【第九章】さよならを告げた世界(1)
ハチからの連絡は、β世界にログインしていないと受け取れない。
だから私は、朝、お昼休み、そして仕事が終わったあと、必ずβ世界にログインするようになった。それが毎日のルーティンになっていた。
ハチは「すぐまた会えるよ」と言っていた通り、本当に数日のうちに、東京から実家に戻ってきて、思わず笑ってしまった。
――何、その謎の行動力!
ハチの行動には毎回驚かされるけど、そんな、いつも真っすぐで全力なところも好きだなと思ってしまう。
実家に戻ったハチとは、毎日β世界でデートを重ねている。
そして、いつの間にかハチは、窪くんのラーメン屋さんで働き始めていた。
――だから、何、その謎の行動力!
それから数日、私とハチは、仕事の終わりに数時間だけ会って、一緒にご飯を食べるのが日課になった。ハチはいつも私の家の前まで送ってくれて、別れ際に優しくキスをしてくれる。
ハチとの時間は本当にあっという間で、あともう少し、ハチと一緒にいたいな……なんて思っていると、不思議と気持ちが伝わるのか、ハチがそっと私を抱きしめてくれる。
「……うちで、お茶でも飲んでく?」
その言葉は、自然と口をついて出た。
ただ、本当に少しお茶を飲みながら、ハチとおしゃべりを楽しみたかっただけ。でも、ハチは突然、慌てた様子でうろたえ始めた。あ、そうか、ママが家にいると思っているのか。
「ママ、家にいないからそんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
慌てるハチの様子がなんだか可愛くて、思わず笑ってしまった。
でも、そんな私の顔を見てもなお、ハチはますます顔を真っ赤に染めて、うろたえ続ける。
あれ? どうして? ……と不思議に思ったところで、ようやく気づいた。「女の子が親のいない家に彼を招く」ということの意味に――。
ち、違うよハチ! そんな深い意味はないんだから!
「無理ならまた別の日でもいいけど……」
急に恥ずかしくなって、逃げるように呟く。
「いや! 無理じゃない。無理じゃないよ。迷惑でなければ……じゃあ少しだけ……」
慌ててそう返すハチ。
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
……ハチと二人きりで部屋いるシチュエーション――それを想像したとたん、私も急にドキドキし始めてしまった。
わああああ! どうしよう、お茶だけ……だよね? 大丈夫だよね?
そんな自分への問いかけが脳内を駆け巡る中、緊張しながらドアを開けた瞬間――
「可琳。やっぱり洵くんと会っていたのね」
後ろから突然、ママの声がした。
驚いて振り返ると、ハチの後ろに、ここにはいないはずのママが立っていた。
ハチが慌てて礼儀正しくママに挨拶をしている。でも私は、そんなハチを気遣う余裕もなく、目の前の現実に頭が真っ白になる。
どうして? どうしてママがこの世界にいるの?
「洵くん。可琳を家まで送ってくれてありがとう。でもごめんなさい、今日はこれから、可琳と二人で話がしたいの」
ママの冷静な声に、私は息を呑んだ。
心臓がぎゅっと締め付けられる。
ハチがこちらを気遣うような視線を向けてくる。「大丈夫だよ」と言いたかった。けれど、言葉が出てこない。
「ごめんね、ハチ」
絞り出すように、そう呟くのが精一杯だった。
彼のしぼんだ背中を見送りながら、私はその場に立ち尽くした。
どこかで私は――この幸せで穏やかな日々が、いつか終わってしまうことに気づいていた。
*
ハチの世界からログアウトした私は、重い気持ちでリビングへ向かう。
ママが無言で紅茶を淹れている後ろ姿を、どう話を切り出せばいいかわからず、ただ見つめていた。
やがて、ママはテーブルに二人分の紅茶を置き、私の前に座った。
「最近ね……可琳、夜ご飯はいらないって言って、夜遅くに適当なものしか食べていないでしょ?」
静かな声が、妙に胸に響いた。
「それに仕事を夜中にして、ここ数日、あまり寝ていないんじゃない?」
――図星だった。
ハチと付き合うようになってから、仕事を早めに切り上げてβ世界へログインし、ログアウトしたあとに残りの仕事を片付ける。そんな毎日を送っていた。私は何も言い返せず、口をきゅっと結ぶ。
すると、ママは紅茶を一口飲み、穏やかに微笑んだ。
「それと実は……可琳がβ世界にログインしていること、ママ、とっくに知ってたのよ」
「え?」
驚いて、私はぽかんと口を開けてしまう。
「まさか可琳が、あのシステムを突破するとはね。さすが私の娘――って、ちょっと思ったわ」
「……前から知ってたの? 私がハチの世界で、ハチと会ってること」
ママは静かに頷いた。
「ママはあのシステムを八幡くんから頼まれてたから――と言っても、特に何かをするわけじゃなくて、ただ動作が正常か時々確認するくらいだったけど。ずっと前から、可琳がシステムに侵入しようとしている形跡があることは知ってたの。でも、まさか本当に突破するなんて思わなかった」
ママの言葉がじわりと響く。私の考えも行動も、ずっとママに筒抜けだったんだ。
「……どうしてハチのお父さんは、ハチの世界を閉じてしまったの?」
声が震えた。
「私はずっと、ハチに会いたかったんだよ? あの世界が大好きだったんだよ? ママも知ってるでしょ?」
ママは静かに私を見つめる。
「あなたが、あの世界に依存しないように。あの世界はあくまでも洵くんのための世界であって、あなたの居場所ではないからよ。八幡くんが……可琳のためを思ってしたことだったの」
その理屈はわかる。あの世界は現実ではない。
――でも。
「また……私からハチを奪うの?」
声が震え、喉の奥からかすれるように言葉が漏れた。
ママの顔には戸惑いが浮かび、私を見つめる。
「可琳……」
ママの顔を見た瞬間、心が締め付けられた。
ママは私を心配してくれている。
わかってる。そんなの、ずっとわかってる。
だけど、それでも――。
「仕事はちゃんとする。夜ご飯もきちんと食べるようにする。だから……私から、ハチを奪わないで」
私は必死に言葉を絞り出す。
ママの瞳が揺れる。その表情には、迷いが滲んでいた。
「ねぇ可琳」
ゆっくりと、ママが口を開く。
「あの世界でどんなに洵くんと親しくなろうとも、現実の洵くんは……ずっと眠ったままなのよ? あの世界はとてもリアルだけれど、虚像でしかないの」
心がぎゅっと痛くなる。
「……わかってる」
私は力なく呟く。
「そんなこと……とっくにわかってる」
涙が溢れそうだった。
でも、私はママを見据えて言った。
「それでも私は、ハチが大好きなの。ハチと一緒にいたいの。あの世界とハチは、私にとって必要なの。私が、私でいられる唯一の場所なの。だからお願い……私から、ハチと、あの世界を奪わないで」
二人の間に、沈黙が落ちた。
しばらくして、ママがぽつりと呟く。
「……そんなに、現実は嫌?」
私は息を呑んだ。俯いて、そして静かに答える。
「……あんまり、好きじゃない。ハチの世界は現実と違って、どこまでも優しいから……」
「可琳……」
私はゆっくりと顔を上げる。
「確かに、ハチと会うことは現実逃避かもしれない。でもね、ちゃんと現実にも、大好きで大切な人がいる。ママだってそうだよ」
ママの瞳を見つめると、張り詰めていたママの表情が、少しだけ和らぐ。
「ちゃんと現実の世界で生きていくから、だからお願い。ハチと一緒に過ごせる時間を、私から奪わないで」
沈黙の中に、ほどなくして温もりを感じる。
ママは、一度大きく息をついてから、優しく微笑んだ。
「可琳がβ世界のリスクをきちんと理解した上で洵くんと会うのならば問題ないわ。依存するほどのめりこまないように。身体も大切にね」
ママの言葉に、胸が熱くなる。
「守れないようだったら、ママは何度でもβ世界に行ってお説教するんだから」
――やっぱりママは、大好きなママだ。
私はふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。
「もしかして私達のこと監視して、いいところで邪魔しにくるとか?」
「やーね。ママ、そんな野暮なことはしないわ!」
そう言いながら、ママは少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「……で、洵くんとは今、どんな関係なの?」
「こないだ告白されて……えっと……付き合ってます……」
一瞬、ママの目が丸くなる。
「まあ!」
驚きと、喜びが入り混じった声が上がる。
「おめでとう! 可琳からそんな話を聞くなんて初めてじゃない? うちに連れていらっしゃいって言えないのが残念ね」
「ママが会いにきて」
「ふふ。そのうちね」
穏やかに微笑むママを見て、私はほっとする。だけど――
「今日、お邪魔しちゃったばっかりだし」
そう言われた瞬間、さっきの出来事がフラッシュバックして、私の顔は一気に熱くなった。
「ママ、どこから話きいてたの?」
恐る恐る訊ねると、ママはあっさりと言った。
「あなたが洵くんを家に誘うあたりからよ」
「わああああ……」
恥ずかしさに耐えられなくなって、私は両手で顔を覆った。
*
翌日、私は朝とお昼のログインをやめて、溜まっていた仕事を片付けた。
「よし! 今日の仕事終了!」
パソコンの電源を落とし、うーんと伸びをする。
めちゃめちゃ頑張ったおかげで、ほぼ定時で終わることができた。
これで堂々とハチに会いに行ける!
私は意気揚々とキッチンへ向かい、晩御飯の準備を始める。
自分の分を食べてから、ママにメッセージを送る。
『晩ご飯作っといたよ。温めて食べてね。これからハチに会いに行ってきます』
ママ対策も完璧!
私は満を持して、β世界へログインした。




