【第九章】さよならを告げた世界(2)
ハチが働いているラーメン屋さんの扉を、元気よく開ける。
「こんばんはー。ハチ、昨日はごめんね」
そう、笑顔で言った瞬間――
「可琳!」
ハチの大きな声が店内に響き、私は一瞬で注目を浴びた。
思わず肩をすくめる。周りのお客さんがこちらをチラチラと見ている。
「ちょ、ちょっとハチ! そんな大声で呼ばないで。恥ずかしいから……」
私は小声で抗議するが、ハチはまるで気にする様子もなく、嬉しそうに私を見つめている。
――まったく、もう。
でも、その顔を見ると、怒る気にはなれない。
窪くんが気を利かせてくれたのか、ハチは仕事を上がることになり、私たちは居酒屋で晩ご飯を食べることになった。
夜、ログインしたとき、ハチからのメッセージがたくさん届いていた。
『おはよう可琳 お母さんとの話はどうだった? 大丈夫?』
『何かあった? 返信もらえると嬉しい』
『何度もごめん 既読にならないから心配で 今日は仕事忙しいのかな 無理しないでね』
読んでいるうちに、じんわりと胸が温かくなる。
……心配させちゃったなぁ。
申し訳ない気持ちとともに、ふわりと込み上げてくる幸福感。
ああ、私、こんなに愛されてるんだなぁ——って。
今日はハチと、いつも以上にたくさん話した。
小さい頃の思い出とか、お互いの家族のこととか。
けれど、ハチのお父さんの話になった途端、ハチの表情が沈んだ。
「仕事ばっかりで、遊んでもらった記憶もあんまりないし、僕に興味なんてなかったんだと思う」
静かな口調だったけど、その言葉からは痛みを感じた。
ハチはやっぱり、お父さんのことが嫌いなようで、私は悲しくなる。いつかこの誤解が解けたらいいなと思う。ハチのお父さんが、ハチのことをどれだけ愛していたか、ちゃんと伝えることができたらいいな。
そして、ハチと話していて、すっかり忘れていたことを思い出した。
「可琳って……一人っ子だったっけ」
「ん? そうだけど?」
「弟が……いない?」
ハチの何気ない問いに、ドキリとした。
……弟? ――そうだ、私、ハチのお父さんにお願いして、β世界に弟を作ってもらったんだった!
ハチとばかり遊んでいたので、せっかく弟を作ってもらったのに、あんまり遊んであげてなかったなぁ……
申し訳なさとともに、ふと疑問が浮かぶ。
――今、弟はどうなっているんだろう?
私のデータは全て削除されている。ということは、もしかすると弟も?
家に帰ったら調べてみよう。
居酒屋を出て、家まで送ってもらう途中、急にハチがぽつりと呟いた。
「可琳、明日の土曜日は仕事休み?」
「うん」
「じゃあさ、明日、夕方の六時五十分。この間、二人でお弁当を食べたあの河原で会えないかな」
「うん。いいけど……ふふ。何? その中途半端な待ち合わせ時間」
「大切な話があるんだ」
――大切な話。
デートの誘いかと思ったのに、ハチの真剣な眼差しにドキリとする。
ハチの視線に吸い寄せられて、目が離せない。けれど、だんだん恥ずかしくなってきて、私は思わず目を逸らしてしまった。
「わかった」
頷くのが精一杯だった。恐らく顔は真っ赤になっている。
なんだろう、大切な話って。
良い話? それとも……。
――また私の悪い癖。すぐネガティブに考えてしまう。
大丈夫だよね? 私たち。これからも、ずっと一緒にいられるよね?
「じゃあ明日、六時五十分に、あの河原ね」
そう言うと、ハチは静かに微笑んだ。
「うん。待ってる」
その笑顔はとても優しくて……。うん、大丈夫。きっと嬉しい話だ、と思う。
ドキドキしてきた。もったいぶらずに、今話してほしい!
そんな気持ちを抱えながら、ハチと別れた。
期待してもいいのかな。
ハチが嬉しい言葉をくれるって。
わくわくと不安が半分半分。
明日が、とても待ち遠しい。
ログアウトしてからカレンダーを見て――私は思わず息を呑んだ。
明日は花火大会だ。
もしかして、ハチは明日、私と花火を見ようとしているの!?
胸が高鳴る。そこでする、大切な話って――
浴衣……着ていったほうがいいかな。せっかくだし、ハチに見てもらいたい気もする。――でも河原は足場が悪いし、転んだら恥ずかしいし……うん、無理はせずに普通の服装で行こう!
それにしても、あの中途半端な待ち合わせ時間が気になる。
大切な話って、一体何なんだろう?
考えるだけで、胸がドキドキする。
……そうだ、明日のことも気になるけど、まずは私の弟のことを確かめないと!
私はβ世界のデータを調べてみた。
すると『圭』という名前でデータが残っていた。
私のデータが削除されるまでは、圭の行動ログも記録されている。でも、それ以降、圭のログは見当たらない。動作が停止している。
単純に、削除し忘れたのだろうか――ただ、私がログインできなくなったその日、圭のデータが更新されていた。
妙な違和感がある。
少し悩んで、圭のデータはそのまま残しておくことにした。
リビングにお茶を飲みに行くと、ちょうどママが晩ご飯を食べ終わったところだった。
「可琳、ご飯ありがとう。美味しかったわ」
「どういたしまして。ねえママ、ハチはどうして、お父さんのことが嫌いなの? あんなに素敵で優しいお父さんなのに」
ママの手が、一瞬止まった。
「……ママも詳しくはわからないけどね」
そう前置きをしてから、ゆっくりと口を開いた。
「八幡くんは……『自分は洵くんを傷つけてしまった』って言ってたわ。だから、……もう会う資格はないって。そんなふうに言われたら、何も言えないわよね」
ママの表情が歪んだ。
「でも、洵くんはお母さんのことが大好きだったらしいから……これでよかったのかもしれないけれど……切ない話よね」
苦しそうに言うママを見ながら、私は静かに考える。
確かにハチが、大好きなお母さんと幸せに暮らしているのなら、それでいいのかもしれない。
でも、病室で見た、ハチのことを想うお父さんの、あの優しい眼差し――私は忘れられない。
だから私は、ハチに伝えたい。
お父さんがどんなに素敵な人だったのか。
どんなにハチを大切に想っていたのか。
それを、少しずつでも。
誤解があるのなら、それを解きたい。
このまま、すれ違ったままなんて、あまりにも悲しすぎるから。
そのとき、ママのスマホが鳴った。
「あら病院からだわ。こんな時間に何かしら」
メッセージを確認したママが、突然、声を張り上げた。
「可琳!」
「わあ! びっくりしたー。何?」
「洵くんの脳波に変化があったみたい!」
ママの声が震えている。
「もしかしたら、意識が戻るかも……って!」
その瞬間――私は、全身が硬直した。
ハチの意識が……戻る……?
普通なら、嬉しいはずなのに。
なのに、どうして。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
私は……私は、ハチの意識が戻ると聞いて、嬉しい気持ちよりも先に、激しく動揺した。心が揺れに揺れて、どうしたらいいかわからなかった。
*
翌日、ママと私は、ハチの主治医に話を聞きに行った。
ハチの脳波は昨晩から正常に戻り、夜に一度目を開けたものの、すぐにまた眠ってしまったらしい。
けれど、もうすぐ意識が戻るだろうということだった。
話を聞き終え、相談室から出たママは、ぱっと明るい笑顔で私に言う。
「可琳! よかったわね。洵くん、目が覚めるのよ!」
私は昨日、一晩考えた。ハチとの、これからのことを。
喜ぶママの手を、私はぎゅっと握った。
「ママ……」
ママの目をまっすぐに見据える。
「どうしたの?」
ママはしゃがむと、目の高さを私に合わせてくれた。
「私、この世界ではハチに会えない。もし、ハチの意識が戻ったら……私はいないって伝えて」
ママの顔がゆっくりと曇る。
「どうして?」声には戸惑いが滲む。「可琳は洵くんのことが好きなんでしょ? 洵くんだって。それなら――」
「違うの。ハチが好きな可琳は、ハチの世界の可琳で……現実の私じゃないから……」
言葉にした途端、喉の奥が苦しくなる。
声が震える。
目の奥が熱くなる。
「こんな姿じゃ……会えないよ……」
瞳から涙が溢れ出した。
「可琳……」
「お願い……お願いだから……この世界に、時安可琳はいないことにして……」
ママは、ただ静かに私を見つめていた。
「ハチが好きな可琳は……この世界の私じゃないの……」
自分で言った言葉に、心が引き裂かれるようだった。
ママが、私の手をそっと握り返してくれた。
「可琳……」
私の涙はとどまることを知らず、嗚咽が交じり始める。
ママはゆっくりと、私を抱きしめた。
「この話は、家に帰ってから、ゆっくりしましょう」
優しく撫でられる髪。その温かさが、余計に苦しかった。
優しくしないで。こんな醜い私に。
ハチの意識が戻ると聞いた時、私は――
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、こう思ってしまった。
このまま、ずっと意識が戻らなければいいのに。
その瞬間、自分がとてつもなく恐ろしいものに思えて、背筋が凍りついた。
……なんて、醜いのだろう。
こんな私は、ハチを好きになる資格なんてない。
ハチに合わせる顔がない。
結局、私は自分のことしか考えていないんだ。
私は……最低な人間だ――
*
六時五十分。
β世界のハチと、約束をした時間。
私の目の前には、現実世界のハチがいる。
ゆっくりとした寝息を立てながら、穏やかな顔で眠っている。
いくつもつながれていた管が外され、少しすっきりした姿になっていた。
もうすぐ目を覚ますのかもしれない。そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
今頃、β世界のハチはどうしてるだろう。
河原で、一人で私を待っているんだろうか。
ハチのことだから、きっと来ない私を心配して、必死に探すのかもしれない。
ごめんね、ハチ。
本当は会いに行きたかった。
でも、怖くて行けなかった。
ハチが好きになってくれたのは、β世界の私。
元気で、明るくて、可愛くて素直で、ハチのことをまっすぐに好きになれた私。
でも、現実の私は――
卑怯で、臆病で、醜くて、情けない……ハチの隣に立つ資格なんてない。
短い間だったけど、本当に幸せだった。
ハチと出会えて、好きになってもらえて。
私もハチが大好きだった。
そっと、ハチの頬に手を伸ばす。
――温かい。
β世界で感じた温もりと、まったく同じだ。
目を覚ましたら、ハチはこの世界で生きていく。
きっと、素敵な人に出会って、幸せな未来を歩んでいくんだろう。
でも、その隣にいるのは――私じゃない。
「ハチ、よかったね」
震える声で、そう呟く。
「今までありがとう。さようなら」
ハチの頬から、そっと、手を離す。
それから一度も振り返らずに、私は病室を後にした。




