静を装ってみせる。
ママが少し間を置いて、静かに言う。
「……ねえ可琳。本当に洵くんとはもう会わないの?」
答えは決まっている。
「会えないよ……今さら……どんな顔して会えばいいかわからない」
どんな顔……ふふ、本当にその言葉の通りだ。
「それに会ったとしても、ハチは可琳だって気づかないよ」
もうずっと、β世界のログも見ていない。ハチのことを必死に忘れようとしているのに、ママは時々ハチの近況を教えてくれる。
でも、私はそのたびにネガティブな言葉を返すから、決まってしょんぼりしてしまう。
わかってる。ママはただ、私に幸せになってほしいだけ。
ハチは凄い。
どんどん現実世界で、自分の人生を切り開いて行く。
私がいなくても、きっとハチは大丈夫。
すぐ隣りにいたハチが、今は遠い。手を伸ばしても、もう届かない気がする。
同じ世界にいるはずなのに、まるで別の世界の人みたいだ。
「洵くんが入社したら、可琳とどこかで会うことがあるかもしれないわね。そしたら洵くんともう一度友達から――」
「ママ……変な気を使わないでね」
少しだけ、口調を強める。
「私は基本リモートだし、案件がかぶらなければ、ハチと会うことはないよ」
ママが小さくため息をついた。
「洵くん……目を覚ましたとき、可琳にとても会いたがっていたのよ」
胸がチクリと痛む。
それでも、私は答えを変えられない。
「だからそれは何度も聞いたし、何度も言ってるでしょ」
声が震えそうになるのを必死に抑える。
「ハチが会いたい可琳は、私じゃないの!」
言葉を放った途端に、後悔が押し寄せた。
わかってる。ママは悪くない。
ハチの話になると、私は心がモヤモヤして、いつもママと喧嘩みたいになってしまう。
私が頑固なのがいけないってわかってる。
本当は、ハチに会いたい。
でも、会えない。
この気持ちだけは、いくら考えても整理がつかない。
ハチが目を覚ましてから、私は時々、β世界のログを見ていた。
でも――ハチは、あの日以来、一度もログインしていなかった。
わかっていた。
もう、この世界は、ハチにとって必要のない世界なのだと。
つまり、そこにいた私も、もうハチには必要のない存在なのだ。
ハチはとっくに現実を生きている。
いつまでも、あの世界に囚われているのは私だけだ。
私もハチのように、β世界のことは忘れて、前を向かなくちゃいけない。
だから私は、目の前のタスクを淡々とこなすことにした。仕事で頭をいっぱいにしていれば、ハチのことを考えずに済む。
少し前に戻っただけだ。
ハチの世界に再びログインする前の私に。
ハチがいない現実に、戻っただけ。
何度も、そう言い聞かせた。
そうやって、時間をかけて、少しずつ気持ちを切り替えて、ようやく少しだけ前を向き始めた――はずだった。
だけど――。
私たちは、再び出会ってしまった。
*
「どうぞ」
会社のエレベーターで、久しぶりに、ハチの声を聞いた。
そのたった一言で――
僅か数秒目があっただけで。
今まで必死に積み上げてきた心の壁が、一瞬で崩れ去る。
感情が決壊する。
胸が痛い。
息が詰まる。
頭の中が、ハチでいっぱいになる。
抑えようとするほど、感情が溢れ出して止まらない。
ダメだ。こんなはずじゃなかったのに。
ハチ。
……そう、彼を呼べたら。
ハチ、元気そうだね。
……そう、笑顔で言えたら。
ハチ――
約束、守れなくてごめんね。でも私は今でも、こんなに……
ハチのことが好き。
大好き。
だけど。
ハチはもう、私のことなんか忘れて、ちゃんと前を向いているんだね。
私も、忘れなきゃ。
ハチのことはもう、思い出にしなくちゃ。
そう、思っていたのに――
「可琳!」
――ハチが、私の名前を呼んだ。
心臓が一気に跳ね上がる。
どうして?
どうしてハチは、私の名前を?
どうして私だとわかったの?
ハチのまっすぐな瞳が、焼き付いて離れない。
*
「可琳? 何かあった?」
ハチと再会した夜、晩ご飯を食べていたら、ママがふいに訊いてきた。
ママはやっぱりすごい。
目元を冷やして、晩ご飯までに、なんとか顔を整えたつもりだったのに。
泣いてたことがわかってしまったみたい。
「今日ね、久しぶりに出社したんだけど……会社でハチにばったり会ったの」
「まあ!」
ママの目が一気に輝く。
「私からは何も言わなかったのに、ハチ、私が可琳だって気付いたみたいで。どうしてかな……」
「まあまあまあ!」
ママは、信じられないくらい嬉しそうだった。
私の気持ちはこんなにもぐちゃぐちゃなのに。
「それって洵くんが、現実世界の可琳に気づいたってことよね。すごいじゃない! ほら、だから洵くんと一度ゆっくり話したほうが――」
「ママ!」
私は全力で首を横に振った。
「絶対に私がβ世界に行ってたってことは内緒にしてね!」
ママの表情が、少し曇る。
「どうして……?」
「自信がないの……現実の私はこんなだから……ハチに好きになってなんかもらえない」
「そんなの、話してみなくちゃわからないじゃない」
「無理だよ!」感情が溢れて、声が震える。「それに私は、ハチに会う資格なんてない!」
ママが箸を置いた。カチリと小さな音が響く。
「どうして初めから無理って決めつけちゃうの?」
その問いに、私は何も言えなくなった。
そう。無理って決めつけてるのは私。
真正面からハチと向き合うのが怖くて、逃げてるのは私。
ちゃんと、わかってる。
――情けない。だからこそ、なおさら。
ハチに、合わす顔がない。
「じゃあ、お互いはじめましてから始めればいいわけね。昨日知り合った同僚。でしょ?」
「それは……でも、私はリモートだし、ハチとの接点はないから――」
ママが何か考えながらご飯を食べている。
「ママ……変なこと考えないでね」
「お仕事のことを考えていたのよ」
そう言って、ふふっと意味深に微笑む。――嫌な予感がする。
*
絶対、ママの仕業だ。
新しいプロジェクトの、メンバー顔合わせに出たら、そこにハチがいた。直前までメンバーが知らされなかった時点で、おかしいな、とは思っていた。
余計なことはしないでって言ったのに……。
私は、ハチと目を合わさないように気をつける。とにかく視界からハチの存在を消した。
深く息を吸って、会議に集中する。大丈夫。私は仕事をしに来ただけだ。
プロジェクトの説明が進んでいく。
一度でも目が合ってしまったら、気持ちが崩れ落ちそうで。私はモニターの資料を食い入るように見つめ、ひたすらメモを取る。
視界の端に、ハチがいるのがわかる。
何度か、こちらを見ている気配がして、心臓が跳ねた。
気のせい……気のせい……落ち着け可琳。
なんとか会議を無事に終え、ほっとしたところで、隣の佐奈ちゃんが話しかけてくる。
「可琳、このあとランチどうする?」
「あ、行くー。どこにし――」
「あの、よかったら一緒にランチ行きませんか?」
――!?
驚きすぎて、呼吸が止まりそうになる。ハチが急に、私たちに声をかけてきた。
目を見開いたまま、固まる私。佐奈ちゃんも、「え?」と目を瞬かせている。
ハチがまっすぐ私を見ている。
何か言わなきゃと思うのに、声が出ない。
気づけば、あれよあれよと話がまとまり、私と佐奈ちゃん、それにハチと、彼の指導係の田中さんの四人で、ランチに行くことになってしまった。
気のせいかもしれないけど、ハチがとても優しい笑みを浮かべながら、ちらちらと私の顔を見ている気がする。私は、とにかく目を合わせないようにと、できるだけ下を向いて歩いた。
よくよく考えたら、ハチが知っている私は、どちらかというと佐奈ちゃんにそっくりだ。ハチは私じゃなく、佐奈ちゃんのことが気になっているのかもしれない。むしろ、その流れの方が自然じゃない?
ランチに誘いたかったのは、佐奈ちゃん。
私は、ただその隣にいただけ。
そう思った途端、すっと心臓が冷え、さっきまで暴れていた心音が、急に落ち着いてきた。
変に、期待も意識もしちゃだめだ。
そう、自分に言い聞かせる。




